僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

「ただいま」

 宏明と別れて家に入ると、優しい笑顔が迎えてくれた。

「おかえり、愛翔」
「おかえりなさい。疲れたでしょ? 夕飯できてるよ」

 祖父母の顔を見た瞬間、肩に残っていた疲れがふっとほどける。

「うん!」

 台所のほうからいい匂いが漂ってきて、お腹がぐーっと鳴る。
 三人で目を合わせて笑い、僕はそのまま洗面所へ向かった。

 僕には両親はいない。小さい頃に事故で亡くなったから。
 それからはずっと祖父母に育てられてきた。

 優しくて、大好きなおじいちゃんとおばあちゃん。

 手を洗って戻ると、食卓にはもういくつかの料理が並んでいた。

「わあ、おいしそう」

 席に着くころには、目の前に和食のおかずがずらり。
 味噌汁に、焼き魚とほうれん草のおひたし、それに小さな卵焼き。派手じゃないけど、どれも超おいしい。
 祖母が作ってくれる昔ながらのあたたかな料理に、自然と目が輝く。

「いただきます」

 勢いよく頬張っていると、祖父が箸を取りながらこちらを見た。

「バイトはどうだった?」

「うん、ちょっと失敗もしたけど、楽しかった!」

 春哉さんの顔が浮かんだけど、それは内緒にしておこう。

 二人は目を細めて笑い、祖母はやさしく頷いて「それはよかったねぇ」と微笑んだ。

「でも、無理はしないでね」

 そう言って、心配そうに眉を寄せる。

「大丈夫だよ。僕はこう見えて結構強いんだから!」

 力こぶを作ってみせると、祖父母は同時に声をあげて笑った。
 その様子が嬉しくて、僕もつられて笑い返す。

 やさしい二人の顔を見ていると改めて思う。

 おじいちゃんとおばあちゃんにはお世話になりっぱなしだ。学校のことも生活のことも、ずっと二人に頼ってきた。
 お金だけじゃない。いつだって大きな愛に守られてきた。

 だからずっと恩返しがしたかった。
 やっと働ける年齢になったんだ。バイトでもして、お金のことだけでも負担をかけないようにしないと。

 だから始めたバイトだった。

 ……けど。
 また、春哉さんの顔が浮かぶ。

 なに考えてるんだ、僕。ほんとにどうしちゃったんだろう。
 これじゃあ恋する乙女みたいじゃないか。

 慌てて味噌汁をすすると、

「げほっ、こほっ」

 むせた。
 熱い汁が喉に引っかかって、目尻がにじむ。

「おやおや、お茶を飲みなさい」
「慌てなくても、ご飯は逃げないよ」

 可笑しそうに笑う二人に、苦笑いを返す。

 うーん。これは重症だな。



 翌朝。

「いってきまーす」

 祖父母の優しい眼差しに見送られて、僕は家を出た。

 見慣れた通学路のはずなのに、今日はなんだか違って見える。朝の風も、陽射しも、いつもより心地よく感じた。

 もしかして――
 いやいや、ちがう。それはない。

 小さく首を振って、自転車のペダルを強く踏み込んだ。

 途中で宏明と合流し、他愛ない話をしながら学校へ向かう。校門を抜けて自転車を止め、二人で校舎まで歩く。

「それで、昨日のバイトはどうだったんだよ?」

 隣で、宏明がさりげなく聞いてくる。

 そういえば、昨日は詳しく話してなかった。
 宏明があれこれ茶々を入れてきたせいで、話が途中で流れてしまった。

「うん。最初は緊張したけど、思っていたより居心地よかった。みんな優しいし、なんとか続けられそう」

「そっか。ならよかった」

 宏明はほっとしたように笑って、僕の肩を軽くたたいた。
 それから間を置いて、ぽつりとつぶやく。

「その……店長ってどんな人なんだ?」

「えっ? ああ、春哉さんのこと?」

「春哉さんって! おまえ、もう名前で呼び合う仲なのかよ」

 宏明が驚いたように目を丸くする。

「いや、そんな。っていうか、なにか勘違いしてない? 別にいいだろ、名前くらい」

「ま、まあな。で、どんな感じの人なんだ?」

 ぐいっと距離を詰めてくる。
 妙に食いついてくるな……。

「優しくて頼りになる人だよ。それにすごく格好いいんだ。喫茶店でもお客さんにかなり人気あるみたい」

「……ふーん」

 宏明がじとっとした目でこちらを見る。
 空気が少し変わった気がして、ぱちりと瞬いた。

「なんだよ」

「別に。ただ、やけに楽しそうだなと思って」

 ちょっと拗ねたような顔で言われる。

「そ、そんなことないってば!」

 慌てて答えると、彼は指先で僕の頬をつつきながら続けた。

「そうか? ほら、にやけてるぞ」

「にやけてない!」

「へぇ〜。格好いいんだぁ。頼りになるんだぁ」

「なんなんだよ、さっきから!」

 思ったより声が大きくなって、通りすがりの生徒がちらりと振り返った。
 恥ずかしくなって視線を足元に落とす。

「ほら、図星じゃん」

 宏明の勝ち誇ったような顔。それを見て、またかっとなる。

「もう! 性格悪いよ!」

「知ってる。でも、おまえが楽しいならまあいいか。
 ……しかし、イケメン店長かぁ」

 ぶつぶつと言いながら、宏明は先に歩きだす。

「ちょっと待ってよ」

 置いていかれた僕は、慌ててその背中を追った。


 * * *


 ああ、眠い。

 大きなあくびが口からこぼれた。
 先生にぎろりと睨まれたような気がして、とっさに背筋を伸ばす。

 黒板の前では、歴史の先生が淡々と説明を続けていた。

 この先生、話し方が眠気を誘うんだよな。

 僕の席は窓際だった。
 窓から入る風がふわりと頬を撫でる。外に目をやると、日差しが校庭をやわらかく照らしていた。
 こんな心地いい環境で、寝るなって方が無理だよ。

 またあくびが出そうになって、ぐっとこらえた。

 だんだん意識がぼんやりしてきて、先生の声が遠くなる。
 代わりに、春哉さんの顔が頭に浮かんだ。

 あの優しい笑顔。澄んだ声。
 思い返すたびに胸がきゅっとして、身体がほんのり熱くなる。

 僕、どうしちゃったんだろう。病気じゃないよね?

 春哉さん……会いたいな。
 そう思った瞬間、ノートの上で手が止まった。

 やばい。今のはやばいぞ。

 胸がそわそわして、授業の内容が頭に入ってこない。首を振って、無理やり意識を戻そうとする。

 そうだ。あんな人、今まで身近にいなかった。
 優しくて頼りになって、憧れるのも当然。だから気になってしまうだけ。

 そう自分に言い聞かせ、もう一度黒板に目を向ける。

 それからも授業には集中できず、春哉さんの姿が頭の中から離れなかった。