腹ペコサッカー部に、今日もお菓子を奪われています

 黒瀬は、次の日も来た。
 放課後、僕が家庭科室でクッキー生地を伸ばしていると、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
 最初は気のせいだと思ったのだけど、その足音はまっすぐこちらへ向かってきていた。
 昨日も、一昨日も聞いた気がする足音――間違いなく、黒瀬の足音だ。
 やがて足音は家庭科室の前で止まり、少し間を置いてから、控えめに引き戸が叩かれた。

「白鳥、入っていい?」

 昨日と同じ声で、彼はそのように言ってきた。
 僕はめん棒を持ったまま、扉を見る。

「……部活はどうしたの?」
「今、休憩中」
「毎日休憩してない?」
「そりゃあしてるでしょう、俺、人間だから」
「いや、そういう意味じゃなくて……」

 扉の向こうで、黒瀬が小さく笑う気配がした。
 その声を聞いた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ緩んだ気がした僕は慌ててクッキー生地に視線を戻す。

「……勝手に入れば」
「え、今日もいいの?」
「いいよ、もう諦めかけてる感じがしてる……」
「白鳥が言うなら、お邪魔しまーす!」
 
 がら、と扉が開く。
 黒瀬は制服の上にジャージを羽織り、肩にタオルをかけて立っていた。
 髪は少し汗で湿っていて、頬は運動後だったみたいで赤く染まっていた。
 そして今日も、腹の良い音が聞こえてきたのである。
 
「今日は何?」
「クッキー」
「クッキー」
「復唱しなくていいよ」

 ため息を吐きながらそのように答える僕に対し、黒瀬は調理台をのぞき込んだ。
 僕は抜き型で生地をくり抜いていく。
 丸型、星型、花型。
 文化祭で売るなら、味だけじゃなく、袋に詰めたときの見た目も大事だと思う。
 
「すげえ。店みたいだなぁ……」
「型をしているだけだよ。あ、まだ食べられないからね、焼いてないから」
「それぐらいわかるって!」
 黒瀬は真顔で言ってきたのに対し、気づかれないように笑ってしまった。
 そして少し黒瀬に邪魔をされながらも、準備を進める。
 天板にクッキーを並べ、オーブンへ入れた。
 調理をしている最中は、黒瀬は流石に手を出さない――昨日、一昨日でまるで学習したかのように。
 ただ、じっと見ていた。僕の手元を、面白そうに。

「そんなに見ても早く焼けないけど」
「分かってる。でも見てると楽しい」
「焼き菓子が?」
「白鳥が作ってるところが」
「……え?」

 その言葉を聞いて、僕は思わず手が止まった。
 黒瀬は、何を言ったのか自分では分かっていない顔をしている。
 まさかそのように言われるとは思っていなかったので、手が止まってしまったのかもしれない。
 対し、黒瀬は笑いながら答えた。
 
「白鳥は手際いいから、見てて気持ちいいんだよなぁ」
「そ、そういうの、普通に言わない方がいいよ」
「何で?」
「な、何でも!」

 顔が熱い――多分、オーブンのせいだ。きっと。間違いない!
 そんな事を考えながら、焼き上がるまでの間、黒瀬は椅子に座る。
 僕が何か言う前に、きちんと背筋を伸ばしながら。
 
「焼きあがるまで静かにしてる!」
「黒瀬にできるの、それ?」
「できる。俺を何だと思ってるんだ」
「腹を空かしたサッカー部の男子」
「うん、大体あってる!」
「喜ぶなよ、貶してるのに……」
 
 黒瀬は自分で言って笑った。
 その笑い声があるだけで、家庭科室の空気が少し変わる――いつもなら一人で聞いているオーブンの音も、今日は少しだけ賑やかに聞こえてしまった。
 やがてオーブンから甘い匂いが強くなり、焼き上がりの音が鳴った。
 天板を取り出すと、黒瀬の目が分かりやすく輝く。

「うわ、いい匂い」
「熱いからすぐ食べられないよ、もう少し待ってて」
「よし、わかった!待つぞ!」
 
 本当に、黒瀬は両手を膝に置いて待った。
 背筋を伸ばして、じっとクッキーを見ている。
 少しだけ偉いと思ってしまった自分が悔しい。
 粗熱が取れたころ、僕は一枚だけ皿に乗せる。

「はい」
「いいの?」
「試食だよ。あと感想、ちゃんと言ってくれる今回も」
「よし、任せろ!」
 
 そのように言った黒瀬はクッキーをかじった。
 さく、と軽い音がする。
 その顔が、ぱっと明るくなった。

「……うまい」
「それ以外でお願い」
「さくさくしてるぞ。甘さは昨日より控えめ?でもバターの味がするな……昨日とは違う味だ!」
「そう?それならいいんだけど……ほかにある?」
 黒瀬はクッキーを大事そうに食べた。
 ちゃんと味わっており、それは見ていれば分かる。
 僕が作ったものとして食べている。
 黒瀬に試食を食べてもらうようになって三日目、不思議と少しだけ、嬉しかった。
 ふと、黒瀬が顔をあげていった。
 
「俺、これ好き」
「昨日も好きって言ってたはずだけど……」
「昨日のも好き。今日のも好きだな!」
「何でも好きなんじゃないの?」
「違うって。白鳥の作るやつが好き」
「え……」
 
 ノートに書こうとしていたペン先が止まった。
 また、不意打ちを食らった感じがした。
 何でもない顔で言わないでほしい。そう思うのに、黒瀬は本当に何でもない顔をしている。
 だから余計に困るんだ。
 
「……感想として記録しにくいんだけど」
「じゃあ、記録しやすく言う。甘さ控えめで、部活の途中でも食べやすい」
「うん、それなら助かる」
「あと、もう一枚食べたい」
「それは却下」

 試食で一枚渡しただけなのだからと視線を向けると、黒瀬は残念そうに肩を落とした。
 その大げさな反応に、僕は少しだけ笑ってしまう。
 最近――まだ三日しか経っていないのに、まるでもう何度もこうして話しているみたいだった。
 黒瀬が家庭科室に来る事が僕の中で少しずつ当たり前みたいに感じ始めている。

「明日も来ていい?」
「何でそうなるの?」
「毎日食べたいから!」
「来なくていい。早く部活に行きなよ」
「ちゃんと部活やってるぞ!白鳥のお菓子食べると、走れる気がするんだよな」
「……糖分だからでしょ?」
「それだけじゃない気がする」

 黒瀬は少しだけ真面目な顔をした。
 その表情は一瞬だけで、すぐにいつもの笑顔に戻る。

「じゃ、戻る!ごちそうさま!」
「うん、頑張ってね」
「おう!」

 簡単な挨拶を終えた後黒瀬が出ていく。
 残された僕は家庭科室の周りに視線を向けると同時に、急に静かになったと感じてしまった。
 さっきまでと同じ場所なのに、少しだけ広く感じる。
 僕は閉まった扉を見つめてから、ノートに小さく書いた。

 クッキー、甘さ控えめ。そして黒瀬は――。
 
 その先を書こうとしたのだが、僕は書くのを辞めてすぐにノートを閉じたのだった。