歌舞伎町青宵ポリ

 ──数日後、別の夜。


 コインを全部飲まれた台の前で、レンはしばらく動かなかった。

 画面はもう、ただの光の残骸みたいに点滅している。


 さっきまで、あれに全部預けていた。

 考えることも、明日のことも、自分の価値も。


 当たればいい。

 それだけでよかった。


 外へ出ると、夜風が妙にぬるい。


 現実へ戻されたみたいで、少しだけ息が浅くなる。

 路上へ転がっていた煙草の箱を蹴り飛ばす。


 ポケットのスマホを見る。

 誰に連絡するでもなく、ただ画面をなぞった。


 そのとき、不意に思い出す。


 柔らかい肌と、曖昧に笑う女の顔。

 名前もよく知らないくせに、あいつの前にいるときだけは、頭が静かになった。


 あれも、少し似ていた。

 当たるかどうかもわからないのに、ただ座って、全部預けてしまう感じ。

 でも、台よりは、あいつのほうが──ほんの少しだけ温度があった。


 そんなことを考えながら歩いていた歌舞伎町の裏路地で、レンはMIUを見つけた。


 道端へ崩れ落ち、膝を抱えて震えている。


 過呼吸になっているみたいだった。


「はぁ? MIU……!?」


 レンは慌てて駆け寄り、強く抱きしめる。


「俺だ、レンだ……わかるか? おい。

 息、合わせて……吸って……吐いて……」


 路地の隅で崩れ落ちていたMIUを、レンは半ば強引に抱き上げ、自分のマンションへ連れ帰った。


 何もないワンルームへ敷かれた布団に彼女を横たえる。


 MIUは激しい過呼吸と、酒と、止まらない涙に溺れていた。


「……こないで……っ、私、きたない……っ」


 MIUはレンの腕を振り払おうとしながら、自分の身体を掻きむしる。


 彼女の視線は、どこか別の場所を見ていた。

 虚ろな瞳の奥で、過去の光景がフラッシュバックしている。


「……やめて……」


 誰へ向けているのかわからない声。


 ──うるさい。


 低い怒鳴り声が、耳の奥で弾ける。


 肩を掴まれる感触。

 冷たい指。

 逃げ場のない空気。


「違う、違うの……」


 息が詰まる。


 空気が薄い。


 肺がうまく動かない。


 ──あんたが悪いんでしょ。


 女の声。


 乾いた、刺すみたいな声。


 視線だけが落ちる。


 スカートの裾。

 震える膝。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 爪が、自分の腕へ食い込む。

 痛いのに、止められない。


 ──はしたない。自業自得よ。


 その言葉が、何度もこびりついて離れない。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……あ、あぁ……」


 苦しみの波が、また押し寄せてくる。


「MIU、落ち着け。何があった?」


 レンは暴れる彼女の細い手首を、優しく、それでも逃がさないよう掴んだ。

 MIUは記憶を失くしたみたいに支離滅裂な言葉を吐きながら、ただ泣き叫び続ける。


「あぁ……っ、生きててごめんなさい……私が……私が悪いから……っ!」


 どれくらい経ったのかわからない。


 レンのシャツは、MIUの涙と汗、そして暴れた拍子にこぼれた水でぐしょぐしょになっていた。

 背中には、パニックになった彼女の爪が食い込み、鋭い痛みが走っている。

 普通なら、とっくに投げ出していてもおかしくない。

 部屋から追い出していても、不思議じゃなかった。


 パチスロで負けた苛立ちも、現実逃避したい気持ちも、この時間の中でどこかへ消えていた。


 ただ、目の前でボロボロに壊れながら泣いているこの女を、一人にしてはいけない。

 その本能だけが、レンをここへ繋ぎ止めていた。


「……汚くねぇよ」


 レンは、疲れ果てて少しだけ動きの鈍くなったMIUを、毛布ごと強く抱きしめた。


「お前が何を見て、何て言われてきたか知らねぇけど……俺にとっては、ただのMIUだ」


 耳元で繰り返される、低くて少しぶっきらぼうな声。


「だから、汚くねぇ」


 母親の冷たい声でもない。

 教師の卑怯な囁きでもない。

 ただ、今の自分をそのまま肯定しようとする、熱い体温だった。


 MIUの呼吸が、ようやく少しずつ整い始める。


 深い闇の中で、レンの金髪が窓から差し込む街灯を反射していた。

 小さな光の道標みたいに見えた。


「……レン……くん……?」

「おう。やっと戻ってきたか」


 レンは、MIUの濡れた頬を乱暴に、けれど愛おしそうに拭った。


 この夜は、きっと何度でも繰り返される。

 そんな気がした。

 それでも、もう離す気にはなれなかった。


 この女のトラウマも、狂気も。

 これから先、何度も訪れるであろうこんな夜も。

 全部、自分の人生へ引き受けるみたいな、狂った覚悟が胸の奥へ沈んでいく。


「……全部、溶かしてやる」


 レンの唇が、MIUの額へそっと落とされた。

 それは契約みたいな、重く静かなキスだった。


 何もないワンルームのベッドへMIUを横たえ、毛布をかける。


 レンは、その手をずっと握り続けていた。


 ──こいつ、こんなもんじゃ終わらねぇだろ。


 自分が何を期待しているのかは、まだよくわかっていなかった。