歌舞伎町青宵ポリ

 薄暗いゲームセンターの片隅。

 誰も見向きもしない場所のベンチに、ぐったりと凭れている女が一人。


 黒レースのミニドレスにはお構いなしに、白い脚が投げ出されている。


 UFOキャッチャーの淡い光が、女の長い黒髪を妖しく照らしていた。

 足元にはストゼロの空き缶が三つ。

 ストローが挿されたまま、転がっている。


 そこに、苛立った様子で現れたのはレンだった。


 金髪の根本は黒く、黒のベロア生地のジャージセットアップがガラの悪い雰囲気を放っている。


 レンは女の前で足を止めた。

 一瞬、獲物を見た獣みたいに息を詰める。


 ──簡単に抱ける。誰も見てない。


 UFOキャッチャーの電子音が、静寂をかえって際立たせていた。

 一瞬だけ、そんな考えがよぎる。


 けれど、目の前の女の頬は真っ赤で、瞳は虚ろだった。

 ベロベロに酔っている。


 レンはその顔を見ながら、今日の大敗を思い出した。


 パチスロで今日も五万負け。

 一週間で三十万。

 プッシャーの稼ぎは悪くない。

 なのに、全部溶かしてしまう。


 ──こいつも、同じくらい負けてる顔してるな。


 レンは近づき、そっと声をかけた。


「……おい、帰れんのか?」


 女がゆっくり顔を上げる。

 大きな黒い瞳が、レンの金髪を捉えた。

 ふっと笑った顔は、意外なくらいあどけない。


「……ねぇ、もうやなの……壊して……?」


 甘く掠れた、囁くような声。

 よろよろと立ち上がり、レンの腕に絡みつく。

 酒と甘い香水の匂いが混ざり、吐息が首筋を湿らせた。


「ホテル……行こ? ……寒いの……」


 彼女の瞳は虚ろなのに、妙に澄んでいた。

 レンは、自分が「加害者」になるはずだったことも、さらに妙な情けをかけたことも、急に馬鹿らしくなった。


 レンは腕を払い、踵を返そうとする。

 けれど再び腕を引かれ、女の唇が近づいてきた瞬間、抵抗できなくなった。


 唇が、軽く触れてくる。


 一度。

 二度。


 逃げようと思えば、いくらでも逃げられた。

 なのに、体が動かなかった。

 自分の方が、引きずり込まれている気がした。


 彼女は必死にレンの腕の下へ自身の手をまわし、美しい顔を首筋へ擦り寄せてくる。

 脳内に直接クるような、いい香りが鼻を抜けた。

 求めていたドーパミンが、一気に弾ける。

 視界が揺れて、気が遠くなる。


 レンが背中に手をまわすと、彼女は身体をびくりと震わせ、「ん……」と甘い息を漏らした。

 その反応に誘われるみたいに、レンの手は下へ這っていく。

 柔らかく丸みのある尻に触れた瞬間、彼女は欲しがるように腰を突き出した。


 求められるまま、レンは強く掴む。


「あッ……」


 二人は監視カメラの死角へ消えていった。


 ラブホテルの扉が強く閉まる。


 レンはベッドへ叩きつけるように彼女を押し倒した。

 互いに服を脱ぎ散らかし、欲望のまま夢中で溶けあう。


「ねぇ、名前……教えて……お願い……んっ……」


 レンは応えなかった。


「……名前呼びたいの……そうしないと消えちゃう……」


「……」


 レンは、かき消すみたいに激しく責め立てる。

 腰を動かすたび、蜜の音と高く甘い喘ぎが部屋に響いた。

 ネオンの赤い光が、汗に濡れた肌を妖しく照らしている。


「やッ……」


 彼女の口が、なにかを言いかけて止まる。


「レン……くん……」


 レンは息を飲んだ。

 名前は教えていないはずだった。


「レンくん……もっと、壊して……ぇ……」


 その瞬間、レンの胸が熱く震えた。


 この夜、レンは何度も溶かした。



 ──翌朝。



 彼女は二日酔いの頭を抱えながら、レンの胸へ顔を埋めて目を覚ました。


「あれ……あったかぁい。……おはよ、レンくん」


 あれだけ酔っていたのに記憶があることへ、レンは少し感心する。


「今、一緒にいてくれて……嬉しい……」


 昨日はじめて抱いた男に、こんなに甘えるかよ。


 名前を知っていたのも、どこかで拾った情報なんじゃないか。

 美人局みたいな展開すら頭をよぎる。

 けれど、今のところ何も起きていない。


「レンって呼ぶの……なんで?」


「名前教えてくれないから……あだ名」


 彼女は無邪気に笑う。


 レンは一瞬、固まった。


 ──あだ名? マジかよ……?


 本当の名前は、もう何年も誰にも言っていない。

 歌舞伎町に来てから捨てた名前。

 プッシャーとして生きるために、過去の自分を切り捨て、偽名で、誰でもない名前で生きてきた。

 なのに、この女は酔った勢いで、ぽろっと呼んだ。


「似合うと思ったんだよね。これからもそう呼んでいい?」


 不思議と、悪くなかった。

 むしろ胸の奥があたたかくなる。

 気持ち悪いくらいだった。


 この子は、俺の捨てた名前を無邪気に拾い上げ、「レンくん」って呼んで笑った。


「……ああ、いいよ。レンで」


 彼女はぱっと顔を上げ、にこっと笑う。


「やった……レンくん大好き……可愛くない? 蓮の花みたいな感じ」


 その瞬間、この名前でもう一度生きていけるかもしれないと思った。

 そんなはずないのに。


 でも、お前がそう呼ぶなら、それでいい。



 その日は時間が許す限り、ラブホテルで二人でだらだら過ごした。


 連絡先を交換して、『MIU』という名前を知って、備え付けのカラオケで歌って、迎え酒して、やりたくなったらまた触れ合った。


 フルネームすら知らない。

 それでも、普通のカップルみたいだった。


 ソファに二人でくっついて座る。

 レンの腕がMIUの腰を抱き、MIUもレンの肩へ身体を預けていた。


 カラオケのデンモクで、MIUが何気なく人気のデュエット曲を入れる。

 レンは「ちょっとそういうのはできないタイプだから」と、MIUが一人で一生懸命二人分歌うのを、からかいながら眺めていた。


「これ、一人足りなくない?」


 そう言って笑うMIUが、やけに無邪気で可愛かった。


 理由はわからない。


 けれど、離れがたかった。


 レンは、新しい人間関係に浮き足立つ自分を感じていた。


 でも、きっとそれも春のせいだ。


 心の中で光った小さなダイヤモンドを、レンはそっとしまい込んだ。