歌舞伎町青宵ポリ

 歌舞伎町のネオンは、今夜も街を照らし続けていた。


 引っ越してきて数日経ったが、掃き出し窓にはまだカーテンがついていない。

 淡いピンク色の光が、シェアハウスの床へ落ちている。


 雨は止んでいた。


 それなのに、湿った空気だけが部屋に残り、薬の甘い残り香と混ざり合っていた。


 MIUはソファの隅で膝を抱えていた。

 今、部屋には一人しかいない。


 今日は、カイと二人で夜を過ごすはずだった。


『仕事が長引いて少し帰るの遅れちゃう! ほんとにごめん』


 グループチャットへ入った連絡を、何度も見返す。


 そんな日に限って、頭の中はやたらとうるさかった。

 自分の存在を、内側から潰そうとしてくる。


 指先が冷たい。

 爪が掌へ食い込む。


 頭の中では、いつもの声がループしていた。


『汚い』


『いらない子』


『生まれてこなければよかった』


 母の声。

 過去の声。


 父の手が降ってくる気がする。

 ベルトが空を切る音。


 先生の目。

 押さえつけられる腕。


 景色まで鮮明に蘇り、脳が無理やり“再体験”を始める。

 ひとりぼっちの恐怖が、胸の奥を強く締め付けた。


「……だめ、だめ……やめて……」


 震える唇から零れた言葉は、自分自身へ向けられたものだった。


 手が伸びたのは薬箱だった。

 病院で処方された抗うつ剤。

 風邪薬。

 それから、冷蔵庫の中のストロングゼロ。


「どれか……どれかが、私を救ってくれるよね……?」


 最初に飲んだのは抗うつ剤だった。

 いつもより多めの錠剤を掌へ乗せ、一気に喉へ流し込む。


 苦い。

 喉が焼けるみたいだった。


 続けて缶を開け、炭酸とアルコールを流し込む。

 ごく、ごく、と。

 溢れそうな勢いで。


 身体が熱くなった。


 一度は落ち着いた気がした。


 酔いが回ってきている。


 けれど。

 熱いのに、震えが止まらない。

 心臓が早鐘みたいに暴れ始める。


 呼吸が浅い。

 視界が揺れる。

 ネオンの色が滲んでいった。


「……あ……あぁ……」


 ソファから滑り落ち、床へ膝をつく。


 スマホを掴もうとする。

 けれど指がうまく動かない。


「レンくん……ユウキくん……カイく……っ」


 名前を呼ぶ声は掠れ、ほとんど音にならなかった。


 どれくらい時間が経ったのかわからない。

 身体中が固まったみたいだった。

 震えながら、浅い呼吸を繰り返す。


 意識が、ゆっくり遠のいていく。


 そのとき。


 玄関の鍵がガチャリと回る音がした。

 MIUの身体がびくっと跳ねる。


「たまたま、下のコンビニで会ってさ……」


 最初に入ってきたのはレンだった。

 金髪が雨に濡れ、ピンクのジャケットから水滴が落ちている。

 続いて、眼鏡を拭きながらユウキが入ってくる。


「MIUちゃん、ごめんねー!」


 最後にカイが、いつもの明るい声で靴を脱ぎ捨てた。


「MIU!」


 三人の声が重なった瞬間。

 MIUの瞳から涙が溢れた。


 レンが真っ先に駆け寄り、MIUを抱き上げる。


「……っ、冷た……」


 肌が、氷みたいに冷えていた。


「MIU、何したんだよ……!」


 ユウキが素早く空のシートと缶へ目を走らせる。


「抗うつ剤……いつもより多く飲んだな。酒もか」


 カイはMIUの手を握り、その震える指を両手で包み込んだ。


「MIUちゃん……怖かったよね。一人で……ごめん、ごめんね……」


 レンはMIUをソファへ横たえ、そのまま膝へ乗せるように抱き寄せた。

 濡れたジャケットを脱ぎ、自分の体温を直接押し付ける。


「一人にしてごめん。カイの連絡見たとき、すぐ帰ってくりゃよかった」


 MIUの唇が震える。


「……ごめん……なさい……また……壊れちゃって……」


 ユウキが冷たいタオルを用意し、額へ当てた。

 ゆっくり首筋を撫でながら囁く。


「壊れてなんかない。MIUは、ここにいればそれでいい」


 カイは床へ膝をつき、MIUの冷えた足を両手で包み込む。

 何度も息を吹きかけた。


「あったかくなるまで、離さないから……約束したのに。守るって……MIUちゃん、ごめん」


「ユウキ、これ、救急車呼ぶやつか!?」


 レンの声へ、ユウキが静かに返す。


「酒と抗うつ剤。調べた」


 落ち着いた声だった。


「体温調節が乱れてるだけだ。今はまだ、救急車は必要ない」


 そう言いながら、優しくMIUの首筋を撫でる。


「……みんなの熱で、ゆっくり戻せば大丈夫なはずだ。MIU、もう怖くない」


 時間はかかった。


 けれど、MIUの震えと硬直は少しずつ解けていく。

 レンの胸へ顔を埋める。

 ユウキの指が黒髪を梳く。

 カイの吐息が、足の甲へ温かく触れる。


 三つの体温が、MIUを包み込んでいた。


 ネオンの淡い光が、汗で濡れた肌を静かに照らしている。


「……あったかい……」


 レンが額へ唇を押し当て、低く囁く。


「二度とこんな目に遭わせねぇ。一人にさせねぇ。約束、破らねぇから」


 カイが足の甲へ愛おしそうにキスを落とす。

 ユウキは耳元へ温かな息を吹きかけた。

 四つの呼吸が、ゆっくり重なっていく。


 雨の残り香。


 酒の甘い匂い。


 その混ざり合う部屋の中で。


 MIUの心臓は、ようやくみんなのリズムへ溶け始めていた。