歌舞伎町の喧騒から少し外れた、湿った空気の漂う裏路地。
MIUはユウキの少し後ろを歩きながら、ふと足を止めた。
目の前には、見覚えのある無機質な外壁のマンションがそびえている。
「……あ、ここ。前、レンくんが住んでたマンションだよ」
MIUの声には、かすかな懐かしさが混じっていた。
道端でボロボロになっていた自分を、レンが半ば強引に連れ帰った場所。
何もないワンルームのベッドで、震える自分を抱きしめながら、
『全部、溶かしてやる』
そう言ってくれた、二人の始まりの場所だった。
今はもう、誰も住んでいないはずだった。
けれどその時、重たいエントランスの扉がゆっくりと開く。
「……っ」
現れたのは、見間違えるはずもない金髪だった。
黒いベロアのジャージを揺らしながら、レンがマンションの中へ吸い込まれていく。
MIUは息を呑んだ。
心臓が、不自然なくらい速く脈打つ。
四人での生活は、夢みたいだった。
カイが髪を整えてくれて、ユウキが甘いラテを淹れてくれる。
あたたかくて、優しくて、穏やかで。
だからこそ、その“完璧さ”が、胸の奥の澱を静かに掻き回す。
シェアハウスにしたのは、自分がレンの邪魔だったからじゃないか。
自分がいることで、彼の生活を歪めてしまっていたんじゃないか。
ネイルの欠けた指先が、ユウキの袖口を掴みそこねた。
「……MIU」
隣で、ユウキが静かに彼女を呼ぶ。
メガネの奥の瞳が、MIUの視線の先と、その震える手を見つめていた。
ユウキは、そっとMIUの拳を包み込む。
「……何か用事があるんだろう。まだ荷物が残っているのかもしれない」
低く落ち着いた声が、暴走しかけた思考をゆっくり現実へ戻していく。
「帰ってきたら聞けばいい。レンは、お前に嘘をつく男じゃないだろ」
「……うん……」
MIUは小さく頷いた。
ユウキの手の温度を確かめるように、指先へ少しだけ力を込める。
「帰ろう。カイも、そろそろ仕事から戻ってる頃だ」
ユウキに肩を抱かれながら歩き出しても、背後に残されたマンションの影は、ずっと視界の端にこびりついていた。
切り離したはずの過去みたいに。
◇
シェアハウスのリビングには、コンビニ弁当の空き容器と、カイが淹れた紅茶の甘い香りが残っていた。
ユウキはそのままBARの夜勤へ向かい、今はカイが鼻歌混じりに洗い物をしている。
「あー、今日のアイスも美味かったね、MIUちゃん」
「……うん、そうだね」
ソファに座るMIUは、膝の上で自分の指をいじりながら、上の空で返事をした。
脳裏に焼き付いて離れないのは、昼間見たレンの背中。
聞けばいい。
『前のマンションにいたの見たよ』
たったそれだけ。
なのに、言葉が喉の奥で固まる。
もし、自分が重荷だから部屋を残しているのだとしたら。
もし、四人の生活が“仮”だったとしたら。
考えるほど、胸の奥が冷えていく。
そこへ、玄関の鍵が開く音が響いた。
「ただいま」
レンだった。
少し疲れた様子でリビングへ入ってきたレンは、MIUを見つけた瞬間だけ、表情をふっと和らげる。
「おい、MIU。飯ちゃんと食ったか?」
どさりと隣へ腰を下ろし、自然な動作で頭に手を置く。
その大きな掌の熱が、今のMIUにはやけに切なかった。
「……レンくん、おかえり」
「なんだよ、声ちっせぇな。カイに苛められたか?」
「そんなわけないじゃん! 俺、MIUちゃんには世界一優しいもん!」
キッチンからカイが声を飛ばす。
レンはそれを聞き流し、じっとMIUの顔を覗き込んだ。
何も言わず、前髪を親指で払う。
「……MIU。お前なんか変だぞ。どうした?」
声色が、一段柔らかくなる。
MIUの胸がぎゅっと締め付けられた。
今なら聞ける。
けれど、もし壊れる答えが返ってきたら。
そう思った瞬間、怖くなった。
「……なんでもない。ちょっと眠いだけ」
無理やり口角を上げる。
紅茶へ手を伸ばしかけ、震える指に気づいてそっと引っ込めた。
レンは怪訝そうに眉を寄せたまま、しばらく黙ってMIUを見つめていた。
やがて小さくため息をつき、彼女の肩を引き寄せる。
「……そうかよ。なら今日は早く寝ろ。俺も風呂入ったら行くから」
その温もりを拒めず、MIUは静かに目を閉じた。
聞けなかった問いは、解消されないまま胸の底へ沈殿していく。
レンの腕の中にいるのに。
MIUは今までで一番、彼との距離を遠く感じていた。
MIUはユウキの少し後ろを歩きながら、ふと足を止めた。
目の前には、見覚えのある無機質な外壁のマンションがそびえている。
「……あ、ここ。前、レンくんが住んでたマンションだよ」
MIUの声には、かすかな懐かしさが混じっていた。
道端でボロボロになっていた自分を、レンが半ば強引に連れ帰った場所。
何もないワンルームのベッドで、震える自分を抱きしめながら、
『全部、溶かしてやる』
そう言ってくれた、二人の始まりの場所だった。
今はもう、誰も住んでいないはずだった。
けれどその時、重たいエントランスの扉がゆっくりと開く。
「……っ」
現れたのは、見間違えるはずもない金髪だった。
黒いベロアのジャージを揺らしながら、レンがマンションの中へ吸い込まれていく。
MIUは息を呑んだ。
心臓が、不自然なくらい速く脈打つ。
四人での生活は、夢みたいだった。
カイが髪を整えてくれて、ユウキが甘いラテを淹れてくれる。
あたたかくて、優しくて、穏やかで。
だからこそ、その“完璧さ”が、胸の奥の澱を静かに掻き回す。
シェアハウスにしたのは、自分がレンの邪魔だったからじゃないか。
自分がいることで、彼の生活を歪めてしまっていたんじゃないか。
ネイルの欠けた指先が、ユウキの袖口を掴みそこねた。
「……MIU」
隣で、ユウキが静かに彼女を呼ぶ。
メガネの奥の瞳が、MIUの視線の先と、その震える手を見つめていた。
ユウキは、そっとMIUの拳を包み込む。
「……何か用事があるんだろう。まだ荷物が残っているのかもしれない」
低く落ち着いた声が、暴走しかけた思考をゆっくり現実へ戻していく。
「帰ってきたら聞けばいい。レンは、お前に嘘をつく男じゃないだろ」
「……うん……」
MIUは小さく頷いた。
ユウキの手の温度を確かめるように、指先へ少しだけ力を込める。
「帰ろう。カイも、そろそろ仕事から戻ってる頃だ」
ユウキに肩を抱かれながら歩き出しても、背後に残されたマンションの影は、ずっと視界の端にこびりついていた。
切り離したはずの過去みたいに。
◇
シェアハウスのリビングには、コンビニ弁当の空き容器と、カイが淹れた紅茶の甘い香りが残っていた。
ユウキはそのままBARの夜勤へ向かい、今はカイが鼻歌混じりに洗い物をしている。
「あー、今日のアイスも美味かったね、MIUちゃん」
「……うん、そうだね」
ソファに座るMIUは、膝の上で自分の指をいじりながら、上の空で返事をした。
脳裏に焼き付いて離れないのは、昼間見たレンの背中。
聞けばいい。
『前のマンションにいたの見たよ』
たったそれだけ。
なのに、言葉が喉の奥で固まる。
もし、自分が重荷だから部屋を残しているのだとしたら。
もし、四人の生活が“仮”だったとしたら。
考えるほど、胸の奥が冷えていく。
そこへ、玄関の鍵が開く音が響いた。
「ただいま」
レンだった。
少し疲れた様子でリビングへ入ってきたレンは、MIUを見つけた瞬間だけ、表情をふっと和らげる。
「おい、MIU。飯ちゃんと食ったか?」
どさりと隣へ腰を下ろし、自然な動作で頭に手を置く。
その大きな掌の熱が、今のMIUにはやけに切なかった。
「……レンくん、おかえり」
「なんだよ、声ちっせぇな。カイに苛められたか?」
「そんなわけないじゃん! 俺、MIUちゃんには世界一優しいもん!」
キッチンからカイが声を飛ばす。
レンはそれを聞き流し、じっとMIUの顔を覗き込んだ。
何も言わず、前髪を親指で払う。
「……MIU。お前なんか変だぞ。どうした?」
声色が、一段柔らかくなる。
MIUの胸がぎゅっと締め付けられた。
今なら聞ける。
けれど、もし壊れる答えが返ってきたら。
そう思った瞬間、怖くなった。
「……なんでもない。ちょっと眠いだけ」
無理やり口角を上げる。
紅茶へ手を伸ばしかけ、震える指に気づいてそっと引っ込めた。
レンは怪訝そうに眉を寄せたまま、しばらく黙ってMIUを見つめていた。
やがて小さくため息をつき、彼女の肩を引き寄せる。
「……そうかよ。なら今日は早く寝ろ。俺も風呂入ったら行くから」
その温もりを拒めず、MIUは静かに目を閉じた。
聞けなかった問いは、解消されないまま胸の底へ沈殿していく。
レンの腕の中にいるのに。
MIUは今までで一番、彼との距離を遠く感じていた。

