僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

 まだ、もやもやする。

 あのまま春哉さんを置き去りにして、僕は家に帰ってしまった。

 心配してるかな。さすがに一方的だったよな、と反省する。
 春哉さんにはなにか事情があったのかもしれない。

 でも、それならどうしてなにも言ってくれないんだよ。不安になるじゃん。

「はあ……」

「なーに、ため息ついてんだよ」

 いきなり声をかけられて、机に突っ伏していた僕は顔を上げた。
 声の主はわかっていた。宏明だ。

「誰もいない教室でそんな大きなため息ついてたら、ちょっと心配になるぞ」

 そう。もう教室には誰も残っていない。
 僕と宏明だけの教室はがらんとしていて、遠くからかすかな笑い声が聞こえるだけだった。

 今日はずっと元気が出なかった。
 何をしても楽しくなくて、ふて腐れたまま時間だけが過ぎていく。

 帰る気力すらなくて、今も机に伏していた。

「ははっ、そうだよね」

 なんとなく空元気を装ってみる。

 視線を落とすと、宏明が少し身をかがめて顔を近づけてきた。

「あれか? 春哉さんのことだろ」

 さすが幼なじみ。
 彼の前では隠し事なんてできないらしい。

「あたり……」

 ちょっと照れくさくて、顔を背ける。

 短い沈黙が落ちて、そのあとぽつりと声がした。

「あのさ。そのことで、話があるんだけど」

「え?」

 彼にしては珍しく、やけに真剣な声だった。

 胸騒ぎがした。
 宏明がこんな口調で話すのは、めったにない。

「ここじゃ、なんだし。帰りながら話すよ」

 そう言って、ふいと視線を外される。
 その横顔を見た瞬間、胸のざわつきが強くなった。

 なんなんだよ、いったい。虫の知らせってやつか?

 不安を押し込めるように、彼の背中を追った。



「で、話って?」

 夕暮れを背に、宏明と並んで歩く。

 いつもの通学路。景色は何も変わらないはずなのに、空気だけが少し重かった。

「……ああ」

 押し黙る宏明を横目に、不安が広がっていく。

 緊張してきた。
 胃のあたりがきゅっと縮む。

「なんだよ、どうしたんだよ」

 少し急かすように言うと、彼は足を止めてこちらを向いた。

 その表情は、思い詰めたように暗い。

 やがて、ゆっくりと口を開いた。

「春哉さん……ウロボロスに関係してるかもしれない」

 ドクン、と心臓が大きく跳ねた。

 ――ウロボロス。

 その名前は、忘れたくても忘れられない。切っても切れない因縁があった。

 その組織は、両親の死と関係していた。


 両親は、僕がまだ幼い頃に亡くなった。

 これは、少し大きくなってから祖父母に教えてもらったことだ。
 両親は国家に雇われた諜報員として活動していたらしい。表向きは、ごく普通のサラリーマンと主婦だった。
 でも依頼を受ければ、誰にも知られない裏の世界で、国のために動いていた。

 そんなことをしていたなんて、幼い僕はまったく知らなかった。

 僕にとって二人は、ただ優しい、普通の父と母だった。

 ――ある日のこと。

 闇の秘密組織ウロボロスを追っていた両親は、その途中で事故に遭い亡くなった。
 ウロボロスが何をしていたのか、詳しいことはわからない。事故の詳細も今となっては闇の中だ。

 でも、父と母がそれを追っていて、死んだ。それは事実だった。


 その組織に、春哉さんが関わっているって?

 わけがわからない。頭の中が散らかって、うまく思考が回らなかった。
 胸が騒ぎ、呼吸が少し浅くなる。

「おい……愛翔、しっかりしろ」

 顔を上げると、宏明が目を丸くした。

 ……どうしたんだろう。そんなにひどい顔をしているのかな。
 確かに少し気分が悪い。体もやけに重く感じる。

「ねえ、今のどういうこと?」

 ふらっと近づくと、宏明は戸惑うように一歩下がった。

「あ、ああ。前に調べてみるって言っただろ?
 春哉さんについて、いろんな方面から当たってみたんだ。ネットもあさったけど、不審なところはなかったし、知り合いにも話を聞いた。
 みんな、好青年だって言ってたよ」

 そこで言葉を切ると、彼はわずかに声を落とした。

「で……最後は、後をつけてみた」

「尾行したの?」

「ああ。悪いとは思ったけどな。念のため」

 苦笑しながら肩をすくめる。

「苦労したんだぜ。あの人、勘が良くてさ。何度も見つかりそうになった。
 でも、諦めずに食らいついた。おまえのために」

 どうだと言わんばかりに胸を張った宏明は、すぐに表情を引き締めた。

「そうしたら、数人の怪しい連中とやり取りしてるところを見かけてさ。
 そいつらのことも調べてみたんだけど、どうもヤバそうだった。これ以上はさすがに危ないと思って、探偵に依頼したんだ」

 そこまで聞いて、僕は呆れてしまった。
 そんなことまでするなんて。

 冷ややかな目を向けると、宏明は気まずそうにコホンと咳をしてから続けた。

「言いたいことはわかる。
 でも、おまえ、相当落ち込んでただろ。力になりたかったんだよ。
 それに、だんだん調べるのが面白くなってきちゃってさ……って、いや、それはいい。
 とにかく、探偵が持ってきたのが、あの情報だったってわけ」

 宏明が、まっすぐ僕を見つめる。

「……ウロボロス」

「そう。俺もびっくりしたよ。おまえから話は聞いてたし、まさかって」

「春哉さんはいったい、組織とどういう関わりが――」

 すがるように見つめると、宏明は慌てて首を振った。

「そこまではわからない。探偵も、組織のことはこれ以上調べられないって言ってた。青い顔をしてさ。
 相当、やばい案件ってことだろ。それ以上はどんなに頼んでも引き受けてもらえなかったよ」

 宏明は少し残念そうに肩を落とした。

 彼の行動力にも驚いたけど……。
 僕にとっていちばん衝撃だったのは、春哉さんがウロボロスと関わっているかもしれないってことだった。

「あのさ。あんまり思い詰めんなよ。
 まだ春哉さんが組織とどういう関係なのか、はっきりしてないんだし」

 心配そうに覗き込んでくる宏明に、僕は曖昧に笑った。

「……うん、そうだね」

 そう答えながらも、気にしないわけがなかった。
 僕にとって、あまりにも大きな問題だから。

 春哉さんと組織の関係。

 そして、両親のことも。
 彼は何か知っているのだろうか。それとも、関わっていた?

 怖い。知るのが怖い。

 でも、知りたい。

 相反する気持ちが胸の中で絡まり合い、心がじわじわと締めつけられていくようだった。