僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

 パチンと乾いた音がして、気づけば僕は宏明の頬を叩いていた。

 だって、驚いたんだもん。
 つい手が出ちゃった。

「あ、あの……ひろ」

 声をかけようとしたけど、宏明は一瞬だけこちらを見てそのまま駆け出した。

 ものすごい速さで遠ざかっていく背中はすぐに小さくなっていく。
 僕はただ、その場に立ちつくすしかなかった。

 なにが起こった?
 え? キス……なんで!? それって宏明は僕のことを――

 信じられない。今までそんな素振りなかったじゃん。

 確かに宏明は昔から僕のそばにいて、幼なじみで、親友で……大切な……

 ぎゅっと胸が詰まった。

 気づいてなかっただけなのかな。
 僕のこと、ずっと好きでいてくれたの? 友達としてじゃなく、恋愛対象として?

 今なら少しわかる気がする。

 だって僕も恋をしたから。

「ねえ、ひとり?」

 ふいに背後から声をかけられ、思考が引き戻される。
 振り返ると、二人組の男性が話しかけてきた。

「君、かわいいね。暇なら俺らと遊ばない?」

 一人の男が距離を詰め、僕の肩に腕を回した。

 ナンパ!? ど、どうしよう。
 宏明は帰っちゃったし。

 きょろきょろと辺りを見回し、無意識に助けを求めてしまう。
 けれど、そこで首を振った。

 ……ううん。頼ってばかりじゃ駄目だ。一人でもなんとかしなくちゃ。

「僕、忙しいので」

 ぷいっと顔を背ける。

「あれ、もしかしてこの子、男じゃね? マジわかんなかったわ」

 相手が顔を寄せて覗き込んでくる。お酒の匂いが鼻をついた。

「ほんとだ、男じゃん。でも可愛い顔してるぜ」

 もう一人が反対側からぐっと近づいてくる。こっちもお酒くさい。

 酔っ払いか。タチが悪いな。

 少し怖気づいたけど、すぐに強気に言い返す。

「そうですよ、僕は男です。ナンパなら女の子をどうぞ」

 その場を離れようとした。けれど腕を掴まれ、強く引き戻されてしまう。

「なんだよ、つれないなあ。君みたいに可愛いなら男だっていいよ」

 にやりと笑う男たち。
 嫌な予感がして、背筋が冷えた。

 こういうことは今までにも経験があった。

「いやっ」

 全力で振り切ろうとしたけど、男二人に敵うわけもなく、あっけなく捕まってしまった。
 後ろからぐっと抱え込まれ、息が詰まる。

「おい、押さえろ! あっちだ」

 男が顎で路地を指し示した。暗くて人通りが少なそうな場所だった。

 やばい。このまま連れ込まれる。
 そう思った途端、視界が滲んだ。
 
 なんでいつも僕はこんな目に。

 叫ぼうとして口を開いたけれど、もう一人の男に口を押さえられてしまう。

「んっ……むう」

「いくぞ」

 完全に押さえ込まれ、引きずられようとしたそのとき。

「その汚い手を離せ」

 低い声が闇の中から響く。
 聞き覚えのある声だった。

 縋るように視線を向けると、暗がりの奥から、一つの影がゆっくりと近づいてくる。

 春哉さん。

 鋭い眼差しが男たちを射抜く。場の空気が一瞬で変わった。

「な、なんだ、てめえ」

 男たちはその迫力に怯み、動きを止めた。

「ここは見逃してやる。だから、早く逃げた方がいい」

 前に助けてもらったときは暗がりで、その表情はよく見えなかった。
 でも今回は街灯の下ではっきりと見える。

 それは、あの優しい彼からは想像もつかない顔だった。
 相手を見据えたその目は氷のように冷たく、まとっているのは背筋が凍るような殺気。僕に向けられたものじゃないとわかっているのに、足が竦んで動けない。

 ふいに僕を押さえていた手がするりと解かれた。
 男たちはそのままじりじりと後ろへ退いていく。

「お、おい、こいつ……やばいって」

「ああ、いくぞ」

 二人は目配せをしたあと駆け出した。
 あっという間にその姿は闇夜に溶けて、見えなくなってしまう。

 足音が遠ざかっていき、辺りがしんと静まり返った。

 ほっとした途端、急に力が抜け、膝がかくんと揺れた。
 崩れ落ちそうになる僕を、咄嗟に伸びてきた腕が抱きとめる。

「無事でよかった」

 春哉さんは心底安心したようにつぶやくと、そのままぎゅっと引き寄せた。

 背中に回された腕が、わずかに震えているような気がした。
 そんなに心配してくれたの?

 体温があたたかくて、さっきまで感じていた恐怖がすっと遠のいていく。肩の力が抜け、こわばっていた体がゆっくりほどけていった。


 どれくらいそうしていたのか。
 ようやく自分が春哉さんに抱きしめられたままだと気づき、慌てて離れる。

「す、すみません。あまりに気持ちよくて……じゃない! 何言ってんだ。
 そうじゃなくて、ありがとうございます」

 春哉さんにすっかり酔っていた。なんて、そんなこと言えない。
 ああ、恥ずかしいな、もう。

 視線を合わせられなくて、精一杯の感謝を込めてぺこりと頭を下げた。

「いや、よかったよ。それにしても、本当に君にはいつもハラハラさせられる」

 ふぅっと息を吐く春哉さん。
 そんな姿がたまらなく愛おしく思えた。

「ふふっ」

 あれ? 笑ってるよ、僕。

「なに笑ってるの?」

 春哉さんもやわらかな笑みを向ける。
 ふと視線が合えば、なんだか落ち着かなくなって、誤魔化すように話しかけた。

「なんでもありません。そういえば、春哉さんはどうしてここにいるんですか?」

 さっきから思ってた。だって、先に帰ったはずだよね。

 首を傾げると、春哉さんは少し視線を外してからぽつりと言った。

「その、気になってしまって。
 あとをつけていたんだ。ごめん」

 彼の顔がじわりと赤くなった。

 え? ってことは、さっきの宏明とのことも見られてたってこと?

 かあっと顔が熱くなる。

「すまない。見るつもりはなかったんだけど……」

 気まずそうに目を伏せたあと、控えめにこちらへ視線を向けてくる。

「はは、見られてたんだ」

 どうしていいかわからず、うつむいた。恥ずかしいというより、複雑な気持ちだった。
 好きな人に別の誰かとのキスを見られるなんて。

 しばらく沈黙が落ちる。

「あのさ、よかったら話を聞こうか?」

 春哉さんの提案に思わず目を見開いた。

 びっくりした。彼には僕の気持ちがわかるのかな。
 確かに今は気持ちがぐしゃぐしゃで、誰かに聞いてほしいって思ってたんだ。

「い、いいんですか?」

「うん、また家にくる?」

 その問いに、僕はこくりと小さく頷いた。