僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

 また、来てしまった。

 キッチンのほうへ目を向けると、春哉さんは飲み物を用意しているところだった。
 その横顔が格好良くて、ついぼーっと見つめてしまう。

 彼がこちらを向き、視線が合った。

「あ……」

 おろおろしていると、春哉さんは優しく笑って、こちらへやってくる。
 手にはカップがふたつ。

「はい、どうぞ」

 ひとつを僕に手渡し、すぐ隣に腰かけた。
 ふわりといい香りが鼻をくすぐり、顔がじんわり熱くなる。

「あ、ありがとうございます」

 カップの中はホットココアだった。甘い香りとあたたかさに自然と肩の力が抜けていく。

「落ち着くまで休んでいっていいよ。……あと、何でも聞くから」

 そのやさしさにほっとする。

 ココアをひと口飲んで息をついたところで、なぜか視界が滲んできた。

「え、どうしたの?」

 春哉さんが心配そうに覗き込んでくる。
 頭を撫でる手のあたたかさに、こらえていた涙が一粒こぼれた。

 だめだ。
 いったん溢れてしまえば、もう止められなかった。ずっと我慢していたものが堰を切ったみたいに、次々とこぼれていく。

 春哉さんはそんな僕を急かすこともせず、ただそばにいてくれた。

 ひとしきり泣くと、胸につかえていたものが少しだけ軽くなった。
 まだ乱れている息を整え、僕はようやく口を開いた。

「さっきは、ありがとうございました。僕ひとりだったら、どうなっていたか」

「ううん、俺がいてよかったよ。本当に。
 彼がいてくれるから大丈夫だと思ってたんだけど」

 頭に浮かんだのは、宏明の顔。

 いったい僕は、どうすればいいんだろう。
 深いため息がこぼれると、春哉さんが静かに言った。

「愛翔くんは、彼のことをどう思ってるの?」

「え?」

 顔を向けると、真剣な眼差しが返ってくる。

 気持ちを整理するためにも、想いを言葉にしてみた。

「……宏明のことは、好きです。
 でも、それは幼なじみとして、親友としてで。恋愛対象ではないから」

 そこで言葉が詰まった。
 春哉さんは何も言わずに待ってくれる。

「今日、はじめて彼の想いを知って、すごく戸惑っています。
 嫌とか、そういうんじゃなくて。応えてあげられないことが、つらくて」

 せっかくおさまった涙が、またぽろっとこぼれた。
 宏明のことを思うと、胸のあたりがきゅっと詰まる。

 少しの沈黙のあと、声が落ちた。

「愛翔くんは、優しいね」

「そんなことないです」

 ぶんぶんと首を振ると、彼はくすっと笑った。でも、すぐに真剣な表情に戻る。

「さっき、君がキスされているのを見て……焦ったよ」

 思わず目を丸くする。

 春哉さんは少し恥ずかしそうに視線を逸らした。

「いや、その、嫉妬したんだ」

 ええー! びっくりしすぎて、口がぽかんと開いた。

「愛翔くんのこと、ずっといいなって思ってた。
 でも、こんなこと言ったら嫌かなとか、距離を取られるかもって思うと勇気が出なくて……気持ちを伝えられなかった」

 う、うれしい。春哉さんも僕と同じ気持ちだったの?

「それでも、遠慮してるうちに誰かに君を取られたらって考えたら、居ても立っても居られなかった。後悔したくないって思った」

 熱のこもった眼差しが、まっすぐ僕を射抜く。

「君が好きだ」

 時が止まったみたいだった。

 どうしよう。こんなことってあるんだ。

 僕が口を開きかけると、春哉さんが焦ったように言う。

「あ、嫌だったらそう言ってくれて構わないから。俺が店長だからとか、そういう遠慮はしないでほしい。
 本当の気持ちを聞かせて」

 まっすぐな瞳と、その誠実さに胸がきゅっとなる。

 ふふ、本当に真面目だなあ。そういうところもやっぱり素敵だけど。

「僕もです」

 気づけば、そう口にしていた。

「え……」

 春哉さんの目が見開かれ、呆然としたまま僕を見つめる。

「春哉さんのことが好きです。
 でも、その。同性に惹かれるのは、はじめてで。
 この気持ちに確証が持てなくて、気づくのが遅れてしまいました」

 恥ずかしくて、声がぼそぼそと小さくなってしまう。

「ははっ、そっか。でも……嬉しい」

 安心したように息をついたあと、春哉さんは僕をふわりと抱きしめた。
 ドキドキはするけど、あたたかくて、すがるように身を寄せる。

 愛おしいって、こういうことだろうか。

「好きだよ」

 じっと見つめられて、そのままゆっくり距離が縮まる。
 瞳を閉じると、唇が触れた。

 とてもやさしくて甘い口づけだった。

 緊張はするのに、嫌だとはちっとも思わない。それより恥ずかしいやら嬉しいやらで、心臓がもたない。

 春哉さんが少し顔を離すと、目が合って、思わず視線を逸らしてしまう。

「ふふっ、可愛いな」

「なっ……」

 僕はいっぱいいっぱいなのに、彼は余裕そうでなんだか悔しい。
 ぷうと頬を膨らませながら、つい尋ねてしまった。

「春哉さんは慣れてるんですか? こういうこと」

 少し嫌味っぽくなったのは自覚してる。
 でも気になったんだ。

 言葉に詰まったように視線を外される。

「え? あー……慣れてはないよ」

 あれ? その言い方だと、慣れてはいないけど経験はあるみたいに聞こえる。

 それはそうだろうけど。

 むむむ。
 急にずーんとお腹のあたりが重くなった。

 なんかムカつく。

「ごめんごめん。これまでのことは消えないけど、これからは君だけだから。
 愛翔くんは、初めて……じゃないよね」

 言いながら、春哉さんは目を伏せた。

 そうだ。さっき宏明にキスされたところを、見られていたんだっけ。

「あれは、キスじゃありません。ただの不意打ちというか。
 キスって、お互いが好きだから求め合ってするものでしょ?」

 じっと見つめると、表情がやわらいだ。

「……ほんと、君には敵わないな。
 そんなこと言って、俺をこれ以上喜ばせてどうするつもり?」

「え、あ、そんな」

「黙って」

 また、口づけられる。

 僕はされるがまま。
 角度を変えながら何度も触れられて、頭がくらくらしてきた。

「……んっ」

 耐えきれず身をよじると、ようやく唇が離れた。

「ごめんね。無理させちゃったかな」

 答える代わりに小さく首を振る。

「これからいろいろあると思う。すれ違ったり、誤解したり。今日みたいなこともね」

 引き寄せられ、腕の中に包まれる。

「でも、ぜったいに俺が君を守るから。なんでも相談してほしい」

 ふっと、耳元に吐息が落ちた。

「宏明くんのことも、わかってもらえるといいね」

 ぎゅっと抱きしめられて息が詰まる。激しくなる鼓動が伝わらないかとひやひやした。

 僕ばかり緊張してるみたいで、なんだか悔しい。

「あと……」

 春哉さんは言いかけたまま、押し黙った。

 どうしたんだろう。
 待っていても、なかなか続きは聞こえてこない。

「春哉さん?」

 顔を見ると、視線を逸らされた。

「ううん、なんでもない。ごめん」

 腕のぬくもりが離れて、どうしようもなく寂しくなる。
 その横顔に、一瞬だけ影が差した気がした。

 なんだろう。たまにこんな表情をすることがある。

 何かを抱えてひとりで苦しんでいるみたいに。
 僕じゃ力になれないのかな。

「あの」

「ん?」

 振り向くと、いつもの優しい笑顔に戻っていた。

「その……僕なんかじゃ役には立てないかもしれないけど。なんでも話してくださいね。
 春哉さんのことをもっと知りたいし、力になりたいから」

 それは、心からの想いだった。

 彼の目元がふっと緩む。

「うん……そうさせてもらうよ。ありがとう」

 愛おしそうに見つめられたあと、そっと口づけられた。