僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

 放課後になった。
 なぜだろう、ちょっと気持ちが浮ついている。

 鞄を肩にかけて教室を出ると、僕は制服のまま自転車で喫茶店へ向かった。

 走っているあいだも鼓動がいつもより速い。
 でも、これは緊張とは少し違う気がする。じゃあ何なのかと聞かれると、よくわからない。

 ああーもう、考えるのやめ!

 胸の奥から湧き上がる甘酸っぱい感覚にぎゅっと蓋をする。
 これ以上考えないように、ハンドルを握り直して前を向いた。


 喫茶店に着くと、自転車を止めて店の扉の前に立つ。
 何度か深呼吸をして、逸る気持ちを落ち着かせた。

 よしっ。
 意を決して扉を開ける。
 店内に足を踏み入れると、心地いいコーヒーの香りに包まれた。

 カウンターの奥では、春哉さんがグラスを拭いている。
 その姿が目に入っただけで、トクンと胸が跳ねて、頬のあたりがじんわり熱を帯びた。

 目にしただけでこれかよ。

 必死に平静を装い、カウンター越しに声をかける。

「お疲れ様です」

 振り向いた春哉さんが、やわらかく目を細めた。

「愛翔くん。昨日はお疲れさま、今日もよろしくね」

 笑顔を向けられただけで、息が詰まりそうになる。

「は、はい! よろしくお願いします」

 ぎこちなく返すと、春哉さんは可笑しそうに口元をゆるめた。

「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。愛翔くんは愛翔くんらしく、ね」

 きらきらした表情と、落ち着いた優しい声。名前を呼ばれるたびに胸がふわっと浮き上がる。

 なんだこれ。
 うまく言葉にならないまま、どうにか声を出した。

「……あ、ありがとうございます」

 視線を逸らしたまま彼の横を通り抜ける。
 すれ違いざま、コーヒーとは違うやわらかな匂いが鼻先をかすめた。

 いい香り。これって……春哉さんの匂い? って、僕は変態か!

 内心で突っ込みながら、ちらりとうかがう。
 色白でまつげも長くて、やっぱり綺麗な顔だなあ。なんて思っていたら、ふいに目が合った。

「どうしたの?」

 にこりと微笑まれ、慌てて首を振る。

「いえ、なんでも」

 そそくさとバックヤードへ逃げ込んだ。
 更衣室に入り、ロッカーの前まで来てようやく足を止める。

 胸に手を当てると、心臓がばくばくとうるさいくらい鳴っている。

 やっぱり……格好いい。

 着替えを済ませ、エプロンの紐をきゅっと結ぶ。
 頬に残る熱を振り払うように、小さく気合を入れた。


 それからバイトが始まった。
 店内はなかなかの繁盛で、ほぼ満席だった。

 フロアを見渡すと、やはり女性客の姿が目につく。テーブル越しにちらちら向けられる視線の先には、春哉さんがいた。

 きっと彼目当ての人も多いんだろうな。
 ……っていっても、僕もつい彼を追ってしまうんだけど。

 カウンター越しにお客さんへ微笑む春哉さん。
 グラスを拭く指先の動きも、穏やかに話す声も、その優しい表情も、気になって仕方ない。見ているだけで胸がくすぐったくなる。

 ぼんやり眺めていると、春哉さんがこちらを向いた。
 慌てて視線を逸らしたのに、頬の熱はなかなか引かない。どうしてこんなに意識してしまうんだろう。

 見ないようにしないと変に思われる。そう思うのに、また目が吸い寄せられてしまう。

 うう、情けないなぁ。


 だんだん仕事も忙しくなり、ようやく春哉さんのことを考えずに済むようになった。
 ……はずだったのに。

「愛翔くん、これお願いね」

 さわやかに微笑みながら、春哉さんが手招きをする。
 僕は引き寄せられるみたいにカウンターへ向かった。

 逆らえるわけがない。いろんな意味で。

 とりあえず怪しまれないよう、できるだけ自然に笑いかけた。

「は、はい」

 注文の品を受け取ろうとすると、春哉さんの指先が僕の指に触れた。

「ひっ」

 驚きすぎて、変な声が漏れてしまう。
 触れた場所がじわっと熱い。

「だいじょうぶ?」

 春哉さんは不思議そうに首を傾げた。

「っ……はい! だ、大丈夫です!」

 顔を上げられない。
 慌ててその場を離れようとしたところで、女性客の声が耳に入り、足が止まった。

「やっぱり、かっこいいよね」
「あの甘いマスクがたまらないわ」
「ね、誘ってみる?」

 頬を染めた彼女たちの視線の先には、春哉さんがいた。

 僕は素知らぬ顔で仕事に戻った。

 なんだろう、この感じ。胸がちくっと痛んで、あとを引くようなもやもやが消えない。
 別に関係ないのに。
 彼がモテているのを見て、どうしてこんな気持ちになるんだろう。

 空いたテーブルを拭きながら考える。

 彼は男だ。僕も男……まさか、僕って男が好き?
 ていうかそれより、春哉さんのことが――

 いやいや、まさか。

 頭を振り、必死にその考えを消そうとする。

 それでも結局、意識も視線も春哉さんを追ってしまう。
 どうしようもないくらいに。