歌舞伎町青宵ポリ

 パーティーの翌朝、シェアハウスはひどく静かだった。


 大きな掃き出し窓から差し込む光が、空気中に舞う埃をきらきら照らしている。


 キングサイズのベッドでは、四人が絡まり合うように眠っていた。

 その中心で、MIUはまだ夢の中にいる。


「よし……。MIUちゃん、おはよ」


 最初に動いたのはカイだった。


 彼は明日、新しいヘアサロンでの初出勤を控えている。


 緊張で強張った指先をほぐすように、寝ぼけ眼のMIUを鏡の前へ座らせた。

 鏡の中のMIUは、まだ昨夜の熱を帯びたまま、とろんとした瞳で自分を見つめている。


 カイは大きなメイクボックスを開いた。

 カチャリ、という金属音が、小さな聖域の鐘みたいに響く。


「今日は特別な日だから。俺が、世界で一番可愛くしてあげる」


 カイの細い指が、MIUの黒髪へ触れる。

 アイロンの熱。オイルの甘い香り。


 カイにとって、MIUの髪を整える時間は、自分自身の不安を塗り替えるための儀式でもあった。


 鏡越しに目が合うたび、MIUがくすぐったそうに笑う。

 その笑顔が、カイの細い背中をそっと押した。


「……できた。MIUちゃん、めっちゃ可愛い。これなら、俺も大丈夫だ」


 自分を鼓舞するみたいに呟いた、その背後から。


「おーおー。朝っぱらから見せつけてくれるじゃねぇか」


 低い笑い声が落ちてくる。

 レンだった。

 寝癖のついた金髪を掻き上げながら、気怠そうに現れる。


 その隣には、既に完璧に身支度を整え、全員分のコーヒーを淹れているユウキがいた。


「レン、そんなに睨むな。カイの腕は確かだ」


「わかってんだよ……。でもよ、こんなにMIUを可愛くしやがって」


 レンは舌打ち混じりにMIUを見つめる。


「……おいカイ。前みたいに変なのに絡まれたら、命張って守れよ。いいか?」


 レンは、おめかししたMIUとの「デート」の権利をカイへ譲ったことを、少しだけ引きずっているようだった。


 仕事へ向かう間際、レンはMIUの腰をぐいっと引き寄せ、その首筋へ深く鼻を埋める。


「……行きたくねぇ。危ないことすんなよ」


「うん。レンくん、いってらっしゃい」


 MIUの甘い声に、レンは毒気を抜かれたみたいにため息をつき、ジャージのポケットへ手を突っ込んだまま部屋を出ていった。


 ユウキもまた、静かな視線をMIUへ向ける。


「夜、店で待ってる」


 それだけ言って、ユウキはまたベッドへ倒れ込んだ。

 夜の出勤までは、まだ少し時間があった。


 再び微睡みにのまれながら、視線だけでぼんやりと二人を見送った。





 初めての、カイとMIUの二人きりの外出。


 歌舞伎町の喧騒の中、カイはMIUの細い手をぎゅっと握りしめていた。

 レンに言われた「命を張る」という言葉が、重たい鉄塊みたいに胸へ居座っている。


 自分はレンみたいに喧嘩が強いわけじゃない。

 けれど、この握った手の温かさだけは、絶対に離したくなかった。


「……あ、ゲーセン行こ!」


 MIUが指差したのは、かつて彼女がストゼロを転がして絶望していた、あのゲームセンターだった。


 UFOキャッチャーの前へ立った瞬間、MIUの瞳の色が変わる。


「見てて、カイくん」


 軽やかな指捌きで、アームが獲物を捉える。


「え、MIUちゃんすご!」


 一つ。


 また一つ。


 MIUは魔法使いみたいに、次々と景品を釣り上げていった。


 けれど彼女が狙うのは、決まって手のひらサイズの小さなぬいぐるみや、安っぽいキーホルダーばかりだった。


「MIUちゃん、すごいけど……もっと大きいのにしなくていいの?

 奥のあのデカいクマとかさ」


 カイの問いに、MIUの動きがふっと止まる。


 彼女は取れたばかりの小さな猫のぬいぐるみを愛おしそうに撫で、その布地をぎゅっと握りしめた。


「……大きいのは、隠せないから」


「え?」


「家だとね、お父さんに見つかっちゃうから。ああいうの、ダメだったんだ。

『俺が金出して借りてる家だ』って、『変なもの持ち込むな』って、全部捨てられちゃうの」


 MIUの黒い瞳が、UFOキャッチャーのネオンを虚ろに反射する。


「だから、いつもポケットに入るくらいの小さなものだけ、隠してたんだ」


 家は、安らぐ場所じゃなかった。


 怒鳴る父。

 父に怯え、そのストレスを娘へぶつけることでしか自分を保てなかった母。


「……家から逃げてきて、夜でも明るいここに来た時、私、ちょっと安心したんだ」


 MIUは静かに言う。


「行く宛のない子が、私以外にもいっぱいいるでしょ。

 ここなら、誰にも見つからないで済むかもって」


 歌舞伎町。

 ゴミ溜めみたいな街で、MIUが見つけたのは「自由」ではなく、「埋没」だった。


 カイは、MIUの細い肩が微かに震えているのを見逃さなかった。


 レンやユウキがMIUの「壊れた部分」を愛しているなら。

 自分は彼女の「失われた子供時代」を抱きしめたいと思った。


「MIUちゃん」


 カイは、彼女が取った山みたいな小さな景品を、自分のバッグへ詰め込む。


「これからは、隠さなくていいよ」


 虹色の髪が、ゲームセンターの光を反射して揺れる。


「……シェアハウスの壁、全部MIUちゃんのぬいぐるみでいっぱいにしよう。

 大きいのだって、もう持ってても大丈夫だよ」


 そして、へらっと笑った。


「レンくんに怒られたら、俺が『アートだから』って言い返してあげる」


 その言葉に、MIUは一瞬驚いたように目を丸くした。

 それから、今日一番の笑顔を見せる。


「……うん。いっぱいにしたい」


 小さなぬいぐるみを胸へ抱きしめながら、MIUは照れたように笑った。


「……カイくん、大好き」


 カイの心臓が、どくんと大きく鳴る。


 二人は、小さな戦利品を袋にいっぱい詰め込んで、四人の「家」へ帰り始めた。

 街の視線は、きっと彼らを「奇妙なもの」として見るだろう。


 それでも。


 カイの胸の中には、明日からの仕事へ立ち向かえるだけの、

 ささやかで強固な「宝石」が、確かに灯っていた。