僕が恋をしたのは――ひなたの恋と、春の影

 鏡の前でため息をつき、そっと目の前に映る自分を見た。

 ここは喫茶店の更衣室。壁際にはロッカーが整然と並んでいる。

 真新しい制服についさっき袖を通したばかりだ。新品特有の匂いがして、なんだかちょっとそわそわする。
 それに、胸元のリボンタイにやけにふんわりしたカーディガン。下は普通のスラックスなのに、上だけは男女共通とはいえ、どう見ても女性向けだよ。

 鏡の中の自分をじっと見つめる。
 うーん、やっぱり女の子みたい。いつものことだけど気分が沈むんだよね。

 髪を指で整えながら視線を逸らした。
 昔から言われ慣れている言葉だけど、どうしても引っかかる。「かわいい」なんて言われてもちっとも嬉しくない。
 
 僕は男なんだから。
 
 高校一年生の健全な男子で、人並みに女の子にモテたい願望だってちゃんとある。なのに、なぜか男性からモテるんだよね。

 告白されたことも一度や二度じゃない。
 痴漢に遭ったことだってある。
 
 思い出したくもないのに、そのときの感覚がふいによみがえり、背中にひやりとしたものが走った。

 もう、あんな思いは二度と御免だ。

「今日からバイトだ……しっかりしなくちゃ!」

 気合を入れ直し、鏡に向かって笑ってみせた。
 けれど、口元だけが上がった引きつった笑顔にしか見えない。
 
 ふぅと息を吐き、肩の力を抜く。
 
 もう一度だけ鏡を見てから、部屋を出た。

 
 更衣室を出ると、コーヒーの香りが鼻をくすぐった。
 焙煎した豆の香ばしさに、カップを並べる軽い音。ミルクスチーマーの蒸気音も聞こえてくる。
 本格的な喫茶店の空気だ。

 通路越しに見えるカウンターの向こうでは、先輩らしき人たちがテーブルを拭いたり、イスを整えたりしながら、忙しなく開店準備を進めていた。

 今日からここで働くんだ。
 そう思うと喉が渇いてくる。でも、少しわくわくしている自分もいた。

 カウンター脇を抜けてフロアに足を踏み入れると、「おはようございます」と声が飛んできた。

 慌てて頭を下げる。

「お、おはようございます!」

 少し裏返ってしまった。

「今日が初日だよね? 日向(ひゅうが)愛翔(まなと)くん」

 声のしたほうへ顔を上げると、すぐ隣に背の高い男の人が立っていた。

 その姿を見た瞬間、息を呑む。

 ……かっこいい。

 見つめたまま、固まってしまう。
 だって、今まで見たことがないくらいイケメンなんだもん。

 整った顔立ちに、優しそうな目。近くにいるだけで空気がやわらぐような、落ち着いた雰囲気の人だった。

「俺は店長の斎藤(さいとう)春哉(はるや)。よろしくね」

「て、店長……?!」

 一瞬耳を疑った。こんなに若い人が? 店長ってもっと年配の人のイメージだった。
 思わずもう一度、その顔をまじまじと見つめてしまう。

 い、いくつなんだろう。見た目はすごく若いけど。

 穴が開くほど見つめていると、にこりと微笑まれる。胸が大きく跳ねて、慌てて視線を床に落とした。

 ……あ、あれ? なんで男性にドキドキしてるんだ?

 正体不明の動悸に戸惑いつつ、僕は他の店員さんたちにも挨拶をして回った。


 間もなく開店し、お客さんがちらほらと店内に入ってきた。
 それぞれの持ち場へ散っていく中、僕も遅れないよう仕事に入る。

 店長や先輩たちに声をかけられながら、ひとつひとつを慎重にこなしていく。
 お客さんの前に立つと緊張して失敗ばかりだったけど、そのたびに誰かがさっとフォローに入ってくれて、なんとか乗り切ることができた。

 そして、ようやく少しだけ落ち着いてきた頃。

 注文されたコーヒーをトレーに載せ、両手でしっかり持って運んでいく。こぼさないよう気をつけるだけで精一杯で、足取りはどこかおぼつかなかった。

 慎重に足を踏み出した、そのとき。

 床のわずかな段差に足が引っかかり、体がぐらりと傾いた。

「わっ……!」

 もうだめだと覚悟した瞬間、ぐいっと腕を引かれ、あたたかな体温に包み込まれた。
 鼻先をかすめたのは、店内の香ばしさとは違うやさしい匂い。

 え? な、なにが起こった?

 目を瞬かせていると、耳元でやさしい声が響く。

「大丈夫? 焦らなくていいよ」

 店長がしっかりと僕の身体を支えていた。腰に回された腕と、すぐそばにある整った顔に心臓が強く脈を打つ。

 ひ、ひえっ。近い。
 どうしていいかわからず、息を詰めた。

「ご、ごめんなさい。ありがとうございます」

 慌てて体勢を立て直し、深く頭を下げる。

「ううん。初めてだもん、緊張するよね」

 向けられたのは、やわらかな笑顔だった。
 なんて優しく笑う人なんだろうと、ぼんやり見惚れてしまう。

 そのとき、客席のほうから、くすっと小さな笑い声が聞こえた。

 え……僕、笑われてる?
 急に恥ずかしくなり、視線を床に落とす。

「さ、いこうか」

 店長の手が、そっと背中に触れた。
 そのまま軽く肩を抱かれ、バックヤードのほうへ導かれていく。

 ……なんだ?
 胸の高鳴りが、なかなか収まらないぞ。

 どうしちゃったんだろう、僕。