歌舞伎町の入り口。
靖国通り沿いのビル脇。室外機の熱風が、狭い通路にこもっていた。
美容サロンの従業員口から少し離れた場所で、カイは絶望に近い溜息を噛み殺していた。
「だから、母さん。連絡もしないで急に来ないでって言ったじゃん。
仕事中だし。もう二十歳過ぎた大人なんだよ、俺は」
「何言ってるの。新しい職場のお祝いも言えないなんて、お母さん寂しいわよ。ほら、これ。
地元のリンゴジュースと、お米もちゃんと一合ずつ分けてあるから。重かったんだから~」
母・恵子は、タイヤ付きのキャリーの上に大きな紙袋を乗せた。
地方特有の、人懐っこくて、悪気のない空気。
けれど今のカイには、それが何より重苦しい。
靖国通りの車の音が、通路の奥まで反響していた。
彼女にとってこの街は単なる「都会」でしかない。
ここがどれだけ欲望と欠落の吹き溜まりなのかなど、想像もしていなかった。
「いいから今日はもう帰って。これから友達と約束あるんだって」
「あら、いいじゃない。お母さんも挨拶させて。
カイがお世話になってるお友達なら、ちゃんとお礼言わないと」
「いいって! そういうんじゃないから……!」
押し問答をしていた、その時だった。
「……カイ、遅いぞ。何やってんだ」
背後から、レンの声。
振り返ると、そこにはレンとユウキ、そして不安そうにレンの袖を掴むMIUがいた。
「あ……みんな」
カイの顔が引き攣る。
恵子は目を丸くし、三人を順番に見た。
好奇心と、隠しきれない戸惑い。
「こんにちは。カイの同居人のユウキです。いつもお世話になってます」
ユウキが営業用の完璧な笑みを浮かべ、一歩前へ出る。
その洗練された立ち振る舞いに、恵子は少し安心したようだった。
「あら、ご丁寧に。カイの母です。仲良くしてくれてありがとうね。同居人?
カイ、誰かと住んでるなんて聞いてないわよ」
だが、その視線がレンへ移った瞬間、表情がわずかに強張る。
金髪。伸びかけた黒い根元。ジャージ姿。
レンもまた、この女から漂う“まともな家庭”の匂いに、本能的な拒絶感を抱いていた。
そして最後に、恵子の視線はMIUで止まる。
「……あら」
思わず、という声だった。
MIUはこの日のために、先日カイが選んでくれた黒いワンピースを着ていた。
けれど恵子の目には、それが「可愛いお洒落」ではなく、どこか“不健全なもの”として映ったらしい。
「あら~、随分と……スカート短いのねぇ。誰の彼女さんなの?」
悪意はない。
ただの親らしい感覚。
それでも、その言葉はMIUの心へ鋭く刺さった。
答えのない問いに、MIUは反射的にワンピースの裾を握りしめる。
「カイ。お友達って、美容師学校の子たちじゃないの……?」
恵子の声に、わずかな怯えが混ざる。
彼らの纏う“欠けた空気”に、彼女はようやく気づき始めていた。
「……違うよ。でももういいでしょ」
カイが庇うように前へ出る。
だが恵子は、その手を掴んだ。
「ねえカイ。本当にもう無理しなくていいのよ?
こんな……よくわからない場所にいなくても。地元に帰ってきたっていいんだから」
その言葉が、夕暮れの歌舞伎町に場違いなくらい真っ直ぐ響いた。
「お父さんも、あなたが帰ってくれば安心するんだから」
“地元”。
それは、ここではない場所に存在する、“正しい居場所”の象徴だった。
レンが舌打ちする。
ユウキの瞳が、静かに冷たく細まった。
そしてMIUは。
(帰るところが、あるんだ……)
脳裏に、自分を“汚物”みたいに扱った母親の顔が浮かぶ。
カイの母親が向ける、過剰なくらいの愛情と心配。
それは、自分には一生与えられないものだった。
同時に、自分みたいな存在がカイを“まともな世界”から引き離しているのだという、
黒い罪悪感が足元から這い上がってくる。
「……帰ってよ、母さん」
カイの声は、少し震えていた。
◇
改札へ向かう前、恵子は一度だけ振り返る。
「困ったことがあったら、ちゃんと連絡するのよ」
「だから大丈夫だって」
「あなたは昔から、“大丈夫”って言う時ほど無理するんだから」
カイが困ったように笑う。
少し離れた場所で待っていたレンは、露骨に視線を逸らしていた。
その隣で、MIUは俯いたまま何も言えない。
ユウキだけが静かに会釈をした。
恵子は三人を見て、何か言いかけて、結局飲み込む。
「……じゃあね」
小さく手を振り、改札へ向かおうとした時だった。
「……また来てやってください」
低い声。
振り返ると、レンが気まずそうに煙草を弄っていた。
「……こいつ、あまちゃんなんで」
ぶっきらぼうな言い方。
なのに恵子は、なぜか少しだけ胸が詰まった。
恵子が去った後に残ったのは、気まずい沈黙だった。
そして、自分たちが“外の世界”から見れば異物なのだという、冷たい現実。
MIUは、自分の細い指を見つめたまま小さく震えていた。
予定していた外飲みは、そのまま立ち消えになった。
カイが押し付けられたリンゴジュース、土付きの大根、そして五キロの米袋。
それらを抱えて夜の街を歩くのは、あまりにも場違いで、滑稽だった。
結局、コンビニで酒と弁当を買い込み、四人は逃げるようにシェアハウスへ戻る。
「よいしょ……っと。これ、みんなも好きに食べてね」
カイが努めて明るく振る舞いながら、野菜を冷蔵庫へ押し込む。
だが、誰も続かなかった。
「……カイ」
レンがコンビニ袋を丸テーブルへ置きながら呟く。
「この部屋、炊飯器ねえよ」
静寂が落ちた。
四人の生活は、コンビニ飯と酒、その場しのぎの快楽で回っていた。
“米を炊く”。
そんな慎ましく真っ当な生活の音は、この部屋のどこにも存在していなかった。
「あ……そっか。鍋とかで炊けるかな」
カイの笑顔が、かえって痛々しい。
その背後にある“普通の親心”が、この部屋の異常さを照らしていた。
「……カイくんのお母さん、帰ってきなさいって言ってたけど、大丈夫なの?」
MIUの声は震えていた。
“地元に帰ってきたっていいのよ”。
その言葉が、まだ頭から離れない。
「いつものことだから大丈夫!
俺、どこにもいなくならないから。MIUちゃん、そんな顔しないでよ」
カイが慌てて肩へ触れる。
けれど今のMIUには、その優しさが、自分をここへ縛り付ける鎖みたいにも感じられた。
「……なんか嫌なババアだな、お前の母親」
ソファへ沈み込んだレンが、天井を見たまま吐き捨てる。
「あんな“私はいい母親です”みたいな顔して、言いたい放題かよ。反吐が出る」
「レンくん、言い過ぎだよ……」
「言い過ぎじゃねぇよ。俺、最後、挨拶ちゃんとしたし」
レンの敵意は、自分たちの居場所を守るための防衛本能だった。
カイは苦笑いしながら、オレンジのビーズクッションへ沈み込む。
「ごめんって。俺もビックリしたんだよ。連絡なしで急に来てさ。
……あるじゃん、そういうの」
「ねぇよ。親いねぇし」
「え、あ、ごめん……」
空気が止まる。
ユウキは、その輪から少し離れた場所で静かにグラスを磨いていた。
彼は見ていた。
MIUがワンピースの裾を、関節が白くなるほど強く握りしめていることを。
カイの“いなくならない”という言葉が、今のMIUには重すぎることを。
そして、“愛”という善意が、この共同体を少しずつ壊し始めていることを。
ユウキは何も言わない。
ただ、自分のグラスへ強い酒を注いだ。
「……とりあえず今日は飲もう。カイ、そのジュース貸せ。酒で割れば、うまいだろ」
その言葉で、無理やり宴が始まる。
けれど床へ置かれたままの米袋だけは、ずっと部屋の中心に居座り続けていた。
まるで彼らへ突きつけられた、“普通の幸せ”からの最後通牒みたいに。
靖国通り沿いのビル脇。室外機の熱風が、狭い通路にこもっていた。
美容サロンの従業員口から少し離れた場所で、カイは絶望に近い溜息を噛み殺していた。
「だから、母さん。連絡もしないで急に来ないでって言ったじゃん。
仕事中だし。もう二十歳過ぎた大人なんだよ、俺は」
「何言ってるの。新しい職場のお祝いも言えないなんて、お母さん寂しいわよ。ほら、これ。
地元のリンゴジュースと、お米もちゃんと一合ずつ分けてあるから。重かったんだから~」
母・恵子は、タイヤ付きのキャリーの上に大きな紙袋を乗せた。
地方特有の、人懐っこくて、悪気のない空気。
けれど今のカイには、それが何より重苦しい。
靖国通りの車の音が、通路の奥まで反響していた。
彼女にとってこの街は単なる「都会」でしかない。
ここがどれだけ欲望と欠落の吹き溜まりなのかなど、想像もしていなかった。
「いいから今日はもう帰って。これから友達と約束あるんだって」
「あら、いいじゃない。お母さんも挨拶させて。
カイがお世話になってるお友達なら、ちゃんとお礼言わないと」
「いいって! そういうんじゃないから……!」
押し問答をしていた、その時だった。
「……カイ、遅いぞ。何やってんだ」
背後から、レンの声。
振り返ると、そこにはレンとユウキ、そして不安そうにレンの袖を掴むMIUがいた。
「あ……みんな」
カイの顔が引き攣る。
恵子は目を丸くし、三人を順番に見た。
好奇心と、隠しきれない戸惑い。
「こんにちは。カイの同居人のユウキです。いつもお世話になってます」
ユウキが営業用の完璧な笑みを浮かべ、一歩前へ出る。
その洗練された立ち振る舞いに、恵子は少し安心したようだった。
「あら、ご丁寧に。カイの母です。仲良くしてくれてありがとうね。同居人?
カイ、誰かと住んでるなんて聞いてないわよ」
だが、その視線がレンへ移った瞬間、表情がわずかに強張る。
金髪。伸びかけた黒い根元。ジャージ姿。
レンもまた、この女から漂う“まともな家庭”の匂いに、本能的な拒絶感を抱いていた。
そして最後に、恵子の視線はMIUで止まる。
「……あら」
思わず、という声だった。
MIUはこの日のために、先日カイが選んでくれた黒いワンピースを着ていた。
けれど恵子の目には、それが「可愛いお洒落」ではなく、どこか“不健全なもの”として映ったらしい。
「あら~、随分と……スカート短いのねぇ。誰の彼女さんなの?」
悪意はない。
ただの親らしい感覚。
それでも、その言葉はMIUの心へ鋭く刺さった。
答えのない問いに、MIUは反射的にワンピースの裾を握りしめる。
「カイ。お友達って、美容師学校の子たちじゃないの……?」
恵子の声に、わずかな怯えが混ざる。
彼らの纏う“欠けた空気”に、彼女はようやく気づき始めていた。
「……違うよ。でももういいでしょ」
カイが庇うように前へ出る。
だが恵子は、その手を掴んだ。
「ねえカイ。本当にもう無理しなくていいのよ?
こんな……よくわからない場所にいなくても。地元に帰ってきたっていいんだから」
その言葉が、夕暮れの歌舞伎町に場違いなくらい真っ直ぐ響いた。
「お父さんも、あなたが帰ってくれば安心するんだから」
“地元”。
それは、ここではない場所に存在する、“正しい居場所”の象徴だった。
レンが舌打ちする。
ユウキの瞳が、静かに冷たく細まった。
そしてMIUは。
(帰るところが、あるんだ……)
脳裏に、自分を“汚物”みたいに扱った母親の顔が浮かぶ。
カイの母親が向ける、過剰なくらいの愛情と心配。
それは、自分には一生与えられないものだった。
同時に、自分みたいな存在がカイを“まともな世界”から引き離しているのだという、
黒い罪悪感が足元から這い上がってくる。
「……帰ってよ、母さん」
カイの声は、少し震えていた。
◇
改札へ向かう前、恵子は一度だけ振り返る。
「困ったことがあったら、ちゃんと連絡するのよ」
「だから大丈夫だって」
「あなたは昔から、“大丈夫”って言う時ほど無理するんだから」
カイが困ったように笑う。
少し離れた場所で待っていたレンは、露骨に視線を逸らしていた。
その隣で、MIUは俯いたまま何も言えない。
ユウキだけが静かに会釈をした。
恵子は三人を見て、何か言いかけて、結局飲み込む。
「……じゃあね」
小さく手を振り、改札へ向かおうとした時だった。
「……また来てやってください」
低い声。
振り返ると、レンが気まずそうに煙草を弄っていた。
「……こいつ、あまちゃんなんで」
ぶっきらぼうな言い方。
なのに恵子は、なぜか少しだけ胸が詰まった。
恵子が去った後に残ったのは、気まずい沈黙だった。
そして、自分たちが“外の世界”から見れば異物なのだという、冷たい現実。
MIUは、自分の細い指を見つめたまま小さく震えていた。
予定していた外飲みは、そのまま立ち消えになった。
カイが押し付けられたリンゴジュース、土付きの大根、そして五キロの米袋。
それらを抱えて夜の街を歩くのは、あまりにも場違いで、滑稽だった。
結局、コンビニで酒と弁当を買い込み、四人は逃げるようにシェアハウスへ戻る。
「よいしょ……っと。これ、みんなも好きに食べてね」
カイが努めて明るく振る舞いながら、野菜を冷蔵庫へ押し込む。
だが、誰も続かなかった。
「……カイ」
レンがコンビニ袋を丸テーブルへ置きながら呟く。
「この部屋、炊飯器ねえよ」
静寂が落ちた。
四人の生活は、コンビニ飯と酒、その場しのぎの快楽で回っていた。
“米を炊く”。
そんな慎ましく真っ当な生活の音は、この部屋のどこにも存在していなかった。
「あ……そっか。鍋とかで炊けるかな」
カイの笑顔が、かえって痛々しい。
その背後にある“普通の親心”が、この部屋の異常さを照らしていた。
「……カイくんのお母さん、帰ってきなさいって言ってたけど、大丈夫なの?」
MIUの声は震えていた。
“地元に帰ってきたっていいのよ”。
その言葉が、まだ頭から離れない。
「いつものことだから大丈夫!
俺、どこにもいなくならないから。MIUちゃん、そんな顔しないでよ」
カイが慌てて肩へ触れる。
けれど今のMIUには、その優しさが、自分をここへ縛り付ける鎖みたいにも感じられた。
「……なんか嫌なババアだな、お前の母親」
ソファへ沈み込んだレンが、天井を見たまま吐き捨てる。
「あんな“私はいい母親です”みたいな顔して、言いたい放題かよ。反吐が出る」
「レンくん、言い過ぎだよ……」
「言い過ぎじゃねぇよ。俺、最後、挨拶ちゃんとしたし」
レンの敵意は、自分たちの居場所を守るための防衛本能だった。
カイは苦笑いしながら、オレンジのビーズクッションへ沈み込む。
「ごめんって。俺もビックリしたんだよ。連絡なしで急に来てさ。
……あるじゃん、そういうの」
「ねぇよ。親いねぇし」
「え、あ、ごめん……」
空気が止まる。
ユウキは、その輪から少し離れた場所で静かにグラスを磨いていた。
彼は見ていた。
MIUがワンピースの裾を、関節が白くなるほど強く握りしめていることを。
カイの“いなくならない”という言葉が、今のMIUには重すぎることを。
そして、“愛”という善意が、この共同体を少しずつ壊し始めていることを。
ユウキは何も言わない。
ただ、自分のグラスへ強い酒を注いだ。
「……とりあえず今日は飲もう。カイ、そのジュース貸せ。酒で割れば、うまいだろ」
その言葉で、無理やり宴が始まる。
けれど床へ置かれたままの米袋だけは、ずっと部屋の中心に居座り続けていた。
まるで彼らへ突きつけられた、“普通の幸せ”からの最後通牒みたいに。

