僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

 どれくらい抱かれていたのか、時間の感覚がぼやけていた。
 彼の静かな鼓動を感じているうちに、乱れていた呼吸も少しずつゆるやかになっていく。

「……もう、大丈夫?」

 耳元でやさしく問われ、小さく頷いた。

 おかげでだいぶ落ち着いてきた。
 春哉さんの腕の中は不思議なくらい安心する。

 涙をそっと拭ってくれるその手はあたたかくて、こわばっていた心までゆるんでいくようだった。

 僕の様子を窺うようにしながら、春哉さんは静かに聞いた。

「少し休もうか。俺の家、この近くだから」

「えっ……でも、そんな」

 いきなりの誘いに、さすがに戸惑った。
 家に? 嬉しいような恥ずかしいような、突然すぎて頭が追いつかない。

 僕がまごついていると、春哉さんはふわりと微笑む。

「無理にとは言わないよ。襲われたばかりだし、怖いかな?
 でも、ちょっと休んだほうがいいかなって思って。このまま家に帰るのは辛くない?」

 その声から、本気で心配してくれているのが伝わってくる。

 確かに、今は帰りたくなかった。
 きっとひどい顔をしている。こんな状態で帰ったら、祖父母を不安にさせてしまう。

「……はい。ちょっとだけ、いいですか?
 春哉さんなら、怖くないので」

 自分で言っていて、恥ずかしくなる。

 ほんと、なんでだろう。彼の家なら嫌どころか……行ってみたい、なんて思ってしまう。
 僕はどうかしている。

 春哉さんは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それからゆるやかに笑った。

「ありがとう。じゃあ、愛翔くんが落ち着くまで」

 彼は僕を支えるように立たせると、そのまま肩を抱いてくれた。

「……嫌、かな?」

 気遣うような優しい眼差し。

 僕は静かに首を振った。

「いいえ、ぜんぜん。春哉さんは大丈夫です」

 その答えに、春哉さんは少し嬉しそうに笑う。
 その笑顔を見た途端、胸がきゅっと締まった。

 やっぱり、僕――。


 春哉さんに支えられながら、夜道を歩く。

 しばらくして、ふと、さっきの光景が頭をよぎった。

 春哉さんが岸本さんに掴みかかり、凄んだあのとき。
 全身から滲み出ていた、ただならない気配。

 あんな彼を僕は知らない。いつもはすごく優しい人なのに、あの瞬間だけは別人みたいで……少し怖かった。

 隣を歩く横顔を見つめる。
 その視線に気づいた春哉さんが、目元をやわらげた。

 何かを隠していたり、背負っているものがあるとしても、それは僕にはわからない。

 ただ、この笑顔と伝わってくる温もり。
 それだけで、今は十分だった。

 それからも春哉さんは、時折こちらを気遣うように微笑みかけてくれた。
 肩をぽんぽんと叩かれるたび、胸があたたかくなる。

 他の男性だったら、きっとこんなふうには思わない。

 そう感じた瞬間、宏明の顔が浮かんだ。
 彼なら嫌ではない。でも、同じように胸が高鳴ることはないだろう。


 しばらく歩くと、静かな住宅街に出た。

 春哉さんが足を止めたのは、その一角にあるマンションの前だった。

 ……ここなんだ。

 もっと高級そうな場所に住んでいるのかと思っていたから、少し意外だった。
 でも、無駄に飾らない感じは春哉さんらしい気もする。

 エントランスを抜けてエレベーターに乗るあいだも、春哉さんはさりげなく僕を支えてくれていた。

 部屋の前まで来ると、彼は鍵を取り出してドアを開けた。

「どうぞ」

 促されて中に入ると、かすかにコーヒーの香りがした。
 お店とは少し違う、生活の中に馴染んだ匂い。

 ふふっ、ほんとに好きなんだ。お店でもいつも幸せそうに働いているもんね。

 そんなことを思いながら部屋を見渡す。
 窓辺には観葉植物が並び、棚には読みかけの本とコーヒー豆の瓶が置かれている。

 壁際のソファに目を向けたところで、動物の刺繍が入ったクッションを見つけた。

 あ、かわいい。

 目を留めていると、背中にそっと手が触れた。

「そこに座って。何か温かいものでも飲む?」

 にこりと微笑まれて、自然と頷いてしまった。

「あ……はい」

 言われるがまま、ソファに腰を下ろした。

 さっきから鼓動が落ち着かない。

 ここは春哉さんの部屋。そう意識すると、妙にそわそわしてしまう。
 男の人の家に……って、なに考えてるんだ。
 これじゃ女の子みたいじゃないか。

 キッチンのほうから音が聞こえ、しばらくして春哉さんが戻ってくる。

 その手には湯気の立つマグカップがあった。

「ホットミルクだよ。コーヒーだと、眠れなくなるだろうから」

「……ありがとうございます」

 カップを受け取ると、ふわっと湯気が顔にかかる。
 そっと口に含むと、ほんのり甘い温かさが喉を通っていった。

「落ち着いた?」

 そう言いながら、春哉さんが隣に腰掛ける。ほんのわずかに距離を空けて。

 ……気を遣ってくれているんだ。優しいな。

「はい。少し、ほっとしました」

 春哉さんが微笑む。
 胸が熱くなって、トクン、と心臓が小さく鳴った。

 もっと知りたい。そして、僕のことも知ってほしい。そんな気持ちが膨らんでいく。

 静かな部屋の中、隣にいる春哉さんの存在だけが、はっきりと感じられる。

 彼が少し動くだけでドキッとしてしまう。
 胸が高鳴って、どうにかなりそうだ。

 こんなときに浮かれてしまうなんて。

 自分でも呆れてしまいそうになるのに、それでも、もう少しだけこのまま隣にいたかった。