僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

 それから数時間が経った。

 最初は緊張で身体がこわばっていたけど、だんだん力が抜けてきて、少しずつ店内の空気にも馴染んできたみたいだ。

 カップを下げながらお客さんに「ありがとう」と声をかけられると、胸のあたりがむずがゆくなる。
 思わず頬が緩んだそのとき、すぐ隣に人の気配がした。

「日向くん、初日にしては上出来だよ」

 耳元に落とされる低い声に、心臓が跳ねる。

「あ、ありがとうございます」

 少し照れながら振り返ると、そこには店長の穏やかな笑みがあった。

 ち、近っ。
 前も思ったけど、この人、距離が近い。
 でも、この感じ嫌じゃない。癒されるというか、そばにいると不思議と落ち着く。

 じっと見つめていると、また優しく微笑まれて、慌てて視線を逸らした。
 そんな僕を彼は楽しそうに眺めている。

 ……店長は余裕だな。それに大人っぽい。

 妙にそわつく気持ちをごまかすように、僕はカウンターの奥へ戻った。


 コーヒーを淹れていると、少し離れたところからこそこそとした話し声が耳に入ってくる。
 どうやらスタッフたちが店長のことで盛り上がっているらしい。

「やっぱり店長って頼りになるよね。しっかりしてて落ち着いてるし」
「ほんとにね。あの年で店回してるのすごすぎ、確かまだ十八でしょ?」
「しかもイケメン。お客さんも彼目当ての人が多いんだって」

 その話に、耳がぴくりと動いた。
 店長――春哉さんのことだ。

 やっぱりすごい人なんだなあ。それに、十八歳? 聞き間違いじゃないよな。
 あの落ち着きで、僕とそう変わらない年齢なのか。

 手元の作業を続けながら、目が自然と店長の背中を追ってしまう。

 尊敬って言葉だけじゃ足りないくらい、まぶしく見えた。
 頼りになって優しくて、しかもイケメン。
 そんな人が店長……。

 ぼんやりとフロアへ視線を向けていると、今度は近くの席から、女性客の楽しげな声が聞こえてきた。

「ねぇ、あの店長さん見た? かっこいい〜」
「写真撮りたい……けど、怒られそう」

 その様子に手が止まり、ぽかんとする。

 すごい人気だな。写真って、アイドルかよ。
 心の中でツッコミを入れながら、また店長の方へ目を向けた。

 ……確かに、そう思ってしまうのもわかる。
 だって格好いいし、彼の周りだけきらきらして見えるもん。

 店長は相変わらずやわらかな笑みを浮かべていて、彼が通り過ぎるたび、女性客の声がひそひそと弾む。

 そりゃあね。こんな人が近くにいたら誰だって好きになっちゃうよ。
 そう思ってしまった自分に、慌てて小さく首を振った。

 な、なんだ? 今日は変だぞ。何考えてるんだよ。
 いや、これは憧れで、別に変な意味はないし。

 そうやって心の中で言い訳しながらも、結局また、目は彼を追っていた。



 ようやく一日の営業が終わった。

「はあ、疲れた」

 バックヤードにある休憩室へ入るなり、僕はソファに体を預けた。
 広い部屋には、簡素な机と、なぜかふわふわのソファが置いてある。

 店長の計らいなのかな。店員たちが少しでもゆっくり休めるようにって。
 あの人なら考えそう。

 ふふっと小さく笑った、そのとき。

「おつかれさま。仕事はどうだった?」

 入口から店長がひょっこり姿を現した。
 にこにこしながら近づいてきて、そのまま隣に腰を下ろす。思ったより距離が近くてわずかに身を引いた。

 ずっと思ってるけど、距離感近くない? 気さくなだけなのかな。
 どきどきするから困るんだけど。

「慣れないことばかりで、ちょっと疲れました」

 正直に話すと、彼はくすっと笑った。

「はは、そうだよね。でもよかったと思うよ。
 初めは誰でも失敗するし、緊張してかたくなるものだから。
 それより評判よかったよ。お客さんから、新人の子がかわいいって声もあった」

 意外な言葉に、目を丸くする。

「えっ、そうなんですか? ……かわいい、か」

 やっぱりそうなんだ。

 視線を落とすと、店長が少し身を屈めてそっと顔を寄せてきた。

「どうしたの?」

 ……答えづらい。

 黙ったままでいると、彼は変わらずやさしい声で続ける。

「男の子だもんね。かわいいって言われるのは嫌か。
 でも、それって君の長所じゃない? 君目当てで来るお客さんが増えそうだな。俺は助かるけど」

 胸のあたりがぽっとあたたかくなった。

 そんなふうに考えたことなかったな。
 いいな。そうやって前向きに受け止められるところ。

 この人の役に立てる。そう思えば、ほんの少し肩の力が抜けた。

「コンプレックスなんですけど。
 店長にそう言われると、嬉しいです。かわいいってのも、悪いばかりじゃないかもって思えます」

 言葉にしてから、自分でも驚いた。
 ずっと引っかかっていたはずなのに、今はそこまで嫌な響きに聞こえない。

 自然と笑みがこぼれていた。

 店長の表情がふっと固まる。
 いつも余裕のある穏やかな目が、ほんの一瞬だけ揺れたように見えた。

「店長?」

 呼びかけると、彼ははっとしたように視線を彷徨わせた。

 この人でも、こんな反応するんだ。ちょっと珍しい。

「あ、いや……その、店長って呼ぶのやめない? みんな好きに呼んでるし」

 そう言われれば、そうかも。
 少し考えてから口を開く。

「じゃあ、斎藤さん?」

「春哉でいいよ。俺も、愛翔くんでいいかな」

 どきん、と胸が鳴った。
 なんで? 名前を呼ばれただけなのに。

 まあ、断る理由もないし……いいか。

「はい。好きに呼んでください。僕は春哉さんって呼ばせてもらいますね」

 なんだろう。名前で呼び合うだけで、こんなにそわそわする。
 普段、こんなに格好いい人と話すことなんてないから。

 きっとそれだけのこと。

 視線を感じて顔を上げると、春哉さんが真剣な顔でこちらを見つめていた。

 どうしよう。目を逸らせない。
 吸い込まれるみたいに、ただ見返すことしかできなかった。