僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

 バイトが終わると、外はすっかり暗くなっていた。

 店の前にはいつもなら宏明が待っている……はずだった。
 いいって言うのに、いつも勝手に待ってるんだから。なのに、今日はその姿がどこにもない。

 スマホを取り出して確認してみたけど、連絡は来ていなかった。

「やっぱり、まだご機嫌斜めか」

 ぽつりと誰に聞かせるでもなくつぶやく。

 まあ、今までだって喧嘩することはあったし、そこまで気にすることでもないのかもしれない。

 でも、なんだろう。
 今回はちょっと違う気がした。

 はっきりとはわからないけど、あのときの空気……いや、気にしすぎか。

 ほんのり冷たい風に肩をすくめて歩き出すと、春哉さんの笑顔が浮かんでは消え、宏明の曇った顔も胸をよぎった。

 うーん。悩みが尽きないな。
 せめて宏明と早く元通りになりたい。いつも隣で笑っているのが当たり前だったから。
 ……寂しいじゃん。

 ため息をひとつこぼし、ポケットに手を入れる。

 隣に誰もいないことがこんなにも心細いなんて。

 車が通り過ぎるとき、ヘッドライトが眩しくて目を細めた。暗い夜道を歩いていると、気持ちまで沈んでいくようだった。
 街灯の明かりはあるし、走る車のライトも見えるけど、それだけじゃどうにも心もとない。

 っていうか、怖がりなんだよね。昔からおばけとか苦手だ。

 辺りは静まり返っていて、聞こえるのは自分の足音だけ。

 そのときカサッと音がして、振り返った。
 人影はない。けれどなぜか悪寒が走り、急に恐怖が込み上げてきた。

 こ、こわい……。

 スマホを取り出して、宏明にメッセージを送ろうとした。
 けど、画面の上で指が止まる。こんな気まずい状態で、いったい何を送ればいいのかわからない。
 ためらったまま指を引っ込めたとき、

 コツン、と小さな音がした。

 後ろを見ても通りには誰もいない。でも、確かに誰かがいるような感じがする。

 こういうの敏感に感じ取ってしまうんだよね。嫌だけど。

 足を速めながら、考えがぐるぐると巡った。
 ど、どうしよう。……まさか、また痴漢?

 背中に視線のようなものを感じて、身体がこわばる。

 気のせいだよね。そう願いたい。

 しばらく歩いていると、ふっと気配が消えた。おそるおそる振り返ったけれど、やっぱり誰もいなかった。

 よかった。やっぱり勘違いだったのかも。
 そう思って息を吐いた、その刹那。

 背後から、身体を強く引かれた。

「……っ!?」

 驚く間もなく、誰かの腕が腰のあたりに回される。同時に口を塞がれた。

 背後から押し寄せる体温。
 耳元にかかる息に、ぞくりと震えが走る。

 な、なに……こわい。

「久しぶりだね、愛翔くん」

 低い声。その響きに聞き覚えがあった。

 信じられない思いで振り向くと、そこにいたのは――岸本さんだった。


「や、やめてくださいっ!」

 必死に腕を振りほどこうとするけれど、びくともしない。
 力の差があまりにも大きかった。

「逃げられると思った?
 あの日から、ずっと君のこと考えてたんだよ」

 耳元で囁かれ、背筋がぞっとした。気持ち悪い。
 足をばたつかせても、腕を掴まれたまま強く引き寄せられてしまう。

 夜の通りには人影がなく、助けを呼べる距離には誰もいない。

「離してくださいっ!」

 声が震える。
 岸本さんは僕を抱えたまま、引きずるように暗い路地へ入っていった。

「やだ……やめてっ!」

 必死に抵抗した拍子に、足がもつれて転んだ。
 そのまま逃げようとしたけれど、すぐに上から覆いかぶさられた。

 腕を掴まれ、身動きが取れなくなる。心臓が痛いほど鳴って、呼吸まで乱れていく。

「へへっ、可愛いなあ」

 にやにや笑いながら、岸本さんがさらに迫ってきた。

 いやだ。
 ……誰か、助けて――!

 涙がにじんだ視界の端で、影が動いた。

「おいっ!」

 鋭い声が夜気を切り裂いた。
 次の瞬間、岸本さんの体が弾き飛ばされる。壁に叩きつけられ、鈍い音とともにうめき声があがった。

 なにが起こったの?

 顔を上げると、そこには春哉さんがいた。
 仁王立ちで、岸本さんをぎろりと睨みつけている。

 表情は暗くてよく見えない。それでも、いつもの穏やかな彼とはまるで違うことだけはわかった。

「おまえ、何してた」

 低く、冷えきった声だった。

 春哉さんは僕の前を通り過ぎると、岸本さんの胸ぐらを掴んで乱暴に立たせた。

「うっ……」

 岸本さんは見るからに怯えていた。体は小刻みに震え、顔は青ざめている。
 こちらからは、春哉さんの表情が見えない。

「す、すみません。たすけてください」

 弱々しい声。さっき僕に迫ってきた勢いは、もう欠片もない。

「二度と彼に近づくな」

 岸本さんは何度も頷いた。

「消えろ」

 吐き捨てるような一言とともに、春哉さんは手を離した。

 解放された岸本さんは息を呑み、後ずさる。
 何か言いたげにこちらを見たものの、すぐに背を向け、夜の闇へ駆けていった。

 遠ざかる足音が聞こえなくなると、辺りはまたしんと静まり返る。
 春哉さんは岸本さんが消えた先をしばらく見つめてから、小さく息をついてこちらを振り返った。

 僕の前で膝をつくと、安心させるみたいに微笑む。

「……ごめん。怖かったよね」

 いつもの春哉さんだった。
 さっきまで岸本さんを睨みつけていた人と、同じ人には思えない。

 戸惑う間もなく、ふわりと抱きしめられた。
 彼の匂いと体温に包まれる。

「あ、あの……」

「もう大丈夫だから」

 そう言って、背中をやさしく撫でてくれる。

 なんだろう、すごく心地いい。
 さっきまであんなに恐怖に支配されていたのが嘘みたい。

「俺がいるから」

 その言葉に、張りつめていたものがふっとほどけた。
 喉の奥が熱くなって、こらえていた涙が溢れ出す。

「う……うぅ……っ」

 泣きながら春哉さんにしがみつくと、何も言わず髪を撫でてくれた。

 そのぬくもりに、どうしようもなく胸が熱くなった。