僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

 それから、岸本さんは店に姿を見せなくなった。

 また会ったとき、どんな顔をすればいいのか不安だったけど、そんな機会は訪れなかった。
 
 ほっとする一方で、どうしたんだろうとも思う。
 ふと気になって彼のロッカーを覗くと、中はきれいに空になっていた。
 
 あれ? 辞めたのかな。


 ある日、仕事の合間に他のスタッフへそれとなく聞いてみた。

「やめたらしいよ。店長が相当怒ってたって」と、小声で教えてくれた。

 あの春哉さんが。
 いつも穏やかで優しい人なのに、声を荒げる姿なんて想像もできなかった。

 もしかして、僕のことで……?

 岸本さんから救ってもらったあのときのことが、脳裏によみがえった。

 やさしい声と触れた温もり。ほっとするような心地よさ。

 な、なにを考えてるんだ、僕は。
 浮かんできた思いを追い払うように、軽く頭を振った。

「おはよう、愛翔くん」

 背後から声がして、心臓が跳ねた。

 この声は……。

 そっと振り返ると、そこにいたのは春哉さんだった。
 カウンターの内側に立つ僕の隣をすっと通り過ぎていく。

「お、おはようございます」

 思ったより声が小さくなってしまう。

「まだ緊張してるの?」

 優しい笑みを浮かべた春哉さんが隣に立ち、手際よくコーヒーマシンを調整する。

「ちがいます。その……あの、岸本さんのこと」

 そう口にすると、彼は納得したように軽く頷いた。

「ああ、彼ね。やめてもらったよ」

 何でもないことみたいにさらりと言う。

「い、いいんですか?」

 岸本さんはかなり仕事ができた。いなくなったら、お店が大変なんじゃ……と、つい考えてしまう。

「いいんだよ。愛翔くんは何も心配しないで。
 君の笑顔をみんな待ってるから。ほら、お客さん」

 にこりと笑いながら、フロアを指さす。

 その先へ視線を向けると、女性客がこちらをじっと見ていた。
 目が合うと、恥ずかしそうにさっと目を逸らした。

「愛翔くん、人気あるんだよね。君に辞められると店にとっては痛手だからさ」

 そう言いながら、春哉さんは軽くウインクした。

 頬がかっと熱くなる。
 う、嬉しい。僕を必要だって言ってくれてる。お世辞でもなんでも、その言葉だけで十分だった。

 マシンの調整を終え、「よし」と満足そうに笑う横顔をじっと見つめてしまう。
 その視線に気づいた春哉さんは、少し照れたように微笑んだ。

「うーん。こんなところで見つめ合ってると、お客さんに焼きもちやかれちゃうかな?」

 冗談なのか本気なのか、今度はいたずらっぽくウインクされる。

 トクン、と心臓が跳ねた。

「え! あ、そうですよね。すみません、がんばります」

 ばかばか、せっかく期待されてるのに。
 春哉さんのためにも、がんばるぞ。

 気持ちを切り替えて、僕はお客さんのもとへ向かった。


 それからというもの、春哉さんはなにかと僕を気にかけてくれるようになった。

 女性のお客さんに「かわいいね」と言われて返事に困っていると、すっと横に入ってきて、「彼、まだ新人なんです」とやわらかくかばってくれる。
 男性客に軽く肩を叩かれてたじろいだときも、いつの間にか近くにいて、さりげなく間に入ってくれた。

 その仕草があまりにも自然で嫌味がなくて、気づけば僕だけでなく、周りの人たちまで見惚れていた。

 こんな王子様みたいな人って、本当にいるんだ。

「ありがとう、春哉さん」

 そう言うと、いつもと変わらない穏やかな笑顔が返ってくる。

「気にしなくていいよ。これも俺の仕事だから」

 仕事だとしても、その一言と表情に、胸がかすかに震えた。

 これって、ときめきなのかな。
 守られるたびに心がふわっと浮く。名前を呼ばれるだけで、なにかが弾けるように熱くなる。

 どうしてこんなに……。

 わからない。けど、もう気づいてしまったかもしれない。

 この気持ちは――きっと。

 春哉さんを見るだけで、世界が少し明るく見える。
 その優しさに触れるたび、鼓動はゆっくりと確信へ変わっていった。