歌舞伎町青宵ポリ

 歌舞伎町の喧騒から少し外れた、湿った空気の漂う裏路地。


 MIUはユウキの少し後ろを歩きながら、ふと足を止めた。

 目の前には、見覚えのある無機質な外壁のマンションがそびえている。


「……あ、ここ。前、レンくんが住んでたマンションだよ」


 MIUの声には、かすかな懐かしさが混じっていた。

 道端でボロボロになっていた自分を、レンが半ば強引に連れ帰った場所。

 何もないワンルームのベッドで、震える自分を抱きしめながら、


『全部、溶かしてやる』


 そう言ってくれた、二人の始まりの場所だった。

 今はもう、誰も住んでいないはずだった。


 けれどその時、重たいエントランスの扉がゆっくりと開く。


「……っ」


 現れたのは、見間違えるはずもない金髪だった。

 黒いベロアのジャージを揺らしながら、レンがマンションの中へ吸い込まれていく。


 MIUは息を呑んだ。

 心臓が、不自然なくらい速く脈打つ。


 四人での生活は、夢みたいだった。

 カイが髪を整えてくれて、ユウキが甘いラテを淹れてくれる。

 あたたかくて、優しくて、穏やかで。

 だからこそ、その“完璧さ”が、胸の奥の澱を静かに掻き回す。


 シェアハウスにしたのは、自分がレンの邪魔だったからじゃないか。

 自分がいることで、彼の生活を歪めてしまっていたんじゃないか。


 ネイルの欠けた指先が、ユウキの袖口を掴みそこねた。


「……MIU」


 隣で、ユウキが静かに彼女を呼ぶ。

 メガネの奥の瞳が、MIUの視線の先と、その震える手を見つめていた。

 ユウキは、そっとMIUの拳を包み込む。


「……何か用事があるんだろう。まだ荷物が残っているのかもしれない」


 低く落ち着いた声が、暴走しかけた思考をゆっくり現実へ戻していく。


「帰ってきたら聞けばいい。レンは、お前に嘘をつく男じゃないだろ」


「……うん……」


 MIUは小さく頷いた。

 ユウキの手の温度を確かめるように、指先へ少しだけ力を込める。


「帰ろう。カイも、そろそろ仕事から戻ってる頃だ」


 ユウキに肩を抱かれながら歩き出しても、背後に残されたマンションの影は、ずっと視界の端にこびりついていた。


 切り離したはずの過去みたいに。





 シェアハウスのリビングには、コンビニ弁当の空き容器と、カイが淹れた紅茶の甘い香りが残っていた。


 ユウキはそのままBARの夜勤へ向かい、今はカイが鼻歌混じりに洗い物をしている。


「あー、今日のアイスも美味かったね、MIUちゃん」


「……うん、そうだね」


 ソファに座るMIUは、膝の上で自分の指をいじりながら、上の空で返事をした。

 脳裏に焼き付いて離れないのは、昼間見たレンの背中。


 聞けばいい。


『前のマンションにいたの見たよ』


 たったそれだけ。

 なのに、言葉が喉の奥で固まる。


 もし、自分が重荷だから部屋を残しているのだとしたら。


 もし、四人の生活が“仮”だったとしたら。


 考えるほど、胸の奥が冷えていく。


 そこへ、玄関の鍵が開く音が響いた。


「ただいま」


 レンだった。


 少し疲れた様子でリビングへ入ってきたレンは、MIUを見つけた瞬間だけ、表情をふっと和らげる。


「おい、MIU。飯ちゃんと食ったか?」


 どさりと隣へ腰を下ろし、自然な動作で頭に手を置く。

 その大きな掌の熱が、今のMIUにはやけに切なかった。


「……レンくん、おかえり」

「なんだよ、声ちっせぇな。カイに苛められたか?」

「そんなわけないじゃん! 俺、MIUちゃんには世界一優しいもん!」


 キッチンからカイが声を飛ばす。

 レンはそれを聞き流し、じっとMIUの顔を覗き込んだ。

 何も言わず、前髪を親指で払う。


「……MIU。お前なんか変だぞ。どうした?」


 声色が、一段柔らかくなる。

 MIUの胸がぎゅっと締め付けられた。


 今なら聞ける。


 けれど、もし壊れる答えが返ってきたら。

 そう思った瞬間、怖くなった。


「……なんでもない。ちょっと眠いだけ」


 無理やり口角を上げる。

 紅茶へ手を伸ばしかけ、震える指に気づいてそっと引っ込めた。


 レンは怪訝そうに眉を寄せたまま、しばらく黙ってMIUを見つめていた。

 やがて小さくため息をつき、彼女の肩を引き寄せる。


「……そうかよ。なら今日は早く寝ろ。俺も風呂入ったら行くから」


 その温もりを拒めず、MIUは静かに目を閉じた。


 聞けなかった問いは、解消されないまま胸の底へ沈殿していく。


 レンの腕の中にいるのに。

 MIUは今までで一番、彼との距離を遠く感じていた。