僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

 数日後。
 いつもの日常が戻ってきた。

 カランと店のドアが開き、店内に明るい声が響く。

「いらっしゃいませ」

 入口へ目を向けると、鞠さんの姿があった。

「こんにちは」

 にこりと微笑みながら、彼女はカウンター席へ向かう。すると、カウンターの奥から春哉さんが顔を出した。

「やあ、いらっしゃい」

「ふふ、ひさしぶり。元気そうね」

 髪を整えながら、鞠さんはコーヒーを注文する。
 その様子を眺めていた僕は、ゆっくりと彼女のそばへ歩み寄っていった。

「あ、あの……」

 あれから、鞠さんと会うのは初めてだった。

 できればちゃんとお礼を言いたい。
 春哉さんとうまくいったのも、鞠さんのおかげみたいなものだし。

「どうしたの? 愛翔くん」

 どこか含みのある笑みを向けられて、何と言えばいいのかわからなくなった。

 もじもじしていると、またドアベルが鳴った。

「よう、愛翔!」

 元気よく飛び込んできたのは、宏明だった。
 そのまままっすぐ駆け寄ってきて、まじまじと見つめてくる。

「な、なに?」

 思わず身を引くと、宏明はにこっと笑った。

「ううん、なんでもない。どんな顔して働いてるのかと思ってさ。見に来たんだよ」

 そう言って、宏明は鞠さんの隣に腰を下ろし、春哉さんをあからさまに睨みつけた。
 春哉さんが穏やかな笑顔を向けると、ふんと顔を背ける。

「あーあ、結局こうなるわけだ。
 俺がどんなに愛翔のこと想っても、こいつはあんたに夢中ってわけ」

 ため息まじりに首を振る。

 その不遜な態度に、僕は慌てて宏明を叱りつけた。

「なに言ってんだよ。来るなら来るって言ってよ」

「なんだよ。いきなり来られると、まずいことでもあるのかよ?」

 彼の勢いに押され、思わず視線が泳いだ。

「そ、そんなことないけど……」

 宏明には心配ばかりかけている。春哉さんのことで悩んでいた僕を支えてくれたのも彼だし、本当に感謝している。

 それでも、こうして宏明と春哉さんが顔を合わせると、どうにも居心地が悪い。

「おい、客だぞ。コーヒー」

 机を軽く叩きながら、宏明が乱暴に言い放つ。
 春哉さんは苦笑しつつも、それに応じてくれた。

 内心ひやひやしながら、その様子を見守る。

「宏明、そんな横柄な――」

「いいよ。いつもありがとうございます」

 春哉さんはにこりと、宏明に微笑みかけた。

 お、大人だ。宏明なんかよりずっと。
 ぼーっと見惚れていると、ふいに腕を掴まれた。

「なに見惚れてんだよ。勤務中だろ、仕事しろ」

「なんだよ。宏明に言われなくても、わかってるよ」

「ふふ、仲がいいのね。二人はどういう関係?」

 僕と宏明を交互に見ながら、鞠さんが問いかけてきた。

「……」
「幼なじみで、親友です」

 答えたのは僕だけで、宏明は黙ったままだった。

「ふーん。そうなんだ。でも……彼は納得してないみたいだけど」

 鞠さんはおかしそうに、くすくす笑う。

「え?」

 宏明を見ると、むすっとふくれっ面をしていた。

「お待たせしました」

 ちょうどそのタイミングで、春哉さんがカップを宏明の前に置く。
 香ばしい匂いが、ふわりと広がった。

「ふんっ」

 宏明は鼻を鳴らし、不機嫌な顔のままコーヒーを一口飲んだ。

「……ま、うまいけど」

 ぽつりと、そんな一言。

「はは、ありがとうございます」

 春哉さんは軽く笑い、やわらかな眼差しを向けた。

「もう、宏明は。もっと素直になればいいのに」

「はあ? おまえに言われたくないわ。この前まで、この男のことでめそめそ泣いてたくせに」

 春哉さんを指さしながら、宏明が言う。

「あ! ひどい。そんなふうに思ってたの?」

 悲しげに眉を寄せると、宏明は慌てて言葉を濁した。

「いや、別に、そんな」

「まあまあ、喧嘩しないで。これ、おまけ」

 春哉さんが今度はケーキを差し出す。

 この店自慢のチーズケーキだ。もちろんこれも彼のお手製で、本当に美味しい。

「よかったね、宏明」

 心からそう言ったのに、宏明はなぜか不満そうな顔をした。

「だいたい、ぜんぶこいつのせいだろうが」

 文句を言いながらも、口にはしっかりケーキを運んでいる。

 ……素直じゃないんだから。

「よかったじゃない。賑やかになって」

 鞠さんがそう言うと、春哉さんは幸せそうに微笑んだ。

「ああ、そうだね」

 視線が、そっとこちらへ向いた。
 その眼差しに胸が高鳴る。

 そのときだった。春哉さんのポケットから、あの独特な呼び出し音が鳴った。

 彼の表情がすっと引き締まる。

 もしかして、あの電話って……。

 見つめていると、春哉さんはこちらに気づき、微笑んだ。

「ちょっと、ごめん。ここ任せていい?」

 戸惑いながら頷くと、彼はバックヤードへ消えていった。

 その姿を見送ったあと、鞠さんがぽつりと言う。

「追わないの?」

「え?」

 思いがけない言葉に目を丸くすると、鞠さんはこちらを見た。

「愛翔くん、春哉のことを支えてあげて」

 彼女の視線が僕の後ろへ向けられる。
 春哉さんが去っていったほうへ。

 ふと視線を動かすと、宏明と目が合った。

「なんだよ……行けば?」

 少しむくれたようにそっぽを向いたけど、すぐにこっちを見て照れくさそうに口元を緩めた。

 二人に背中を押されるような気持ちで、頷く。

「うん、ありがとう。
 木村さん、ちょっと頼みますね」

 通りかかった店員に声をかけてから、僕は春哉さんの後を追った。