今回、黒瀬がいつもより静かだったのが気になってしまった。
放課後の家庭科室――僕は焼き上がったスコーンを網に並べながら、ちらりと隣を見る。
黒瀬は、椅子に座ってスコーンを食べていた。
いつもなら何かを言って騒ぐはずなのに、今日は少しだけ口数が少ないのだ。
何かあったのだろうかと、それとも美味しくなかったのだろうかと考えながら、僕は黒瀬に声をかける。
「黒瀬君、スコーン……おいしくない?」
「え?うまいよ!めちゃくちゃうまい!!」
「じゃあ、なんでそんな顔してるの?」
僕の言葉に対し、黒瀬は手元のスコーンを見下ろして、少し笑った。
少し、引きつった笑いを見せてきた。
「……週末、練習試合があるんだ」
「あ、そうなんだ」
「相手、けっこう強いんだよな」
それは、僕の知らない黒瀬の顔だった。
いつもの腹ペコで、よく笑う黒瀬じゃなく、別人のように見えてしまったと一瞬思った。
「黒瀬君でも緊張するの?」
「そりゃあするよ!俺、そんな無敵じゃないし……」
黒瀬はそう言って、残りのスコーンを口に入れた。
僕はそれを聞いて何も言えなくなってしまった。
黒瀬は明るい。
声が大きくて、よく笑って、何でも簡単にできそうに見えるけど、きっとそれだけじゃない。
グラウンドで走っている黒瀬には、僕の知らない時間があるのかもしれない。
そもそも僕と黒瀬の関係はただ数十分、家庭科室でこのように会話をするだけの関係だ。
それ以外何者でもない。
「……頑張れば」
やっと出た言葉は、それだけだった。
その言葉に対し、黒瀬は顔を上げてくれる。
そして、少し驚いたように笑った。
「おう、頑張る!」
その笑顔がいつもより少しだけ頼りなく見えた。
▽
それから種末になったのだが、僕は何故か学校の近くに居るのだった。
もちろん、練習試合を見に来たわけではない。
家にいても落ち着かなかったから少し散歩していただけだよ。
それが、たまたま学校の方に足が向いた。
何故か、たまたまグラウンドの近くを通った。
――ただ、それだけなのに。
そのように自分に言い聞かせながら、僕はフェンスの外に立った。
視線を向けるとグラウンドには、ユニフォーム姿の選手たちがいた。
サッカー部の声とホイッスルの音が聞こえており、その中に黒瀬がいた。
そこに居たのは、家庭科室でいつもつまみ食いしている黒瀬の姿とは全然違った。
黒瀬は仲間に指示を出し、相手の動きを見ながら、そして走っている。
その横顔は真剣で、少し近寄りがたかった。
僕はフェンス越しに黒瀬を見つつ、息をするのも忘れて見ていたのかもしれない。
黒瀬真と言う存在は、サッカー部で活躍しているあの黒瀬真だった。
試合は、簡単には進まなかった。
相手チームは確かに強くて、何度もこちらのゴールに迫ってきている。
そのたびに、チームのためのなかわからないが、黒瀬は何度も走っていくのを見た。
転びそうになっても、すぐに立て直してまたボールを追いかけていく。
そんな彼の姿に釘付けになってしまった自分自身がいた。
後半の終わり近く、黒瀬がボールを受けて前へ出た。
相手を一人でかわし、仲間へパスを出し、ゴールに入れる。
しかし、ボールはゴールの横を、ほんの少し外れて転がった。
「あ……」
思わず声が漏れてしまったと同時に、試合終了の笛がなった。
結果は、引き分けだった。
確かに引き分けで、負けてはいないのかもしれない。
でも黒瀬は、悔しそうに唇を噛んでいる姿を見た。
僕は、その顔から目を離せなかった。
――こんな顔をするんだ。
まさか、あの黒瀬があのように悔しがる顔をするのだと、思ってしまった。
それは、当たり前の事のはずなのに、どうしてなのかわからない――胸の奥が少し痛くなった。
「……帰ろ」
もう、この場には用事がない。
僕はそのままフェンスから離れようとした時だった。
「白鳥?」
「っ!」
自分の名前を呼ばれて思わず肩が跳ねてしまった。
ゆっくりと振り返ると、黒瀬がこちらを見ていた。
さっきまでの真剣な顔から、驚いた顔になっている。
た、タイミングが悪いと感じながら、僕は頭を押さえる事しか出来なかったが、黒瀬はいつもの表情で僕の近くまで来てくれた。
「白鳥、見に来てくれたのか?」
「た……たまたま通っただけ」
「ここ、学校だけど……」
「さ、散歩だよ!」
「近くで?」
「た……たまたま、そう、たまたまなんだよ!」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
しかし黒瀬は少しだけ黙った後、ふっと笑った。
いつもと違うその表情に、何も言えなくなってしまった。
「そっか。たまたまか」
「そ、そうだよたまたま!」
僕は視線を逸らした。
近くで見る黒瀬は、汗だくで、息もまだ少し上がっており、膝には土がついていて、髪も乱れている。
それなのに、なぜなのかわからない――少しかっこいいと思ってしまった。
そう思った瞬間、僕は慌ててバッグを開けた。
「……これ」
取り出したのは、小さく包んだレモンケーキだった。
昨日の夜、思いつきで作ったやつだ。
試合前でも重すぎないように、甘さは少し控えめにしている。ただ、レモンの香りを強めにした。
もちろん、黒瀬のためではなく試作で作ったモノ。
文化祭の候補で、たまたま余っただけのモノだ。
「その、余ったから」
「俺にくれるのか?」
「ほ、他に誰がいるの!」
「今日のために?」
「違う、余っただけだ!いらないなら――」
「そっか、サンキュ!」
いらないなら、と言う言葉も聞かず、黒瀬は両手で包みを受け取った。
だけど、いつものお菓子みたいにすぐ食べようとしない。
まるで大事なものみたいに、少し見つめているのだ。
様子のおかしい黒瀬に僕が声をかけた。
「黒瀬君……食べないの?」
「食べる。今食べるよ!」
笑顔でそのように言った後、黒瀬は包みを開けてレモンケーキを一口かじった。
その瞬間、目元が少しだけ緩んでいる。
「うまい!マジでうまいよ!」
「相変わらず……そればっかだね」
「でも、うまいのは本当!。レモンの味もするなぁ……」
「試合の後でも食べやすいかなって……って違うから!」
言ってはいけない事を言ってしまった気づいた僕は否定的な言葉を言って再度口を閉じる。
対し、黒瀬がこちらに支援を向けてきた。
思わず汗が流れる。
「試合の後?」
「ち、違う違う……何でもないから!」
「……そうか、ありがとな!」
そのまま黒瀬は笑った。
今度は、いつもの黒瀬に近い笑い方だったように見える。
でも、悔しさが消えたわけじゃないのは分かった。
指先にはまだ力が入っているし、視線は時々グラウンドに戻っているようにも見える。
そのまま、黒瀬は呟いた。
「――勝ちたかったな」
その言葉に対し、僕は何も言えなかった。
僕にとって、黒瀬の世界では部外者なのだから。
「黒瀬君」
「ん?」
僕は、小さく言う。
それはある意味無意識だったのかもしれない。
「次があるじゃん……次に頑張って、勝てばいいよ。まだチャンスはあるんだから」
慰めになっていないのかもしれないけど、僕が言えるのはこれが精いっぱいだった。
元々人を慰めるための言葉なんて持っていない。
けど、それでも僕は黒瀬に頑張ってもらいたかったのかもしれない。
黒瀬が僕を見る。
静かに見つめた後、持っていたレモンケーキを一気に口に中に入れた。
そして、笑った。
「うん、そうだな」
その声は、さっきより少しだけ明るかった。
「これ食べたら、次は勝てる気がする」
「お菓子にそんな力ないよ」
「あるよ」
「ないから」
「……少なくとも、俺にはあるんだよ、白鳥」
黒瀬はそう言って、包みを丁寧にたたむ。
そんな僕は、胸の奥が変に熱くなるのを感じた。
試合を見に来た事もレモンケーキを作った事も全部言い訳だらけなのに――黒瀬は、その言い訳ごと受け取ってしまう。
「……白鳥」
「何?」
「見に来てくれて、ありがとう」
「だから、たまたま」
「うん。たまたまでも、ありがとうな」
黒瀬がまっすぐ、そのように言ってきたので僕は何も返す事が出来なかった。
「黒瀬!集合かかってるぞ!」
「ああ、今行く!」
グラウンドの向こうで、サッカー部員が黒瀬を呼んでいる。
黒瀬はと返事をしてから、もう一度僕を見た。
「また、食べたい」
「……余ったらね」
「おう、わかった!」
黒瀬と短い会話をした後、彼は笑ってグラウンドへ戻っていった。
その背中は、先ほどとは違う、ちゃんと前を向いて歩いていた。
僕はフェンス越しに、その姿を見送り、静かに息を吐いた。
「……あんな黒瀬、初めて見たな」
多分、その呟きは誰にも聞こえなかっただろう。
そして同時に、僕は黒瀬の事を全く知らないんだなと感じたのであった。
放課後の家庭科室――僕は焼き上がったスコーンを網に並べながら、ちらりと隣を見る。
黒瀬は、椅子に座ってスコーンを食べていた。
いつもなら何かを言って騒ぐはずなのに、今日は少しだけ口数が少ないのだ。
何かあったのだろうかと、それとも美味しくなかったのだろうかと考えながら、僕は黒瀬に声をかける。
「黒瀬君、スコーン……おいしくない?」
「え?うまいよ!めちゃくちゃうまい!!」
「じゃあ、なんでそんな顔してるの?」
僕の言葉に対し、黒瀬は手元のスコーンを見下ろして、少し笑った。
少し、引きつった笑いを見せてきた。
「……週末、練習試合があるんだ」
「あ、そうなんだ」
「相手、けっこう強いんだよな」
それは、僕の知らない黒瀬の顔だった。
いつもの腹ペコで、よく笑う黒瀬じゃなく、別人のように見えてしまったと一瞬思った。
「黒瀬君でも緊張するの?」
「そりゃあするよ!俺、そんな無敵じゃないし……」
黒瀬はそう言って、残りのスコーンを口に入れた。
僕はそれを聞いて何も言えなくなってしまった。
黒瀬は明るい。
声が大きくて、よく笑って、何でも簡単にできそうに見えるけど、きっとそれだけじゃない。
グラウンドで走っている黒瀬には、僕の知らない時間があるのかもしれない。
そもそも僕と黒瀬の関係はただ数十分、家庭科室でこのように会話をするだけの関係だ。
それ以外何者でもない。
「……頑張れば」
やっと出た言葉は、それだけだった。
その言葉に対し、黒瀬は顔を上げてくれる。
そして、少し驚いたように笑った。
「おう、頑張る!」
その笑顔がいつもより少しだけ頼りなく見えた。
▽
それから種末になったのだが、僕は何故か学校の近くに居るのだった。
もちろん、練習試合を見に来たわけではない。
家にいても落ち着かなかったから少し散歩していただけだよ。
それが、たまたま学校の方に足が向いた。
何故か、たまたまグラウンドの近くを通った。
――ただ、それだけなのに。
そのように自分に言い聞かせながら、僕はフェンスの外に立った。
視線を向けるとグラウンドには、ユニフォーム姿の選手たちがいた。
サッカー部の声とホイッスルの音が聞こえており、その中に黒瀬がいた。
そこに居たのは、家庭科室でいつもつまみ食いしている黒瀬の姿とは全然違った。
黒瀬は仲間に指示を出し、相手の動きを見ながら、そして走っている。
その横顔は真剣で、少し近寄りがたかった。
僕はフェンス越しに黒瀬を見つつ、息をするのも忘れて見ていたのかもしれない。
黒瀬真と言う存在は、サッカー部で活躍しているあの黒瀬真だった。
試合は、簡単には進まなかった。
相手チームは確かに強くて、何度もこちらのゴールに迫ってきている。
そのたびに、チームのためのなかわからないが、黒瀬は何度も走っていくのを見た。
転びそうになっても、すぐに立て直してまたボールを追いかけていく。
そんな彼の姿に釘付けになってしまった自分自身がいた。
後半の終わり近く、黒瀬がボールを受けて前へ出た。
相手を一人でかわし、仲間へパスを出し、ゴールに入れる。
しかし、ボールはゴールの横を、ほんの少し外れて転がった。
「あ……」
思わず声が漏れてしまったと同時に、試合終了の笛がなった。
結果は、引き分けだった。
確かに引き分けで、負けてはいないのかもしれない。
でも黒瀬は、悔しそうに唇を噛んでいる姿を見た。
僕は、その顔から目を離せなかった。
――こんな顔をするんだ。
まさか、あの黒瀬があのように悔しがる顔をするのだと、思ってしまった。
それは、当たり前の事のはずなのに、どうしてなのかわからない――胸の奥が少し痛くなった。
「……帰ろ」
もう、この場には用事がない。
僕はそのままフェンスから離れようとした時だった。
「白鳥?」
「っ!」
自分の名前を呼ばれて思わず肩が跳ねてしまった。
ゆっくりと振り返ると、黒瀬がこちらを見ていた。
さっきまでの真剣な顔から、驚いた顔になっている。
た、タイミングが悪いと感じながら、僕は頭を押さえる事しか出来なかったが、黒瀬はいつもの表情で僕の近くまで来てくれた。
「白鳥、見に来てくれたのか?」
「た……たまたま通っただけ」
「ここ、学校だけど……」
「さ、散歩だよ!」
「近くで?」
「た……たまたま、そう、たまたまなんだよ!」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
しかし黒瀬は少しだけ黙った後、ふっと笑った。
いつもと違うその表情に、何も言えなくなってしまった。
「そっか。たまたまか」
「そ、そうだよたまたま!」
僕は視線を逸らした。
近くで見る黒瀬は、汗だくで、息もまだ少し上がっており、膝には土がついていて、髪も乱れている。
それなのに、なぜなのかわからない――少しかっこいいと思ってしまった。
そう思った瞬間、僕は慌ててバッグを開けた。
「……これ」
取り出したのは、小さく包んだレモンケーキだった。
昨日の夜、思いつきで作ったやつだ。
試合前でも重すぎないように、甘さは少し控えめにしている。ただ、レモンの香りを強めにした。
もちろん、黒瀬のためではなく試作で作ったモノ。
文化祭の候補で、たまたま余っただけのモノだ。
「その、余ったから」
「俺にくれるのか?」
「ほ、他に誰がいるの!」
「今日のために?」
「違う、余っただけだ!いらないなら――」
「そっか、サンキュ!」
いらないなら、と言う言葉も聞かず、黒瀬は両手で包みを受け取った。
だけど、いつものお菓子みたいにすぐ食べようとしない。
まるで大事なものみたいに、少し見つめているのだ。
様子のおかしい黒瀬に僕が声をかけた。
「黒瀬君……食べないの?」
「食べる。今食べるよ!」
笑顔でそのように言った後、黒瀬は包みを開けてレモンケーキを一口かじった。
その瞬間、目元が少しだけ緩んでいる。
「うまい!マジでうまいよ!」
「相変わらず……そればっかだね」
「でも、うまいのは本当!。レモンの味もするなぁ……」
「試合の後でも食べやすいかなって……って違うから!」
言ってはいけない事を言ってしまった気づいた僕は否定的な言葉を言って再度口を閉じる。
対し、黒瀬がこちらに支援を向けてきた。
思わず汗が流れる。
「試合の後?」
「ち、違う違う……何でもないから!」
「……そうか、ありがとな!」
そのまま黒瀬は笑った。
今度は、いつもの黒瀬に近い笑い方だったように見える。
でも、悔しさが消えたわけじゃないのは分かった。
指先にはまだ力が入っているし、視線は時々グラウンドに戻っているようにも見える。
そのまま、黒瀬は呟いた。
「――勝ちたかったな」
その言葉に対し、僕は何も言えなかった。
僕にとって、黒瀬の世界では部外者なのだから。
「黒瀬君」
「ん?」
僕は、小さく言う。
それはある意味無意識だったのかもしれない。
「次があるじゃん……次に頑張って、勝てばいいよ。まだチャンスはあるんだから」
慰めになっていないのかもしれないけど、僕が言えるのはこれが精いっぱいだった。
元々人を慰めるための言葉なんて持っていない。
けど、それでも僕は黒瀬に頑張ってもらいたかったのかもしれない。
黒瀬が僕を見る。
静かに見つめた後、持っていたレモンケーキを一気に口に中に入れた。
そして、笑った。
「うん、そうだな」
その声は、さっきより少しだけ明るかった。
「これ食べたら、次は勝てる気がする」
「お菓子にそんな力ないよ」
「あるよ」
「ないから」
「……少なくとも、俺にはあるんだよ、白鳥」
黒瀬はそう言って、包みを丁寧にたたむ。
そんな僕は、胸の奥が変に熱くなるのを感じた。
試合を見に来た事もレモンケーキを作った事も全部言い訳だらけなのに――黒瀬は、その言い訳ごと受け取ってしまう。
「……白鳥」
「何?」
「見に来てくれて、ありがとう」
「だから、たまたま」
「うん。たまたまでも、ありがとうな」
黒瀬がまっすぐ、そのように言ってきたので僕は何も返す事が出来なかった。
「黒瀬!集合かかってるぞ!」
「ああ、今行く!」
グラウンドの向こうで、サッカー部員が黒瀬を呼んでいる。
黒瀬はと返事をしてから、もう一度僕を見た。
「また、食べたい」
「……余ったらね」
「おう、わかった!」
黒瀬と短い会話をした後、彼は笑ってグラウンドへ戻っていった。
その背中は、先ほどとは違う、ちゃんと前を向いて歩いていた。
僕はフェンス越しに、その姿を見送り、静かに息を吐いた。
「……あんな黒瀬、初めて見たな」
多分、その呟きは誰にも聞こえなかっただろう。
そして同時に、僕は黒瀬の事を全く知らないんだなと感じたのであった。



