歌舞伎町青宵ポリ

 歌舞伎町、雨の路地裏。


 ネオンの残光が水溜まりへ砕け、虹色の破片みたいに揺れている。


 あの夜。

 クラブの暗がりで、三人を目撃してから。

 カイの頭の中は、ずっと彼らの残像で埋め尽くされていた。


 何十人もの髪へ触れても、指先へ残るのはあの三人が纏っていた熱だけだ。

 火傷しそうなほど、鮮烈な熱量。


 雨の中、一人で歩く彼女を見つけたのは、もう偶然じゃない。

 カイ自身、この街の湿った空気の中へ、彼女の匂いを探していた。


「……っ」


 息を呑む。


 濡れた黒髪が白い肌へ張り付き、まるで月光を吸い込んだ絹みたいに透けて見えた。

 急に強くなった雨へ困ったように周囲を見回している。

 その瞳の奥にある、かすかな怯えと渇望。


 それを見た瞬間、カイの理性が音を立てて切れた。


「──こっち、入って!」


 気づけば、細い手首を掴み、自分のいる軒下へ引き込んでいた。

 MIUが驚いて顔を上げる。


 至近距離。


 雨に濡れた虹色の髪。

 黒い瞳だけが、祈るみたいな熱を帯びて彼女を見つめていた。


「……綺麗すぎて、死にたくなるね」


 剥き出しの本音が漏れる。

 MIUが目を丸くした。


 心臓がうるさい。

 顔が焼けるみたいに熱い。


 それでも、掴んだ手は離せなかった。


「あ、ごめん! 変な意味じゃなくて!

 ……その、早くしないといっぱい雨に降られちゃうと思って……つい」


 場違いな告白を隠すみたいに、慌てて言葉を重ねる。


「俺、美容師やってて、カットモデル探してて。

 ……すごい綺麗だなと思って……。

 あ、怪しいやつじゃないから!」


 必死に言い訳を並べながらも、視線だけは離せない。

 冷たい雨音。

 その中で、二人だけの熱が妙に濃く停滞していた。


「どこか、向かってた?」


 震える声で尋ねる。

 MIUは少しだけ毒気を抜かれたみたいに、小さく頷いた。


「……待ち合わせ」


「そっか。……だから、あの大きいお兄さんと金髪のお兄さん、一緒じゃないんだね」


 その瞬間、MIUの肩がびくりと跳ねた。


「え……? なんで……」


「あ、だから変質者とかじゃなくて! この前たまたま見かけてさ。お姉さん綺麗なのはもちろんだけど、あの二人もすげぇ格好良くて……三人の空気が、なんていうか……」


 言葉に詰まる。

 “羨ましかった”。

 それだけは、どうしても言えなかった。


 けれど。

 MIUは初めて、柔らかい笑顔を向けた。


「うん。二人とも、すっごいかっこいいの。私の、大好きな人たち」


 その笑顔が。

 自分へ向けられたものじゃないからこそ、カイの心臓を完全に撃ち抜いた。

 あまりに愛おしくて、思わず笑ってしまう。


「……っ、そっか。いいな、それ」


 へにゃっと笑う。


「怖い人なのかと、ちょっと思ってた」


「えぇ、そんなことないよ」


「なんか安心した。お姉さん、ちゃんと好きな人たちに愛されてる顔してる」


「……なにそれ」


 MIUが少し吹き出す。


「いや、なんかあるじゃん。死にそうな人と、“帰る場所ある”人って」


 カイは慌てて手を振った。


「あ、変な意味じゃなくて!」


「ふふ……変なの」


 その笑顔を見た瞬間。

 カイは、自分もその“特別”の中へ入りたいと願ってしまった。


 そのときだった。


「おーおー、カイじゃん。何、いい女連れてんの?」


 下品な笑い声。

 派手なシャツを崩して着た男たちが、路地を塞ぐ。

 美容室の先輩たちだった。


 カイの顔が、わずかに強張る。


「……あ、お疲れ様っす。えっと、俺らもう行くんで」


「待てよ。お前にはもったいねーだろ、その子。俺らと遊んだ方が楽しいぜ?」


 一人がMIUの手首を掴み、強引に引き寄せようとした。


 MIUの瞳へ怯えが走る。


「あ、ちょっと待ってください。マジでこの子ダメなんで……」


 いつもの軽い調子で割って入る。

 けれど、返ってきたのは拳だった。


「ッ……!」


 みぞおちへ重い衝撃が突き刺さる。

 身体が折れ、そのまま地面へ膝をついた。


「後輩のくせに口答えすんなよ」


「やめて……っ!」


 MIUの悲鳴。

 男たちが彼女を囲み、無理やり連れていこうとする。


 視界が点滅する。

 格闘技なんてやったことない。

 喧嘩も強くない。


 それでも。


 この細い手首だけは、汚されたくなかった。


「待て……っつってんだろ……!」


 立ち上がろうとした瞬間。

 顔面へ、容赦なく靴底が叩き込まれる。

 鼻血が飛び、泥水へ顔が沈んだ。


 何度も蹴られる。

 意識が遠のく。


 ──俺じゃ、守れないのか。


 そのときだった。


「人の女に、何ベタベタ触れてんだよ」


 低い声。

 男たちの動きが止まる。


 路地の入り口。

 二つの影が立っていた。


 一人は、煙草を投げ捨てながら殺気を隠そうともしない金髪の男──レン。

 もう一人は、冷え切った瞳で男たちを射抜くユウキ。


 レンは一瞬で距離を詰めた。

 MIUを掴んでいた腕を捻り上げ、そのまま壁へ叩きつける。


「……あ?」


「ひっ……!」


「俺の許可なくこの子に触っていいの、死にたい奴だけだぞ」


 拳が、迷いなく顔面へめり込む。

 隣ではユウキが、逃げようとした男の首根っこを掴み、そのまま膝蹴りを叩き込んでいた。


 圧倒的だった。

 歌舞伎町の夜へ慣れきった、“本物”の空気。

 男たちは捨て台詞すら吐けず、逃げるように消えていく。


 静まり返った路地。


 レンは震えるMIUを無言で抱き寄せ、その肩を強く抱いた。


 そして。

 二人の視線が、泥水へ転がる“異物”へ向く。


「……で。こいつは何だ?」


 ユウキが冷たく問いかける。

 MIUは涙を拭いながら、必死に説明した。


「えっと……助けてくれたの。ずっと、私を……」


 泥水に塗れたカイは、レンへ抱き寄せられるMIUを見て、自嘲気味に笑った。


 結局。

 守れたのは、自分じゃない。


「……おい。立てるか、虹色」


 レンが鼻で笑いながら、無造作に手を差し出す。


 カイはその手を借りず、壁へ縋りながら立ち上がった。

 口の中へ広がる鉄の味。

 それを吐き捨てながら、へらへらした“仮面”を貼り直す。


「……あは、お邪魔虫っすよね。今日はこのへんで──」


 ふらつきながら去ろうとした背中へ、ユウキの静かな声が落ちた。


「その顔で歩けばまた絡まれるぞ。俺の店来い。手当てくらいはしてやる」


 三人だけだった世界へ。


 招かれざる“色”が混ざり始める。


 冷たい雨の中。

 彼らは連れ立つように、ユウキのBARへ向かっていった。