君が僕のファインダーに収まるとき

<5話:ハッピーバレンタインとホワイトデー>

 俺の首元を飾るネクタイが変わったことを指摘してくるクラスメイトは一人も居なかった。
 学年で色が違う訳ではないし、葵斗は物の扱いが丁寧だからさして傷んでいなかったから……というのが大きな理由だろう。
 きっと変わったことさえ誰も気付いてないと思う。
 二月も一週間が過ぎると校内全体が何となくソワソワしはじめた。
 理由なんて簡単だ。バレンタインデーが近付いてくるから、ただそれだけ。
 それだけれども、女子はこそこそとチョコレートを渡す相手に声を掛けるタイミングを狙うし、男子は自分が受け取ったチョコレートの数を競い合う。
 俺にはまったくもってどうでもいいイベントだ。
 『好き』を押し付けられるイベントなんて、逆に迷惑でしかない。
 適当にばら撒かれる、明らかに義理だと判るチョコレートは適当に貰っておく。お返ししなくても文句を云われないし、お返しないの? とせがまれたら棒付きキャンディーでも配っておけば済む。
 改まって渡されるようなチョコレートは一切貰わない。呼び出しに応じることすらしない。僅かにでも期待を持たせるようなことはしたくないからだ。
 同級生と先輩から(自分で云うのも何だが、運動部の助っ人をあちこちでしているお陰で先輩からの評判も悪くない)の畏まった呼び出しから逃げるように写真部の部室に飛び込んだ。
 机の上に鞄はあるが、その持ち主が居ない。どうせまた暗室に篭っているのだろう。安定過ぎて逆に安心する。
 机の上に、友チョコとかいう名目で配られた一口チョコをひとつひとつ積んでいく。
 七個積み上げたところでバランスが崩れてしまい、あーあ、とパイプ椅子の背凭れに背中を預ける。
 丁度十個貰ったチョコレートは殆ど柄が被っていない。人差し指でこれはこっち、これはあっち、と将棋みたいに机の上で滑らせる。
 そうして満足いく配置になったところで、ポラロイドカメラを取り出しシャッターを切る。
 一応、バレンタインの思い出にと。
 あと、単純にバレンタイン限定の外装はデザイン性が高くて視覚的に楽しい。
 そんなことをしていたら、ギィ、と奥のスチールが音を立てて開いた。出て来たのは当然と葵斗に他ならない。
「あーおと?」
「何? 千理」
「チョコ、幾つ貰った?」
 にやにやと軽薄を装って問えば、葵斗は現像したばかりだと思しき写真を机に広げながらパイプ椅子に腰を落とした。
「貰ってないよ」
「うっそだぁ」
「嘘を吐く理由がないじゃないか……」
「じゃあ義理は?」
「義理も貰ってない」
 写真を選別している葵斗を見ながら、机にぺたりと頬をくっつける。
「何で?」
「期待されても困るし」
「ふぅん……」
 それは、期待されたことがあるということなのか。
「千理こそ、たくさん貰ってきたんじゃない?」
 横目に流れてきた視線に笑う。
「貰ってないよ」
「君にチョコを渡したい女子は多そうだけど」
「だって、期待させるのは良くないだろう?」
 俺だって葵斗と同じ理由だと肩を揺すり、それにと机に散らかしたチョコレートをひとつ葵斗の方へと滑らせる。
「葵斗が居るのに、貰うのは不義理だろ?」
 くすくすと笑ったら、葵斗は一瞬目を伏せてから「それなら……」とブレザーのポケットに手を差し込んだ。
 そうして出て来たのは片手にすっぽりと収まる程度のラッピング袋。黒い紙袋に赤いリボンが銀色のテープで留められている。
「期待も何も関係なかったら受け取ってもらえる?」
「……何、それ葵斗から?」
「うん、そう……」
 期待も何も、一応付き合ってる僕からなら断る理由はないと思うけど……と控えめな声に、ははっと笑う。
「葵斗がそんな乙女思考を持ってるとは思わなかった」
 というか、クリスマスを恋人の一大イベントとして意識していなかった葵斗からまさかバレンタインに贈り物をされるとは思わなかった。
 俺の色濃い揶揄に、葵斗はほんの少しだけ決まり悪そうな顔。
「外国では、性別関係ないらしいし」
 特別なことじゃないと云い訳しながら、葵斗は俺の手首を握って手の平に小さな紙袋を乗せてきた。
「貰って?」
「…………」
 じ、と手の上の紙袋を見下ろしてから、俺はもう片方の手で紙袋を摘んだ。
「中、見ても良いか?」
「うん」
 葵斗が頷くのを待ってから、俺は紙袋の口を留めているテープをそっと剥がす。そうして逆さにした紙袋から出て来たのは透明の袋に入った、
「……ピアス?」
 片側には黒いジルコニアキューブ、もう片方にはねじ式のキャッチがついているそれ。
「ピアス、空いてるなって……思ってたから」
「あ、気付いてたんだ?」
「流石に、気付いてるよ」
 小さく唸るような声が湿度を孕んだように感じたのは気の所為か。
「でも学校で着けたら校則で引っ掛かるしなぁ」
「いつも着けてくれるつもりなの?」
「だって、葵斗がくれたものだし?」
 悪戯っぽく笑う俺に、葵斗は軽く舌先で唇を舐めた。
「……学校では、着けなくて良い」
「何で?」
「休みの日……一緒に出掛ける時だけ、着けてて欲しいから……」
 そっぽを向いて吐き出されたのに、じわり、皮膚に染み込んでくるような葵斗の声。
「…………じゃあ、次のデートで初披露かな」
 殆ど無意識に口をついて出た俺の台詞に、葵斗はふんわりと嬉しそうな顔をして小さく頷いた。
 ……何だろうな。やっぱり誰かを特別に好きになるということはよく判らないままだけれども。
 葵斗が俺に何かをしてくれた時に彼が浮かべる微笑は単純に好きだからたくさん見たいなとは思う。


 
 中学時代から義理チョコすら貰わないことにしている僕にとってホワイトデーというものは何の特別さもなく、極々普通の日常の中に溶け込む。
 飽くことなくいつも通り写真部の部室のドアを開けて暗室に篭もる。
 まだ冬物のコートは手放せないが、朝焼けの色は変わり始めていた。
 早朝に撮った写真を放課後に現像する。もうずっと続けているルーティーンだ。
 暗室を出ると、部室には千理……は勿論のこと、他に僕の同級が居て、のんびりと他愛ない話をしていた。
「あ、葵斗」
 パッ、と僕を見た千理が手を上げる。同級も、一ノ瀬は相変わらずだなと苦笑しながら「じゃあ俺はもう帰るよ」と、部室を出て行った。
 僕と千理の関係性に一応の名前があることは明かしていないのに、まるで空気を読まれたかのよう。
「ほーんとに幽霊部だな、写真部って」
 からからと笑う千理には否定も肯定もしない。
 現像した写真を机に広げて気に入る写真を見繕う。
「葵斗」
「うん?」
「口開けて」
「え?」
 母音を発する形で動くのをやめた唇の隙間に何かを突っ込まれた。
 口中にふんわりと漂ったのは甘い香り。
「ほら、あーん」
 あーん、と自分の口を大きく開ける千理に倣って少しだけ口を大きく開ける。
 すると、甘い味が更に口中を満たした。
 無意識に噛むと、サクリとした歯触り。
「クッキー……?」
 ついそのまま咀嚼し、飲み込んでから首を傾げる。
「そ。今日ホワイトデーだから」
「…………」
 これはお返し、ということなのだろうか?
「ホワイトデーどうしよって姉さんに相談したら、残るものに悩むんだったらお菓子が良いんじゃないかって」
 そう云われたから、作るのを手伝ってもらったんだ。
 まだあるぞ、とラッピング袋をカサカサ鳴らす千理に、ん? と思う。
「千理、お姉さん居たっけ?」
 記憶では千理に居るのは少し年の離れたお兄さんだった気がするのだけれど。
 あれ? と首を更に傾げたら、あぁと千理は手をパタパタさせながら笑った!
「ややこしくてごめん、兄貴の彼女のこと。もう結婚秒読み状態だから結構前から姉さんって呼んでてさ……」
 それより、と千理が僕の双眸の奥を覗き込んできた。
「美味くなかった……?」
 そう問われてから、やっと僕は自分がクッキーの味の感想をまだ発していなかったことに気付き、慌てて首を左右に振る。
「おいしいよ」
 それは本当。少し懐かしい甘さはまさに手作りクッキーといったところ。
 それを千理が作ってくれたのだというのならおいしさは何十倍にも膨れ上がる。
「なら、もっと食べるか?」
 今日の俺はご機嫌だから食べさてやるよ、だなんて冗談めかす千理。
 しかしそれを冗談で終わらせたくなくて、僕は千理の隣に座り体を九十度回転させる。
 千理と向き合って薄く唇を開けて見せれば、千理はしょうがない先輩だなぁなんてくすくすと笑いながらもう一枚クッキーを僕の口に運んだ。
「千理は、女子生徒にもこんなことを……?」
 暗に義理チョコのお返しにも、と匂わせたら、彼は「まさか」と大袈裟に肩を竦めた。
「義理チョコには義理キャンディーだよ」
 手作りのものなんてあげたらそれこそ勘違いされるだろ。そんなの勘弁だ。
 苦笑してほら、ともう一枚クッキーを食べさせられる。
「ははっ、何だか餌付けしてるみたいだ」
 普段こんなこと誰にもしないから、ちょっと新鮮な気分だなと千理は軽やかに笑った。
「ましてや葵斗に餌付け出来る奴なんて、他に誰か居るか?」
 面白がる千理に、他に居る訳がないと目を細める。
 結局五枚のクッキーを食べさせてもらってから、残りは家で食べてくれと黄緑色の可愛らしいラッピング袋を握らされた。
 さて、もうそろそろ下校時間だな。
 ひょいと立ち上がった千理が、リュックを肩に掛ける。
 それに倣い立ち上がって部室の鍵を手にする。
 顧問に鍵を返してから辿った帰路は濃い紫色。
 いつものようにホームの反対側から手を振る千理に小さく手を上げ、ホームに滑り込んできた電車に乗り込む。
 家に着いて鞄にしまっておいたラッピング袋を出したら、ビニールが二枚構造になっていることに気が付いた。クッキーが入っているビニールと、もう一枚外側にあるビニールの間にはポラロイドカメラで撮ったと思しき写真紙が一枚裏向きに入っている。
 それを取り出して、僕は目をぱちくりさせてしまった。
 写真紙に写し出されているのはピースをした千理のピンショット。油性のカラーペンで星がみっつ書き込んである。
 あぁ、これが相思相愛だったのなら星じゃなくてハートマークが書いてあったのかな……なんて思ったら得も知れない切なさを覚えた僕はやっぱり千理のことを大好きになってじっているらしい。
 
 一月は行ってしまう。
 二月は逃げてしまう。
 三月は去ってしまう。
 
 そんな古い言葉通りに季節は流れ、あっという間に僕たちの学年はひとつの終わりを迎えた。