僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

「……春哉さん」

「うん?」

 いつもと変わらない穏やかな顔で、こちらを見る。

「さっきは、ありがとうございました」

 頭を下げると、春哉さんは首を横に振った。

「礼なんていらないよ。当たり前のことをしたまでだ」

 にこりと笑ったけれど、その表情がすぐに曇った。

「俺のほうこそ、怒りで我を忘れそうになってしまった。
 あんな姿を見せてしまって……怖かったでしょ?」

 そう言われて、あのときの様子を思い出す。
 確かに、いつもとは違っていた。冷たいというか、張りつめた空気をまとっていて、人を寄せつけないような鋭さがあった。

 でもそれよりも、助けてもらえたことがありがたくて、心から安心できた。

 この気持ちをちゃんと伝えなきゃ。

「いえ、春哉さんのおかげで助かりました。来てくれて、嬉しかったんです。
 あのときはただ怖くて……ああいうとき、いつも自分の無力さを思い知らされます」

 唇を噛み、視線を落とす。
 春哉さんは何も言わず、静かに待ってくれる。

「小さい頃から、女の子みたいってよく言われてて。
 確かに男らしくはないのかなって自分でも思います。でも、僕だって男の子で……ちょっと嫌でした」

「うん」

 やさしい相槌。それだけで、ふっと肩の力が抜ける。

「小学生の頃に一度、中学生のときに二度、痴漢に遭って……それから男性が怖くなりました」

 ひとつ、深く息を吸う。
 嫌な記憶がよみがえって、胃のあたりがきゅっと縮んだ。

 春哉さんは視線を逸らさず、ただそこにいてくれた。そのあたたかな眼差しが、そっと背中を押してくれる。

「それからは友達に触れられるのも怖くなって。
 でも、彼――宏明とのリハビリのおかげでなんとか回復しました」

「え? リハビリって、どういう?」

 少し驚いたように春哉さんが身を乗り出す。

 あ、言い方が変だったかな。

「えっと、最初は宏明に触れてもらうところからで。
 彼で大丈夫になったら、少しずつ他の友達にもって感じです」

「……ふーん」

 あれ? ほんの一瞬、雰囲気が変わった気がした。

 首を傾げたそのとき、春哉さんがわずかに身を寄せてきた。

「ごめん。少しだけ触れてもいいかな?」

 低く静かな声。
 彼はゆっくりと手を伸ばし、僕の頭を撫でる。

 とてもやさしい触れ方だった。

「辛かったね。よくがんばった」

 慈しむような眼差しのまま、あたたかな手がそっと髪を梳いていく。

「俺はどうかな。怖くはない?」

 せつなそうな瞳が、まっすぐ僕を見つめていた。

「は、春哉さんは……だいじょうぶ、です」

 喉が詰まり、うまく言葉にできない。

「そっか。嬉しいな」

 穏やかに笑った春哉さんの手が、髪から離れる。
 さっきまでそこにあったぬくもりが遠のいて、妙に心細くなった。

 寂しい。もっと触れていてほしい。

 そんなことを思うなんて、初めてだった。

 何も言えずにいると、春哉さんが前を向いたまま言った。

「俺は……愛翔くんのことが好きだよ」

「えっ!」

 思わず目を丸くする。

「いや、ごめん。突然だよね。
 でも、見ていると放っておけなくて。つい守ってあげたいと思ってしまうというか」

 じっと見つめられて、かあっと顔が熱くなる。

 ど、どうしよう。心臓がうるさくて、落ち着かない。
 これって……嬉しいってことなのかな。

 自分の気持ちなのに、うまく説明できない。

「とても素直でいい子だし。周りのこともちゃんと見えていて、気遣いもできる。
 なにより、笑顔が可愛いしね」

 んん? それって、従業員として褒められてるってことなのかな。

 頭の中がこんがらがる。

 躊躇いがちに顔を上げると、春哉さんと目が合った。さっきまでよりも熱を帯びた瞳に、息が詰まる。

 少しずつ距離が縮まっていく。
 緊張で身体は動かなかった。

 あと少しで唇が触れそうになったところで、彼の動きがぴたりと止まり、ゆっくりと離れていった。

「……え」

 あまりに唐突で、呆然としてしまう。

 あ、あれ? キスされるのかと思った。
 って、ちょっと期待してたのかな。恥ずかしい。

 顔を上げられない。
 気まずさに耐えきれず視線を向けると、春哉さんは俯いていた。

 やがて息を吐いて、困ったように笑う。

「もうそろそろ落ち着いたかな。遅いし、送ってくよ」

 いつもの爽やかな笑顔。その目には、さっきの熱はもう残っていなかった。

 一瞬で、距離を置かれたような気がした。
 確かに近づいていたはずなのに、見えない壁ができたみたい。

 出かける準備を終えた春哉さんが、いつもと変わらない声で言う。

「いこうか」

 差し出された手を、咄嗟に握りしめた。

「え?」

 驚いた顔に、はっとする。

「あ……ご、ごめんなさい」

 無意識だった。縋りつくみたいに手を取っていた。
 もうこれ以上、彼が離れてしまわないようにって。

 けれど、その手は離れなかった。

「いいよ。このまま、いこうか」

 ちょっと照れくさそうに笑う彼を見て、胸がじんわり熱くなる。

「……はい」

 繋いだ手に力を込めると、彼もぎゅっと握り返してくれた。

 まさか、自分から手を握るなんて。信じられない。

 でも、もうわかっている。

 これは恋だ。
 僕は、春哉さんが好き。