僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

 笑い声が聞こえる。お客さんたちのものじゃない、あの人の声だ。

 ――鞠さん。
 彼女の声が店内に響くたび、嫌でも反応してしまう。意識しないようにしても、視線は勝手にそちらへ向いてしまう。

 春哉さんと鞠さんが、楽しそうに笑い合っている。

 ……まだやってるよ。いい加減、帰らないのかな。
 って、だめだ。そんなこと考えちゃ。
 鞠さんだってお客さんなんだから。それに、常連だって言ってた。

 彼女は春哉さんのなんなんだろう。気になってしかたがない。

 そのあとも、気づけば何度も二人を目で追っていた。
 おかげで仕事に集中できず、ずっと気持ちが落ち着かない。

 また二人のほうへ目を向けた、そのときだった。
 足元の段差に気づくのが遅れ、つまずく。

 しまった、と思ったときには、もう体が傾いていた。
 倒れかけた僕を、伸びてきた腕が抱きとめる。その拍子に手にしていたお盆が傾き、コップが床に落ちてガシャンと大きな音を立てた。

 甘い香りがすぐ近くから漂ってくる。
 顔を上げると、春哉さんがいた。

「あ、す、すみません」

 慌てて体を離す。

「いいよ。それより……怪我はない?」

 顔を覗き込まれて、目を合わせていられなくなった。
 距離が近すぎるし、緊張するし、なにより恥ずかしいよ。

「だ、大丈夫です。すぐ片づけますね」

 恥ずかしさをごまかすように、床に散らばったコップの破片を急いで拾い集める。

「いたっ」

 指先にちくりとした痛み。血が滲んだ。

「見せて」

 春哉さんがしゃがみ込み、僕の手を取る。
 指先に目を落とした彼の表情が、わずかに曇った。

「休憩室に救急箱があるから、行こう」

 そう言って腰に手を回され、支えられるようにして立ち上がった。

 体が自然と密着してしまう。
 触れているところが熱い。
 気持ちが乱されて、頭の中が春哉さんのことでいっぱいになる。

 ……心臓がうるさい。恋って大変だな。


 休憩室にやってくると、春哉さんは僕を椅子に座らせてから救急箱を探した。

「あ、あった」

 隣に腰を下ろし、やさしい手つきで手当てをしてくれる。

 彼の指先にいちいち反応してしまう。触れられるたび、鼓動が跳ねた。

「はい、終わったよ」

 その顔を、ぼんやりと見つめてしまう。

「……どうしたの? もしかして他にもどこか怪我してる?」

「あ、いえ! だ、大丈夫です。ありがとうございます」

 恥ずかしい。また見惚れていた。
 慌てて視線を逸らしながら言葉を探す。何か話していないとこの空気に耐えられそうになかった。

「あの女性。鞠さんって、彼女ですか?」

 言ってしまった後で、はっとする。
 ――なんてことを聞いているんだ。ずっと気になっていたから、つい口がすべってしまった。

 春哉さんは少し困ったように笑う。

「うーん。あの人はなんというか、腐れ縁みたいなものでさ。友達かな?」

 嘘をついているようには見えなかった。

 ……友達、か。じゃあ僕は?
 春哉さんにとって、僕はどんな存在なんだろう。ただの従業員?

「春哉さんって優しいから、女性から人気ありそうですよね。
 付き合っている人っているんですか?」

 また勝手に口が動いた。
 聞きたくないのに、知りたくて。でも、彼女がいるって言われたらどうするんだろう。

「優しいわけじゃないよ」

 春哉さんは少し苦しそうに眉を寄せ、

「俺は……いや、なんでもない」

 言いかけた言葉を呑み込み、ごまかすように笑った。

「でも、愛翔くんにそう言われるのは嫌じゃない。ありがとう」

 その表情に違和感が残った。
 最近ずっと感じていたことが、また胸の中に引っかかる。

 春哉さんは何かを隠している。でも、それを問いただすほどの仲じゃない。

 目を逸らせないままでいると、彼の瞳がわずかに揺れ、そこに抑えきれない熱が滲んでいく。

「愛翔くん……」

 ためらうように伸びてきた手が、頬に触れた。
 そのまま、息がかかるほど顔が近づいてくる。

 けれど彼はそこで動きを止め、ゆっくりと身を引いた。その表情はどこか悲しそうだった。

 ……この前と同じだ。

 近づきたいのに、近づけないとでも言うように。

「春哉さん――」

「さ、戻ろう。俺たち二人がいないと店が回らないから」

 何事もなかったように爽やかな笑顔を向けられる。

 まただ。
 壁を作られたような気がした。

 それ以上は踏み込むなと言われているみたい。

 いや、そんな人じゃない。きっと理由があるんだ。
 でも、それが何なのかはわからない。

 僕はそれ以上何も言えなくなった。

 あなたのことが知りたい。
 ――いつか、ちゃんと話してもらえる日がくるのかな。