自分の気持ちがよくわからない。それでも、日々は過ぎていく。
仕事にも慣れ、常連のお客さんの顔も少しずつ覚え始めた、そんな頃。
午後の休憩時間。
日曜ということもあって、店内はかなり混雑していた。
ずっと動きっぱなしで足が重い。
休憩室の椅子に腰を下ろし、乾いた喉を潤すように水を飲んだ。
ふぅと息をついた、そのとき。
「愛翔くん、休憩中?」
声をかけられて振り向くと、入口のそばに岸本さんがいた。
一瞬、胸がざわつく。
同じバイトの先輩だけど、前から少し苦手だった。
了承した覚えもないのに名前で呼んでくるし、距離感もなんだか近い。
しかも今、この部屋には僕と彼しかいない。
うーん、すごく嫌な予感がしてきた。
「もう、戻りますから」
なるべく早くここから出て行こうと、水を一気に飲み干す。
「焦らなくていいよ。……ねえ、愛翔くんって彼氏いるの?」
思いもよらない質問に、水が変なところに入ってむせた。
か、彼氏って、僕は男だよ。
「い、いませんけど……」
むっとしながら答えると、岸本さんがほくそ笑んだ。
「そっか。じゃあ、俺なんかどう?」
にやつきながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
なに、この感じ。
言葉にできない嫌悪感がじわじわと襲ってきた。
に、逃げなきゃ。
立ち上がろうと腰を浮かせたところで、目の前がふっと陰った。
逃げるより早く肩を押され、壁際へ追い込まれる。背中にひやりとした壁の冷たさが伝わった。
岸本さんの顔が近づいてくる。歪んだ笑みを浮かべた顔が間近に迫り、熱のこもった吐息が頬にかかる。
顔を背け、必死に押し返そうとしたけど、相手の力のほうが強くて逃れられない。
しまった、油断した。
岸本さんって……そういう人だったの?
「ちょ、ちょっと」
必死に絞り出した声は、驚くほど小さかった。
「いいじゃん、ちょっとくらい」
軽い調子の声。けれど、その目は笑っていなかった。
心臓がどくどくと早鐘を打つ。
どうしよう。怖い。
なんで、僕はいつもこんな目に遭うんだろう。
誰か――
きつく目を閉じた。
「岸本さん」
その声に、岸本さんの動きが止まった。
入口のほうを見ると、そこにいたのは春哉さんだった。
穏やかな表情のまま。いや、違う。鋭い眼差しが真っ直ぐ岸本さんを射抜いていた。
「休憩は交代制のはずですよね。持ち場に戻ってください」
いつもより低い声だった。
怒ってるのかな。
岸本さんは気まずそうに肩をすくめ「ああ、悪い」と短く言って、僕から離れた。
そのまま足早に部屋を出ていく。
扉が閉まると、休憩室は静まり返った。
ぎゅっと縮こまっていた心がゆるむ。遅れて手足が震えだし、その場に座り込んでしまった。
あれ? おかしいな。
こういうのには慣れてるはずなのに。もう、前みたいに弱い僕じゃないのに。
『やめてください』
あのときの記憶が、不意によみがえる。
以前、電車で痴漢に遭ったときのことだ。後ろから体に触れられ、押さえつけられて……。
怖くて、動けなかった。
あの嫌な感覚までよみがえり、恐怖がじわじわと全身に広がっていく。
いやだ。やめて、こわい。
誰か、助けて。
自分をぎゅっと抱きしめ、うずくまる。震えが止まらない。
「愛翔くん」
やわらかい声が落とされた。
顔を少し上げると、春哉さんがしゃがみ込んで目線を合わせてくる。
その目はとても優しくて、見ているだけで安心した。
「……大丈夫。もう、大丈夫だから」
言葉が、心にじんわりと染みていく。
ぬくもりが、張り詰めていた気持ちをそっとほどいてくれる。
何も言えずにうつむくと、春哉さんの手が静かに伸びてきた。
反射的にびくっと体が跳ねる。
あ……どうしよう。別に、拒みたいわけじゃないのに、体が勝手に反応してしまう。
春哉さんは一瞬戸惑ったように手を止めた。
僕の様子を確かめるように少し待ってから、今度はゆっくりと抱き寄せてくれた。
トクン、と胸が鳴る。
嫌だという感覚はなかった。
なんでかな。不思議と怖くない。
さっきまでの恐怖も、あのときの嫌な感覚も戻ってこない。それどころか、少しずつ落ち着いていく。
彼から伝わる心音のリズムが、乱れていた鼓動を優しくなだめてくれた。
気がつけば、僕は身を預けていた。
「ごめん。怖い思いをさせてしまって」
春哉さんが苦しげに呟いた。
なんで、春哉さんが謝るんだよ。僕を助けてくれたのに。
胸がじんとして、視界がうっすらと滲む。
痴漢に遭ったときも、さっきも、男の人に触れられるのが怖かった。
でも今は違う。
触れられているのに、抱きしめられているのに、嫌じゃない。
むしろあたたかくて、心の底からほっとしていた。
こんな気持ちになるなんて、思ってもみなかった。
仕事にも慣れ、常連のお客さんの顔も少しずつ覚え始めた、そんな頃。
午後の休憩時間。
日曜ということもあって、店内はかなり混雑していた。
ずっと動きっぱなしで足が重い。
休憩室の椅子に腰を下ろし、乾いた喉を潤すように水を飲んだ。
ふぅと息をついた、そのとき。
「愛翔くん、休憩中?」
声をかけられて振り向くと、入口のそばに岸本さんがいた。
一瞬、胸がざわつく。
同じバイトの先輩だけど、前から少し苦手だった。
了承した覚えもないのに名前で呼んでくるし、距離感もなんだか近い。
しかも今、この部屋には僕と彼しかいない。
うーん、すごく嫌な予感がしてきた。
「もう、戻りますから」
なるべく早くここから出て行こうと、水を一気に飲み干す。
「焦らなくていいよ。……ねえ、愛翔くんって彼氏いるの?」
思いもよらない質問に、水が変なところに入ってむせた。
か、彼氏って、僕は男だよ。
「い、いませんけど……」
むっとしながら答えると、岸本さんがほくそ笑んだ。
「そっか。じゃあ、俺なんかどう?」
にやつきながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
なに、この感じ。
言葉にできない嫌悪感がじわじわと襲ってきた。
に、逃げなきゃ。
立ち上がろうと腰を浮かせたところで、目の前がふっと陰った。
逃げるより早く肩を押され、壁際へ追い込まれる。背中にひやりとした壁の冷たさが伝わった。
岸本さんの顔が近づいてくる。歪んだ笑みを浮かべた顔が間近に迫り、熱のこもった吐息が頬にかかる。
顔を背け、必死に押し返そうとしたけど、相手の力のほうが強くて逃れられない。
しまった、油断した。
岸本さんって……そういう人だったの?
「ちょ、ちょっと」
必死に絞り出した声は、驚くほど小さかった。
「いいじゃん、ちょっとくらい」
軽い調子の声。けれど、その目は笑っていなかった。
心臓がどくどくと早鐘を打つ。
どうしよう。怖い。
なんで、僕はいつもこんな目に遭うんだろう。
誰か――
きつく目を閉じた。
「岸本さん」
その声に、岸本さんの動きが止まった。
入口のほうを見ると、そこにいたのは春哉さんだった。
穏やかな表情のまま。いや、違う。鋭い眼差しが真っ直ぐ岸本さんを射抜いていた。
「休憩は交代制のはずですよね。持ち場に戻ってください」
いつもより低い声だった。
怒ってるのかな。
岸本さんは気まずそうに肩をすくめ「ああ、悪い」と短く言って、僕から離れた。
そのまま足早に部屋を出ていく。
扉が閉まると、休憩室は静まり返った。
ぎゅっと縮こまっていた心がゆるむ。遅れて手足が震えだし、その場に座り込んでしまった。
あれ? おかしいな。
こういうのには慣れてるはずなのに。もう、前みたいに弱い僕じゃないのに。
『やめてください』
あのときの記憶が、不意によみがえる。
以前、電車で痴漢に遭ったときのことだ。後ろから体に触れられ、押さえつけられて……。
怖くて、動けなかった。
あの嫌な感覚までよみがえり、恐怖がじわじわと全身に広がっていく。
いやだ。やめて、こわい。
誰か、助けて。
自分をぎゅっと抱きしめ、うずくまる。震えが止まらない。
「愛翔くん」
やわらかい声が落とされた。
顔を少し上げると、春哉さんがしゃがみ込んで目線を合わせてくる。
その目はとても優しくて、見ているだけで安心した。
「……大丈夫。もう、大丈夫だから」
言葉が、心にじんわりと染みていく。
ぬくもりが、張り詰めていた気持ちをそっとほどいてくれる。
何も言えずにうつむくと、春哉さんの手が静かに伸びてきた。
反射的にびくっと体が跳ねる。
あ……どうしよう。別に、拒みたいわけじゃないのに、体が勝手に反応してしまう。
春哉さんは一瞬戸惑ったように手を止めた。
僕の様子を確かめるように少し待ってから、今度はゆっくりと抱き寄せてくれた。
トクン、と胸が鳴る。
嫌だという感覚はなかった。
なんでかな。不思議と怖くない。
さっきまでの恐怖も、あのときの嫌な感覚も戻ってこない。それどころか、少しずつ落ち着いていく。
彼から伝わる心音のリズムが、乱れていた鼓動を優しくなだめてくれた。
気がつけば、僕は身を預けていた。
「ごめん。怖い思いをさせてしまって」
春哉さんが苦しげに呟いた。
なんで、春哉さんが謝るんだよ。僕を助けてくれたのに。
胸がじんとして、視界がうっすらと滲む。
痴漢に遭ったときも、さっきも、男の人に触れられるのが怖かった。
でも今は違う。
触れられているのに、抱きしめられているのに、嫌じゃない。
むしろあたたかくて、心の底からほっとしていた。
こんな気持ちになるなんて、思ってもみなかった。



