僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

 そこは、街の喧騒から切り離されたような寂しい場所だった。

 使われなくなった倉庫や古びた建物が並ぶなか、一棟の廃ビルがぽつんと建っている。今にも崩れそうなほど荒れ果て、辺りとは違う不穏な空気をまとっていた。

 本当に、こんなところに春哉さんがいるのかな。

 僕は廃ビルを見つめ、足を止めかけた。それでも意を決し、一歩を踏み出した。


 メモには「三階の奥の部屋」と書かれている。
 僕はそれを頼りに、ぼろぼろの階段を上っていった。

 三階に着き、細長い通路を進んでいると何かにつまずく。足元には、崩れた壁の瓦礫が散乱していた。

 今にも崩れそうだな。こんな薄気味悪い場所にずっといたら、気持ちまで沈んでしまいそうだ。
 春哉さんは大丈夫なんだろうか。

 足元に気をつけて進み、なんとか三階の奥の部屋までたどり着いた。

 あった。ここだ。

 薄汚れた重厚な扉の前で足を止める。

 鉄製かな。やたら重そうだけど。

 インターホンは見当たらず、取っ手に手をかけて回してみる。押すと、ほんの少しだけ隙間ができた。

 勝手に入っていいのかな。ていうか、すごく重い。

「よっ」

 体重をかけて扉を押し開ける。
 ギーッという鈍い音を立てて、扉はゆっくりと動いた。

 埃っぽい空気が流れてきて、少しだけむせた。そっと中を覗くけれど、薄暗くて奥まではよく見えない。

「春哉さん! いますか?」

 声に反応したのか、暗がりの向こうで何かが動く気配がした。

 期待と不安が一気に押し寄せ、心臓が強く脈を打つ。
 気づいたときには、足が前に出ていた。

 普段の僕なら絶対にしない行動だった。こんな薄気味悪い場所で、誰がいるのかもわからないというのに。

 それでも。心がはっきりと叫んだ。

 春哉さん!

 奥に気を取られていた僕は何かに思いきりぶつかった。人の感触。そのぬくもりに、はっとして顔を上げる。

 そこには――

「……愛翔、くん?」

 春哉さんが、驚いたように目を見開いていた。じっと見つめるその瞳は、動揺したように揺れている。

「春哉さん?」

 やっと会えた。

 その喜びのまま、勢いよく抱きついた。ぎゅっと、強く。

「会いたかった……」

 少し遅れて、彼の腕が僕の背中に回った。壊れ物に触れるみたいに、そっと。

 ――あたたかい。

 縋りつくように身体を寄せると、春哉さんの腕にもわずかに力がこもった。


 僕が落ち着くのを待ってから、春哉さんはぽつりと言った。

「どうして、ここを?」

「鞠さんから聞いたんです。春哉さんは、たぶんここだろうって」

「……そうか」

 抱きしめていた腕がそっとほどかれ、彼は僕に背を向けて続けた。

「もしかして、鞠から聞いた? どこまで」

 声はいつもより低く、掠れていた。ぼそぼそとした響きがいつになく弱々しい。

「組織のこと。そして、春哉さんがそのリーダーだってこと。それから、鞠さんも組織の人で……」

 そこで、言葉が詰まった。

「春哉さんの父親のことと、僕の両親のこと」

 彼の肩がびくっと動いた。

「……じゃあ、なんで来たんだよ。俺なんか、会いたくないだろう?」

 その声は震えていた。何かを必死に押し殺しているみたいに。

「会いたいから、来たんだ」

 少しの沈黙のあと、乾いた笑い声が響く。

「ははっ、頭おかしいんじゃないか? 誰が親の仇(かたき)の息子に会いたいって思うんだよ。
 もういいだろ。これでさよならだ。俺のことは忘れてくれ」

「いやだ!」

 思わず叫ぶと、彼がゆっくり振り返る。

「なに? ……ああ、そうか。
 復讐がしたいのか。だったら、どうぞ。好きにしてくれて構わない」

 そう言って、両手を広げる。

 ひどい顔だった。憔悴してやつれ、影を落としたその表情は、いつもの優しい春哉さんじゃない。

「ちがうよ! 僕は恨んでない」

 その目が、大きく見開かれる。

「どうして? 俺の父が、君の両親を……」

「わかってる。でも、それは春哉さんのせいじゃないでしょ?」

 彼はぽかんとした顔で僕を見つめた。

「それに、今の組織は違うんでしょ?
 たくさんの人のために、組織の人たちの居場所を無くさないために、守り続けているんだよね?」

「……そんなことまで話したのか。あいつ」

 あきれたように肩を落としながらも、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。

「鞠さん、言ってたよ。春哉さんのこと大好きだって、とても優しい人だって。僕もそう思う。
 僕は、春哉さんが好きだよ」

 しばらく黙り込んだあと、彼は視線を落とした。

「でも。俺は、どうやって償えばいいのかわからない。君のそばにいる資格なんて」

「そんなのいらないよ」

 迷いなんてなかった。

「好きだから、そばにいたい。それで十分でしょ?」

 春哉さんは息を詰めた。その目に、じわりと涙がにじむ。

「でも……俺といると、君は危ない目に遭うかもしれない」

「へっちゃらだよ。僕はこう見えて、強いんだから」

 にこっと笑うと、彼は目を丸くしたまま呆然と立ち尽くした。

「春哉さん」

 そっと距離を詰めて、口づける。

「……っ」

 頬をわずかに染めた春哉さんが、今にも泣き出しそうな目で僕を見つめる。

 愛おしい。

 ふと湧き上がるこの想いが、答えだ。

「ふふ、大好き。もう離さないよ」

 気持ちを込めて、ぎゅっと抱きしめる。

 びくっとして身を引こうとした彼を、僕はさらに引き寄せた。

 ここで離したくなかった。少しでも迷いを見せたら、きっとまた僕の前から姿を消してしまう。そんな気がした。

 ――父さん、母さん。ごめん。でも、きっとわかってくれるよね。

 想いがこみ上げ、涙が頬を伝っていく。

「愛翔くん……ほんとうに、いいのか?」

 ゆっくり顔を上げて、静かに頷く。

 揺れる瞳が、僕をまっすぐ捉えていた。

「組織とか、両親のこととか、関係ないよ。僕は春哉さんが好き。
 人のことばかり考えて思い悩む、そんなあなたが愛おしい。
 一緒にいたいんだよ、これからもずっと。一緒に悩んで、笑って、そうやって生きていきたい」

 春哉さんの涙が、僕の頬に落ちる。

 あたたかい。
 まるで、彼の心そのものみたい。

 いったい、どれほどの苦しみと痛みを、ひとりで抱えてきたんだろう。

「……っ、愛翔。ありがとう……愛してる」

 春哉さんが、僕に口づけた。

 想いをぶつけるように激しいのに、どこか優しくて甘いキス。

 嬉しくて恥ずかしくて、くらくらする。
 それでも離れたくなくて、僕は春哉さんの背にそっと手を回し、そのぬくもりに身を委ねた。