僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

 僕の覚悟が通じたのか、彼女はふっと穏やかな笑みを浮かべた。

「やっぱり、春哉の選んだ子だわ。ここじゃあ話せないから、こちらへ来てくれる?」

 そう言って、鞠さんは静かに歩み寄り、小さなメモを僕の手に握らせた。

「心配しないで。取って食べたりしないから」

 低く艶のある声が耳に残り、背中がぞくりと震えた。
 思わず一歩身を引く。

 僕の反応を見て、彼女はおかしそうにくすくすと笑った。

「かわいい。春哉が虜になるわけね。
 ま、あなたのことは信用してるから。絶対に一人で来るのよ」

 軽くウインクを飛ばすと、鞠さんは背を向け、颯爽と歩いていった。


 * * *


「ここか……」

 そこは入り組んだ道の先にあった。

 彼女から渡されたメモには住所が書かれていて、スマホの地図アプリを頼りになんとかたどり着いた。

 細い道を何度も曲がった先は、大通りから隔たれたようにひっそりとしていて、古びた建物が並び、人の姿も店らしいものも見当たらない。
 静かというより、どこか薄気味悪い場所だった。

 目の前にあるのは、築何年なんだろうと考えずにはいられない古びた木造アパート。

 しばらく見上げていると、どこからかカラスの鳴き声が響いた。

「……よし、行くぞ」

 ここで立ち尽くしていても、しょうがない。

 気持ちを奮い立たせ、アパートの敷地へと足を踏み入れた。


 指定された部屋は一階の角部屋だった。

 薄汚れたドアの前で立ち止まり、周囲をきょろきょろと見回す。
 あれ? チャイムがない。

 仕方なく軽くドアを叩いた。

「すみませーん」

 少しの静寂のあと、鍵の外れる音がしてドアがゆっくりと開く。
 軋むような音とともに姿を現したのは――

「いらっしゃい」

 にこりと微笑む、鞠さんだった。


「おじゃまします」

 足を踏み入れると、じめっとした空気が肌にまとわりつく。
 玄関を上がると、そこはもう部屋になっていて、六畳一間の簡素な空間だった。

 昼間のはずなのに室内は薄暗く、外から差し込む光がかろうじて照らしているだけ。

「こんなところでごめんなさいね。でも、ここなら安心だから」

 壁にもたれかかりながら、鞠さんがこちらに笑顔を向ける。

「安心って?」

 素直な疑問が口から出た。

「盗聴とか、そういうのはないってこと」

「盗聴!?」

 普段聞かない物騒な言葉に、声が裏返る。

「ふふっ、あいかわらず反応が可愛いわね。
 まあ、これから話すことはそれだけ機密事項ってことよ……覚悟はいい?」

 その瞬間、鞠さんの表情から笑みが消えた。
 鋭い眼差しがまっすぐこちらに向けられ、空気がぴりっと張り詰める。

 自然と背筋が伸び、喉が鳴った。

「は、はい」

 僕の目をじっと見つめ、彼女は納得したように頷く。

「じゃあ、何から話そうかな」

 鞠さんは考えるように視線を上へ向けた。その横顔を見ながら、期待と不安が入り混じる。

 やっと春哉さんのことを知れる……嬉しいような、でも少し怖いような。
 鼓動が速まっていくのがはっきりわかった。

「彼、斎藤春哉は、ウロボロスという組織のリーダーよ」

 ウロボロス。僕の両親の命を奪った組織の名前。

 そのリーダーが、春哉さん。

「組織について詳しいことは教えてあげられないけど、国家から依頼を受けて動く秘密組織みたいなものよ。
 犯罪に手を染めているわけじゃない。特殊な力を持った者たちが、国のためにその力を使っているの。
 ただ……昔は少し違っていたの」

 伏し目がちになった彼女の目に、かすかな哀しみが浮かぶ。

「昔、春哉の父親が治めていた頃、組織は国家の敵だった。
 裏ではひどいことを平気でしていたのよ。殺しや盗み、どんな手を使ってでも依頼を遂行する。それがウロボロスだった。
 だから、金に糸目をつけない連中から、日々表には出せないような依頼を受けていたの。
 そして、その事態を重く見た国に目をつけられた」

 指先がわずかに震えた。
 とんでもない話を聞かされているのだと実感する。それでも、彼女から目を逸らすことはできなかった。
 ここで逃げるわけにはいかない。

 僕の様子を見て、鞠さんは口元にかすかな笑みを浮かべる。
 ふっと息をついてから続けた。

「そして、国からの依頼を受けて動き出したのが、愛翔くん。あなたのご両親よ」

 ドクン、と心臓が鳴る。

 父さん、母さん。優しくて、愛にあふれた人だった。
 国のために動く。それは、あの二人なら当然のことのように思えた。

「彼らは国に雇われた極秘の諜報員。ウロボロスの動向を探るため、組織を追っていたわ。
 それを疎ましく思った春哉の父親は、ある日……」

 鞠さんは、言葉を探すように口を閉ざした。