歌舞伎町青宵ポリ

「……やだ。行きたくない」


 キングサイズのベッドの海へ深く沈み込み、MIUが毛布を被って抵抗する。

 今日は二週間に一度の通院日。


 精神科の、あの独特の消毒液の匂いと白い壁は、いつだって彼女の心を重くした。


「おい、駄々こねんな。ほら、起きろ」


「レンくん、無理やりはダメだよ。

 ……MIUちゃん、これ、俺のスウェット貸してあげるから。これ着て頑張って行こう?」


 レンが足首を掴んで毛布から引きずり出そうとし、

 カイが柔らかいグレーのスウェットを広げてなだめる。


 ユウキは無言で、通院ポーチへ診察券とお薬手帳、それにMIUが落ち着くためのタブレット菓子を詰め込んでいた。


 歌舞伎町の夜を彩る黒レースのミニドレスは、白昼の待合室には少し毒が強すぎる。

 カイの大きめのスウェットに包まれたMIUは、まるで保護されたばかりの小動物みたいだった。


「……じゃあ、行ってくる」


 レンが半分寝ぼけているMIUの肩を抱き寄せ、部屋を出る。

 不器用ながらも「俺が連れていく」と名乗り出たレンの背中は、どこか誇らしげだった。





 残されたのは、山みたいな洗濯物と、カイとユウキ。


「さて……俺らも仕事すっか」


 二人はあの巨大な青いビニールバッグへ四人分の洗濯物を詰め込み、一階に併設されたコインランドリーへ向かった。


 昼下がりのコインランドリーには、誰のものでもない無機質な時間が流れている。


 洗濯機が回り始めると、重い水音と柔軟剤の甘い香りが狭い室内へ満ちた。

 二人は並んでプラスチックの椅子へ腰かけ、回転する洗濯槽をぼんやり眺める。


「……MIUちゃんの服、全然ないよな」


 カイがぽつりと呟いた。


「ああ。あのドレス以外、まともな私服を持ってなかったからな。

 今は俺たちの服を適当に着回してるが……」


「今度、みんなで買いに出かけてもいいよな。……あ、でも実はさ」


 カイが少しだけ顔を赤くし、視線を泳がせた。


「俺、こないだ仕事の合間に、MIUちゃんに似合いそうなワンピース見つけて

 ……つい買ってきちゃったんだよね」


「ほう。どんなのだ?」


「いや、それがさ。……いざ買ってみたら、すっごい自分の趣味が出ちゃってて。

 なんか渡すの恥ずかしくてさ。棚の奥に隠しちゃってるんだ」


 ユウキは少しだけ口角を上げ、鼻で笑った。


「どうせすぐ見つかるぞ。洗濯物も、しまう場所も一緒なんだから。

 ……隠しておく方が余計に怪しまれる。今のうちに出しておけ」


「……そうだよな。どうせバレるよな」


 洗濯機がガタガタと音を立て、脱水工程へ入る。


「まだ時間あるし、部屋戻って見せてみろよ。

 センスが良ければ、俺からも渡すのを手伝ってやる」


「ちょ、ユウキくん! やめてよ、恥ずかしいって言ってるじゃん!」


「ほら、行くぞ」と立ち上がるユウキと、真っ赤になって拒むカイ。


 洗濯が終わるまでの僅かな時間。


 レンとMIUが不在の部屋で、二人の男は、これから贈る「新しい服」と、それを着て笑う彼女の姿を想像しながら、騒がしく階段を駆け上がっていった。


 光を遮らないレースカーテンに囲まれた四人の生活は、少しずつ、けれど確実に、誰にも邪魔されない色へ染まり始めていた。





 ──数時間後。


 ユウキがBARの夜勤へ出掛け、部屋にはカイが一人、コインランドリーから回収したばかりの温かい洗濯物を畳んでいた。


 そこへ、ガチャリと鍵の開く音がする。


「ただいまぁ、カイくん!」


 玄関から聞こえてきたのは、予想に反して弾んだMIUの声だった。

 通院の後はいつも、魂が抜けたみたいに泥のように眠るか、ひどく落ち込むのが常だった。

 カイは驚いて手を止め、二人を出迎える。


「おかえり! ……えっ、MIUちゃん?

 なんか今日、めちゃくちゃ機嫌よくない?」


「えへへ、わかる?」


 MIUは何か大切な宝物を隠している子供みたいに、唇の端を吊り上げてにやついている。

 隣に立つレンは「俺には何も教えてくれねぇんだわ」と、面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「なになに、なんかいいことあったの?」


「これ見て」


 MIUが差し出してきたスマホの画面。

 そこには、ユウキからのLINEが表示されていた。


『病院がんばったら、カイから特別なプレゼントがあるぞ。内容はカイにきいてみな』


「…………ッ!!!」


 カイの顔が、一瞬で茹で上がったみたいに赤くなった。


 やられた。


「あ、えっと、これは、その……!」


「おいカイ、お前、俺のいねぇ間に何準備してんだよ。見せてみろよ」


 レンまでがニヤニヤしながら詰め寄ってくる。

 もう逃げ場はなかった。


 カイは観念したみたいにベッドの上へ正座し、横のワードローブの奥底から、大事に隠していた紙袋を取り出した。


「……あ、開けるよ?」


 震える手で取り出したのは、

 柔らかな肌触りの黒いオフショルタイプのニットワンピースだった。

 袖口には繊細なレースがあしらわれ、ミニ丈の裾がカイの指先で揺れる。


「……かわいい!」


 MIUの瞳が、ぱっと輝いた。


 それは彼女が普段着ている「戦闘服」みたいな鋭いドレスとは違い、どこか柔らかくて、守りたくなるような温もりのある黒だった。


「MIUちゃん、秋冬物……あんまり持ってなさそうだったから。

 俺の好みだけど、これなら絶対似合うと思って。……えっと、ごめん、勝手に買って」


「ううん、うれしい! ……ねえ、着てみてもいい?」


「ぜ、ぜひお願いします!」


 突如として始まった、病院帰りの衣装合わせ。


 カイとレンが見守る中、MIUはスウェットを脱ぎ捨て、新しいワンピースへ袖を通した。

 オフショルから覗く白い肩。

 ニットの柔らかな曲線。


「……どうかな?」


 少し照れくさそうに首を傾げるMIUを見て、カイは言葉を失った。

 レンは舌打ちをして、視線を逸らしながらも、満足そうに口元を緩めている。


 病院の白い壁の記憶は、このワンピースによって、四人の家の色へ塗り替えられていく。


 回らないミラーボールの下。


 新しい服を纏ったMIUは、まるで暗闇に咲く一輪の毒花みたいに。


 けれど、これまでで一番幸せそうに笑っていた。