僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

「危なかった……」

 小さく呟いて、ふうっと息を吐く。
 あのまま、どうにかなってしまうんじゃないかと思った。

 至近距離で見つめ合ったまま、どれくらい時間が経ったのかはよくわからない。

 廊下のほうから足音が近づいてきて、休憩室に他のスタッフが顔を出した。
 春哉さんは何事もなかったように表情を戻し、その人と会話を始める。

 僕だけが、さっきの空気の中に取り残されたみたいだった。

 今のうちだ。
 そう思って、そそくさと帰り支度を済ませる。

 軽く挨拶をして店を出る頃には、外はすっかり夜になっていた。

 体がわずかに熱い。頬も、耳も、変に火照っている。
 どうしたんだろう。

 うーん、さっさと帰ろう。

 気持ちを切り替えて歩きだすと、夜のひんやりした空気が頬を撫でた。

 通りにはネオンの明かりがぽつぽつと灯っている。
 さっきまでいた店内のコーヒーの香りがまだ鼻の奥に残っている気がした。

 初日が終わった。

 疲れたけど、なんだか充実してる。
 もっと大変かと思っていたけど、なんとか僕にもやっていけそう。そう思えるのは、きっと春哉さんのおかげだ。

 春哉さんの声や笑顔が浮かんでくる。
 どうしてだろう。彼のことを思い出すと、鼓動が少しだけ速くなった。

 風は冷たいのに、頬だけが熱い。

 これじゃあ、まるで――
 ちがう! ちがうから。そんなはずない。

 ぶんぶんと首を振って、浮かびかけた考えを無理やり追い払う。

「おーい、愛翔!」

 聞き慣れた声に、はっと顔を上げた。
 夜道の向こうから誰かがこちらへ駆けてくる。街灯の下に入ったところで、その顔がはっきり見えた。

「……宏明?」

 高野(たかの)宏明(ひろあき)。僕の幼なじみだ。
 少し癖のある髪に、人懐っこい笑顔。背は僕より少し高くて、昔から変わらない親しみやすさがある。
 家が近所で、小さい頃からずっと一緒だった。今も同じ高校に通っている。

 宏明が僕の前で立ち止まり、膝に手をついて息を整える。

「はぁ、間に合った」

 そう言ってにこりと笑う。

「どうしたの?」

「どうしたの、じゃねえよ! 心配で迎えに来たんだろうが」

「なんで?」

 僕がきょとんとすると、彼は呆れたような顔をした。

「なっ、あのなあ……前におまえ、その、あれだ。
 嫌な目に遭っただろ? だからだよ」

 宏明は言いにくそうに視線を逸らし、言葉を濁す。

 ああ、痴漢のことか。
 そこでようやく彼が何を言いたいのかわかった。

 僕は痴漢に遭うことが多い。容姿が可愛いだけでは済まされない何かがあるのか、とにかく狙われやすかった。
 中学の頃も何度かあって、そのたびに宏明はこうして気にかけてくれていた。

 バイトが終わる時間が遅かったから、気になって迎えに来てくれたみたい。

「ふふっ」

「なんだよ」

「心配し過ぎだよ。……でも、ありがとう」

 小さく笑うと、宏明は少し照れたように鼻を鳴らした。

 嬉しいな。その気持ちが胸に染みる。
 宏明は優しいから、こんな僕を放っておけないんだよね。昔から彼には守られてばかりだ。
 たまにおせっかいで、余計なことまで口を出してくるけど、そういうところも含めて気心の知れた存在だった。
 そんな人がそばにいてくれることに、いつもほんとに感謝している。

 並んで歩きだすと、自然と口元が緩んだ。

「なにニヤニヤしてんだよ」

 目を逸らした宏明が、横から僕の頭をぐしゃっと撫でた。

 くすぐったい。
 いつもこうやって子ども扱いするんだから。同い年なのに。

「やめてよ。もう子どもじゃないんだから」

「ばーか。俺にとってはおまえはお子ちゃまだよ。いつまでも守ってやる」

 宏明は得意げに笑った。その表情は、やんちゃな男の子って感じだ。

 すぐ調子に乗るんだから。
 ぷうと頬を膨らませると、隣で宏明がへらっと笑った。

「じゃ、帰るか」

 そう言って歩きだす宏明の背を追いかける。
 肩を並べたところで、彼がぽつりとこぼした。

「そういえばさ、おまえが働き始めた喫茶店、有名なんだってな。格好いい店長がいるって」

「え……」

 頭の中に、春哉さんの顔が浮かぶ。

 やっぱり人気なんだ。
 噂になるほどか……。

 そんなことを考えていると、宏明が続けた。

「おまえも気をつけろよ? そのイケメンに口説かれたりしてな」

「はあ!? そんなわけないだろ! あの人はそんな人じゃないよ……」

 言い返しながら、また彼の顔を思い出した。

「なんだよ、かばっちゃってさ」

 宏明が拗ねたみたいにそっぽを向く。

「わかんねーぞ。おまえは可愛いし」

 その言葉に、かちんときた。

「ひどい! 僕がそう言われるの嫌いだって知ってるだろ?」

「ごめんごめん。でも、事実を言っただけだろ」

「もう、宏明のばか」

 むっと唇を尖らせると、彼は声を上げて笑った。

 それからもなんだかんだ言い合いながら、家までの道を一緒に歩いた。
 くだらないやり取り。でも、こんな時間が幸せだった。

 宏明と僕は、幼なじみで親友。いつも一緒にいて、心地のいい存在。

 そういう関係って、永遠に続くものだと、そのときは疑いもしなかった。