君が僕のファインダーに収まるとき

<1話:はじまりはストーカー>



 暗室の壁にピン留めした一枚の写真を眺めながらほうと溜息。
 ピントが合わず、ブレてしまっている写真の左端を注視する。フレームアウトしそうなその人物にだけ焦点が合った写真は奇跡の一枚とでも云おうか。 
 遅咲きの桜が最後の雨を降らせた日。ぼやける四角の中で唯一明確に像を結んだ真新しい学生服を纏う男子学生に目を奪われ、心惹かれたのは偶然ではなく必然に他ならない。


 
 高校も二年の春。僕こと一ノ瀬葵斗は、所属する写真部の顧問から「入学式の写真撮影係になって欲しい」と頼まれ、体育館の隅でデジタルカメラを手に構えていた。
 顧問から借りた受けた備品のデジタルカメラは普段自分が使っているものとはまるで勝手が違う。
 何故なら、僕はデジタルカメラでもスマートフォンのカメラでもなければインスタントなトイカメラでもなく自分でフィルムを充填して撮影をする昔ながらのフィルムカメラを使っているからだ。
 理由はとても単純で。伯父、祖父、曽祖父と代々写真館を営んでいるから古いカメラに馴染みがあるというだけのこと。
 扱いはデジタルカメラの方がずっと簡単だ。
 顧問からの頼まれ事に僕は何ひとつ困ることなく淡々と、そして粛々と入学式の様子をカメラに収めていった。
 入学式が無事終わり新入生が体育館から校舎に移動した後、写真部の顧問にデジタルカメラを返却してから僕は私物のフィルムカメラを手にして校舎と校門を繋ぐ並木道へと出た。
 新しい門出を祝う役目を終えたからもう良いだろうと云わんばかりに、残り僅かだった枝先の桜の花片が風に乗って踊り出す。
 季節の移ろいは風景写真を撮る人間にとってこの上ない楽しみだ。
 淡紅霞が舞う世界を四角く四角く切り取っていく。
 何十回とシャッターを切っていると、校舎から生徒たちがまばらに出てきた。キラキラとした光の微粒子を纏うその生徒たちは新入生たちなのだろう。
 人物像を撮るつもりはなく、しかし折角だから一枚くらいは微粒子が散るその様子を収めておこうかと最後に一回シャッターを切った僕は、新入生たちと擦れ違うように校舎の中へと足を踏み入れた。
 デジタルカメラを返却した際に顧問から部室の鍵を借りていたから、真っ直ぐ写真部の部室に向かってそのまま早速奥の暗室に篭る。
 シャッターを切った数だけ写真紙に現像した景色はどれもピントが合っていない。いつものことだ。
 フィルムカメラで撮影する写真はシャッターを切り始めてから何年経ってもぼやけたものにしかならない。
 でもそれはきっと僕が本当に見ている世界を写し出しているのだろうと思っている。
 その証拠になるのかどうかは判らないが、デジタルカメラで撮影する写真にブレは生じなかった。
 存在はするけれども確かな像を結ばない世界。
 僕はずっとそんな曖昧な世界で生きている。
 黙々と現像の手を進めていると、ぼやけた淡紅霞の端に微粒子を見付けた。
 あぁ最後に撮った写真か、と何とはなしまじまじとその写真を見詰めた僕は思わず目を大きくしてしまった。
 フィルムカメラで切り取る四角は景色も人物もぼやけるというのに。微粒子を纏う学生服の男子生徒数名の中で、一人だけしっかりと確かな輪郭を描いていたからだ。
 その横顔は決して大きく写ってはいなかったのに、造作がはっきりと脳内に浮かんだ。
「見付けた……」
 無意識に唇をすり抜けた呟きは、何かしらの天啓でも受けたようなそれ。
 脳裡に優しく柔らかな、今は亡き母親の声が久し振りに蘇った。
「あなたもきっとお父さんのよう、誰かただ一人を運命の人だと鮮明に写すのでしょうね」
 まだ幼かった頃の僕が自分で現像した写真を見て目を細めた母親がポツリと零した台詞。
 当時はその意味を理解出来てはいなかった僕だけれども、今この瞬間の僕にはその意味が判った。
 不鮮明な景色の中で唯一確かな輪郭を描く、そんな彼は僕がこれまで探し求め続けてきた『確かな世界』を生きる『運命の人』なのだ、と。
 そんな謎の確信が、この時僕の胸をぎゅうと強く鷲掴んだのだった。
 
 写真にはっきりと写った男子生徒が新入生だったのだと知ったのは、入学式の翌日すぐのこと。
 朝校門をくぐり校舎へと続く並木道を歩んで居たら、後ろから一人の生徒が駆けて来た。その生徒は僕を追い越して数メートル先を歩いていた制服の肩を叩くと、歩調を緩めて纏う光の微粒子を数多くした。
 彼は学内ですぐに有名な存在になった。全学年合同球技大会の際に大活躍をしたからだ。
 名前は紅木千理。入試の成績はそこそこ上位に食い込んでいたらしく、文武両道を掲げるに相応しい人物。
 キラキラと陽光を振り撒くよう、いつも誰かしらと居る彼はどうやら社交的な性質のようだ。
 その反面、愛嬌を振り撒くのが上手くない僕だから軽率に彼に話し掛けに行くことは出来ず。
 それならば、と。僕はひっそりと自分が覗くレンズの向こう側に彼が居るだけでも良いと思うようになった。
 球技大会以降、彼はどの部活にも所属しない代わりにあちこちの運動部の助っ人を頼まれていた。
 明るく社交的な千理。そして、良くも悪くも孤立しがちなり僕とは真逆のタイプの人間。そんなところも惹かれてしまう理由になるのかも知れない。そう、それはまるで磁石のS極がN極に引かれるのと同じように。

 桜の衣がピンクから若い緑色へとすっかり変わった頃。
 今日も今日とて部室奥の暗室に篭る僕と、放課後のグラウンドや体育館を駆け回る彼。
 サッカーやテニス、バスケットにバレーボールなど。その活躍振りは皆の視界の端を鮮明に灼いていた。
 写真部は部員が少なく、活動もあまり活発ではなかったから、部室もその奥にある暗室も殆ど僕専用になっていた。
 活動日でなくても鍵を借りられるその場所は、僕にとって誰にも邪魔されない特等席なのだ。
 暗室に篭っていない時の僕は少し遠い場所から彼に向けてこっそりとお気に入りのフィルムカメラを構える。
 あっちへ、こっちへと忙しない動きの彼をレンズ越しに見詰めながら、僕は無心でシャッターを切った。
 現像した写真はやはり全体的にぼやけている。ぼやけているのに、千理の姿だけは綺麗な像を結んでいる。
 ぼやけた風景に浮き上がる千理の姿。それはまさしく『僕が生きている世界』に違いなかった。
 これが恋だとか、好きだとか、そういう類の名前が付くものなのかは判らない。
 けれども彼に向けてシャッターを切る僕の指は、どうやったって止めることが出来なかった。
 僕が暗室に篭る理由は一人になりたいから。現像作業が楽しいと思うから。ただそれだけのことではない。
 暗室の薄暗さが心地好いと思うのは、どこかしら胎内回帰に似ているのではないかと思う。優しく穏やかに、あたたかく守られていたい。そんな願望。そんな中で彼の写真を現像するのはこの上ない至福の時だ。後ろ姿、横顔。隠し撮りのように(実際隠し撮りではあるのだが)彼を写した写真はあっという間に両手の指だけでは到底数えられなくなった。
 僕はただただひっそりと千理の写真を撮り続けるだけ。
 そんなに彼のことを撮り続けるのだったら、もういっそ自分の被写体になってくれと云えば良いのかも知れない。けれども非社交的な僕がそんなことを云える訳もない。
 それに、何故写真を撮りたいのかなどと訊かれても困る。僕は器用な嘘は吐けない。一般論、隠れて写真を撮っているのは不健全だと僕自身もその点は重々承知の上。
 それでも僕は彼をこっそりと被写体にしていたい。
 あんなにも伸び伸びと、そしてキラキラしながら生きている千理の記録を残さずには居られなかったのだ。
 そんな風に春、夏と彼の学生生活をファインダー越しに覗いてきた僕にとって、登校の必然性がなくまた彼がどの部活の助っ人にいつ呼ばれているかを知れない夏休みは酷く退屈だった。
 そうして二学期が始まって幾らかした頃。
 夏休み前と同様千理の姿を写した写真に満足して暗室から出ると、パイプ椅子よっつしか置けない小さな部室にひとつの影があった。思わず息が詰まる。自分と同じ制服を着ているその影はゆるりと顔を上げ、真っ直ぐに僕を見詰めて口を開いた。
「アンタ、一ノ瀬先輩、だよな?」
 どこか試すようでもある口調に、ぎこちなく「あぁ」と頷く。
「一ノ瀬先輩。あんまり目立つ方じゃないけど、優等生なんだってな」
 運動部の先輩から聞いたよと端を上げた唇がそう紡ぐ。
「そんな優等生の一ノ瀬先輩には盗撮の趣味があったんだ?」
 唇の片端を上げたまま、揶揄濃く僕を見上げたその生徒は僕がずっと追い掛けて来た彼——千理その人だったのだ。
 何故それを、と問うより先に彼が笑む。
「俺、人の視線には割と敏感なんだ」
 大きくない机に置いてあった学校の備品であるデジタルカメラを玩具のように手で遊ぶ千理は、僕のことを知らない様子で喋る。
 幸か不幸か、デジタルカメラのデータに千理の写真は入っていない。
 入学式翌日の朝に声を掛けた日以来、初めて真正面から見る彼の顔に怒りの色は見えない。嫌悪もない。だから余計に戸惑った。僕がこっそりとファインダー越しに見詰めていたことに、一体いつから気が付いていたのだろう。
 デジタルカメラをいじる紅木千理がふと手を止めて首を傾げる。
「俺、一回だけ先輩のこと見たんだけどな」
 その写真がない。たまたま取り損ねたのか? それだったら先輩は惜しいことをしたし、俺は詰まらない。
 そう拗ねたような声で云ってからカメラを置いた彼は頬杖をつきながらもう片手の人差し指で机を叩いた。
「一ノ瀬先輩は、俺のことが好きなの?」
 その問いに黙せば、彼は肩を竦めて笑った。
「まぁ、別に良いけどね。悪用しなければ好きなだけ撮って良いよ」
 そんなことを云う彼の心理がいよいよ判らなかった。
 怒りや嫌悪をぶつけられて当然な行動だというのにそんなことにはさも興味薄そうにゆっくり瞬くと、彼は静かに立ち上がった。
「今度、俺にカメラのこと教えてよ。興味があるんだ」
 そう云いながら一笑する彼が益々理解出来なくて僕は喋るどころか瞬きすらも忘れてしまう。
 じゃあ、と。何をしに来たのか判らないまま、千理は写真部の部室から出て行く。
 その背を見送ってから、僕はすぐさま暗室に引き返した。山にしてある写真を一枚一枚注視する。そうしてごくりと唾を飲む。眩しい夏空の下、級友たちと親しげに輪を作っている彼の視線が……確かにこちらを向いて笑っていたからだ。
 背筋に、冷たいものが一筋流れ落ちた。
 それからというもの。僕はファインダー越しに彼を見てもシャッターを切ることを控えるようになった。
 五回に一回は彼の視線がこちらを向くようになっていたからだ。
 僕のしていることはいっそストーカーじみている行為だというのに。僕を知らない千理の視線が僕を捉える、その視線がどこか怖かった。
 シャッターを切り、現像した写真は暗室の壁にピン留めしてある。それは一枚や二枚ではない。壁を埋め尽くすようにそれらは張り巡らされている。それこそストーカーの所業とさして変わりはしないだろう。ただ、あくまで校内でのみの行為であることが辛うじて罪を軽くしてくれるとは思うのだが。
 残暑もそろそろナリを潜め、水色が高度を上げ始めた頃。事件とも云える事態に陥った。
 写真部の活動日ではない放課後、担任に頼まれ事をされた僕はそれを手早く済ませ、いつも通り職員室へ部室の鍵を取りに行ったら、既に渡し済みだと教員に云われた。
 マズイ、と思った。暗室の鍵は部室の鍵と一緒にぶら下がっている。暗室の鍵の開け方は少し独特だから、使わない生徒は簡単に開けることが出来ないようにはなっているが、もし誰かが暗室に入ってしまったら僕の奇行が明るみに出てしまう。
 誰がと平静を装って問うたら、一年の紅木千理だと云われて眩暈がしたのと同時に、ほんの僅かにだけ安堵した。彼には僕の奇行がバレている。急いで部室に駆け込む。ガラリ、開けた部室内にはリュックサックひとつ。チラと流した視線の先、暗室の扉が細く開いていて鼓動が逸った。何も知らない生徒には開けられる筈のない扉だというのに。彼はその鍵を容易く開けてしまったのか。
 恐る恐る暗室の扉に手を掛けてゆっくりと引く。ギ、と鳴いたスチールの扉の音に呼応するよう、暗室の中で影が揺れた。
「一ノ瀬先輩」
 僕を呼んだその声は紛うことなき千理のもの。
 悪戯で、でも少し甘い響きに鼓動が跳ねた。
「一ノ瀬先輩は、俺のこと好きなの」
 他人行儀な声で問うでもなく問われ、言葉に詰まる。
 好き、なのかどうかはまだ判らない。
 ただ、彼が僕の運命の人なのだとは思っている。
 だからこそ僕は彼をファインダー越しに見詰めるのだ。
「あ、この写真良いな」
 そう云って、壁にピン留めしてある比較的新しめの写真を引っ張る彼。細いピンはすぐに写真紙から外れてしまう。ピンの拘束から解放された写真を自分の目の上に翳す彼の顔はにこやか。
「一ノ瀬先輩」
 呼び掛けられ、何だ、と小さく返したら、彼は肩を竦めて悪戯っぽく歯を見せて笑った。
「俺と、付き合いたい?」
 突然の言葉に思わず目を見開く。
「一ノ瀬先輩は、俺と付き合いたいって思ってる?」
 だって、何か特別な感情がなければこんな風に隠し撮りばっかりしないんじゃないか?
 壁から剥がした写真を口許に充てて、千理は目を細める。
「だんまりしてないで、答えてよ」
 隠していても判る。千理の唇の両端は上がっているだろう。
「……付き合いたいとか、は……まだ判らない。けど……君のことを、もっと知りたいという気持ちは、ある……」
 正直に本音を晒せば、彼は「そう」と呟いてから僕の双眸の奥を真っ直ぐに射抜いてきた。
「なぁ、一ノ瀬先輩」
 少し低くなった声。
「ひとつ、ゲームをしようよ」
「ゲーム……?」
「そう、ゲーム」
 首を傾げた僕に、彼は少しだけ肩を竦める。
「残念だけど、俺は絶対に人を好きにならない」
 挑発的な視線。でも、と彼は続けた。
「一ノ瀬先輩が俺のことを好きなんだったら、」
 そこで言葉を区切り、彼は僕に背を向ける。
「俺が一ノ瀬先輩のことを好きだって思えるようになったら」
 このゲームは先輩の勝ちだ。
 勝負は先輩が卒業するまで。
 一ノ瀬先輩が勝ったら俺をどうにでもして良いよ。首だけで振り返る彼の愉しげな声音に無意識に唇を噛む。
「……もし、僕が負けたら?」
 唸るよう絞り出した声に、彼はカラカラと笑った。
「卒業式が終わった後、ここにある写真全てを裏庭で焼く」
 未練を残されるのは嫌なんだ。
 そう云う彼はこれまで幾つの未練を焼き払ってきたのだろう。
「……君は何故、人を好きにならないと断言出来るんだ?」
 僕の微かな疑問に千理は壁に背を預け首を傾けた。
「一生分の好きを捧げた人が居るから、かな」
 その答えを聞いた瞬間、視界が爆ぜた。
「誰、を……」
 意図せず洩れた疑問に、千理はまた肩を竦めて笑った。
「判らない」
「判らない?」
「そう。でも俺はその人のことしか好きにはならない」
 それだけは断言出来るんだ。何でだかは知らないけど。おかしな話だよな、自分でも判らない相手しか好きだと思えないだなんて。
 まるで他人事のようにそう云う彼の言葉はどこからどこまでが本当なのか。
「もし君が、僕のことを好きになる確率は……」
「そんなの、円周率と同じだな」
 未知数だ。誰にも。俺にだって判らない。そう云いながらまた写真を目の上に翳す千理。
 でも本当は、と彼は緩く瞬いた。
「多分、俺はその誰だか判らない相手以上に好きだと想える奴を探してる」
 その手掛かりを、一ノ瀬先輩は知っているような気がするんだ。
 そう続いた台詞に心臓が大きく跳ねた。
「なぁ、一ノ瀬先輩」
 ちらり、流れてきた視線。
「ゲームだとは云ったけど。本当のところは俺の探し物を手伝って欲しいんだ。俺が一体誰のことを好きだと思っているのか」
 その答えを見付け出せたら、本当の意味で先輩の勝ちだ。そうしたら一生俺を追い掛け続けても良い。幾らでも執着して良いよ。
 そんな不敵な台詞に僕は「判った」と小さく頷いて真正面に彼の姿を映す。
 ファインダー越しではなく、直に己のガラス体を通して網膜に灼く彼の姿は今までのどの写真よりも鮮明だ。
「それなら……、」
 そのゲームに乗ろう。
 僕の卒業まであと一年と数ヶ月。唐突で不本意な初接触ではあったが、今後彼と密接な関係になれるこの機会を逃す手はない。
「じゃあ、今日から恋人ごっこの始まりだ」
 よろしく、葵斗。
 まだ教えていないのに、親しげに呼ばれたその名前に僕はなぜだか眩暈を感じた。