翌日の放課後、僕は家庭科室の扉を閉めるなり、窓の外を見た。
グラウンドでは、サッカー部がウォーミングアップをしている。
その中に、黒瀬真の姿もあった。昨日と同じようによく動いて、よく声を出している。
「い、いやいや……別に確認したわけじゃないし」
誰に言い訳するでもなく呟いて、僕はカーテンを少しだけ引いた。
今日はフィナンシェを作る予定だった。
文化祭で出す焼き菓子の候補は、マドレーヌだけではない。
手を洗って消毒し、エプロンをつけた。
バターを鍋に入れて弱火にかけると、ふわりと香ばしい匂いが立ちあがる。
ふと、昨日の試作ノートの端に書いた一文を思い出す。
――黒瀬は甘めが好き?
もちろん、あれはすぐ消した。何本も線を引いて、読めないくらいに。
「……参考。あくまで参考」
甘さは控えめにしすぎない方がいいかもしれない。
もしかしたら運動部なら、しっかりした味の方が満足感があるかもしれない。
「いやいや、これは文化祭用の試作であって、黒瀬真用ではないぞ!」
自分に言い聞かせながら、卵白と砂糖を混ぜる。アーモンドプードルを加え、薄力粉をふるい入れ、焦がしバターを流し込む。
つややかになった生地を型に入れ、オーブンへ入れた。
焼き上がりを待つ間、試作ノートを開くと、昨日の線だらけの文字がページの端にまだ残っていた。
「……消し方、雑だったな」
ため息をついた、その時だった。
がらっ、と家庭科室の引き戸が控えめに開く。
「白鳥!」
扉の隙間から、黒瀬が顔だけをのぞかせていた。制服の上にジャージを羽織っている。なぜか、頭に犬耳、後ろに尻尾があるような幻影が見えた気がした。
「……何?」
「家庭科室、入っていいか?」
昨日、次はないと言ったはずだ。
なのに、黒瀬は本当に来た――しかも今日は、ちゃんと許可を待っている。
「……用件は?」
「すっごく、いい匂いがした!」
「それ、用件じゃないんだけど……まぁ、いいか」
「あと、昨日の謝罪をしに来た」
黒瀬は笑顔から、少しぎこちない真面目な顔になった。
「昨日、勝手に食べてすみませんでした」
「え、今さら?」
「昨日も謝ったけど、ちゃんと謝り直そうと思って」
そう言われると、強く追い返しにくい。
僕はオーブンの表示をちらりと見る――焼き上がりまでは、まだ少しある。
「……どうぞ、入れば?」
「え、いいの?」
「廊下で謝られても目立つし」
「ありがとう!」
「ちょ、声大きいから!」
黒瀬は慌てて口を押さえながら、家庭科室に入ってきた。
近くで見ると背が高い。
僕より頭半分以上は高い気がする――実は身長を気にしているなんて、言えるわけがない。
「で、白鳥!今日は何だ?」
「……フィナンシェ」
「フィナンシェ?」
「そうだよ、知らない?」
「食べたことないかもしれない。俺、和菓子はよく食べるけど、洋菓子は全然だから」
「ふーん……」
少し意外だった。甘いものなら何でも好きなのだと思っていた。
「和菓子って、どんなの?」
「どら焼きとか大福とか。あと団子」
「渋いね」
「うまいぞ」
「別に否定してないけど」
黒瀬は少し得意そうに笑った。
その笑いが、すごく楽しそうに見えるなと感じながらも。
「じいちゃん家の近くに和菓子屋があってさ。小さい頃からよく食べてたんだ」
「へえ」
サッカー以外の黒瀬の話を聞くのは、初めてかもしれない。
「じゃあ、フィナンシェってどんな味?」
「食べれば分かる」
「へへ、楽しみだなぁ……」
本当に楽しそうに言うから、僕は返事に詰まった。
きっと、黒瀬は悪気なく、ただ思ったことを言っているだけなのだろう。
分かっているのに、調子が狂う。
そんな事を考えていた時、オーブンが音を立てた。
僕は急いでミトンをつけて扉を開く。
湯気が出ている焼き上がったフィナンシェを取り出すと、香ばしいバターの匂いが一気に広がった。
「うわ……」
黒瀬の目が、分かりやすく輝く。
「ちょっと、近いよ!それに、まだ熱いから食べられないよ」
「あ、ごめん。じゃあ、待つ」
「本当に?」
「おう!」
真面目な顔で頷く黒瀬が妙に面白くて、僕は少しだけ口元を緩めてしまう。
それに気づいたかのように、黒瀬は僕に声をかけた。
「お、今笑ったな白鳥!」
「……笑ってないよ」
僕は小さくため息をつき、型から外したフィナンシェを網に並べた。
目に映ったのは、きれいな焼き色のフィナンシェだった。
端は少し濃いめで、中心はふっくらしており、思わず悪くないと思った。
その中でも形のいいものを、無意識につまむ。
そして黒瀬の方に差し出しそうになって、はっとした――今僕は何故、一番きれいなものを選んだのか。
「……一個だけ」
「え、いいの?」
「昨日の分、ちゃんと謝ったから……試食。感想言ってくれると嬉しい」
「言う言う!」
黒瀬は両手で受け取り、昨日とは違ってすぐには口に入れなかった。
「食べていい?」
「……うん、いいよ」
再度、ちゃんと確認されたことが、少しだけくすぐったい。
黒瀬は一口かじった。
それと同時に、さくっ、と小さな音がする。
「……うまい」
「本当に?嘘じゃない?」
「嘘じゃねぇよ!だってうまいから。えーと……外がカリッとしてて、中がしっとりしてる感じがする」
「……そう?」
「おう!昨日のマドレーヌはふわってしてたけど、これは端っこが香ばしい。いうなれば大人っぽい味がする」
専門的ではない言葉だけど、多分黒瀬の本音なのだろう――ちゃんと食べている。
ただ甘いから美味しいだけではなく、周りの味も見てくれている。
「……焦がしバター使ってるから、香ばしいんだと思う」
「こがしばたー。それが大人っぽい味の正体?」
「うん、多分絵」
「へぇ、すげえ」
黒瀬は残りを大事そうに食べながら、口を開いた。
「白鳥って、すごいな」
「は?大げさだよ」
「大げさじゃないって。俺、料理とか全然できないし」
「練習すればできるよ。分量を守って、手順を覚えて、失敗したら原因を考える」
「サッカーと似てるな!なんとなく蹴ってるだけじゃ上手くならないし。何でミスったか考えるし」
「……へえ」
サッカーで比べることに対しては一瞬驚いてしまった。
多分、好きなものに真剣なのは、同じなのかもしれない。
黒瀬は笑いながら答えた。
「白鳥はさ。お菓子作るの、好きなんだな!」
その言葉を聞いた瞬間、僕は答えに詰まってしまった。
「……まあ、部活だから」
「部活でも、好きじゃなかったらそんな顔しないと思う」
「はぁ、どんな顔?」
「すごく親権で真面目な顔……後、ちょっと楽しそうな顔してるぞ?」
「そ、それは……見なくていいっ!」
顔が熱くなるのを誤魔化すように、僕はノートを開いた。
急いで黒瀬が言ってくれた感想を書かないと、と思ったから。
そのまま、黒瀬は笑いながら言う。
「好きなことがあるのって、いいな」
その言葉は、思ったより静かに胸に落ちた。
――男子なのに家庭科部かよ。
――お菓子作りなんて女子っぽいのになぁ。
クラスメイトから何度も言われた事がある。
だけど黒瀬の言葉は、全くそのような文字がなかった。
本当に、楽しいと思って、僕に向けて言っているのであろう、と。
「……黒瀬だって、サッカーあるじゃん」
「ある。めちゃくちゃ好き」
「じゃあ同じでしょ?」
「そっかぁ、同じか」
黒瀬は嬉しそうに笑った。
その笑顔がまっすぐで、僕はまた何も言えなくなる。
「あ、やべ!そ、そろそろ戻らないと」
「じゃあ早く戻りなよ」
「今日こそ怒られる!」
「昨日も怒られたんじゃないの?」
「怒られた。『天国ってどこだ』って聞かれた!言わなかったけど!」
「……ああ、言ったんだ……」
その言葉に、少し呆れ顔をしながら僕は黒瀬を見る。
黒瀬はスポーツバッグを持ち直し、扉の方へ向かった。
「白鳥。今日のやつも、すごいうまかった。また食べたい!」
「試食係なんて頼んでないよ」
「でも、俺、感想言えるぞ?フィナンシェも覚えたし、焦がしバターも覚えた」
「ただ、食べたいだけでしょうが」
「そうかもしれないけど!あ、ごちそうさま、白鳥!」
笑顔でそのように出て行った黒瀬がいなくなると、家庭科室に静けさが戻った。
僕は、黒瀬が食べたフィナンシェの残りを見る。
一つ減っただけなのに、網の上が少し寂しく見えた。
「……試食係なんて、頼んでないし」
そのように呟いた後、僕は試作ノートに感想を書き込む。
外側はカリッと、中はしっとり。焦がしバターの香りは好評。甘さはこのままでよさそう。
そこまで書いて、少し迷う。
そしてページの端に、小さく付け足した。
――黒瀬はフィナンシェも好き。
今度は、その文字はすぐには消す事はなかった。
グラウンドでは、サッカー部がウォーミングアップをしている。
その中に、黒瀬真の姿もあった。昨日と同じようによく動いて、よく声を出している。
「い、いやいや……別に確認したわけじゃないし」
誰に言い訳するでもなく呟いて、僕はカーテンを少しだけ引いた。
今日はフィナンシェを作る予定だった。
文化祭で出す焼き菓子の候補は、マドレーヌだけではない。
手を洗って消毒し、エプロンをつけた。
バターを鍋に入れて弱火にかけると、ふわりと香ばしい匂いが立ちあがる。
ふと、昨日の試作ノートの端に書いた一文を思い出す。
――黒瀬は甘めが好き?
もちろん、あれはすぐ消した。何本も線を引いて、読めないくらいに。
「……参考。あくまで参考」
甘さは控えめにしすぎない方がいいかもしれない。
もしかしたら運動部なら、しっかりした味の方が満足感があるかもしれない。
「いやいや、これは文化祭用の試作であって、黒瀬真用ではないぞ!」
自分に言い聞かせながら、卵白と砂糖を混ぜる。アーモンドプードルを加え、薄力粉をふるい入れ、焦がしバターを流し込む。
つややかになった生地を型に入れ、オーブンへ入れた。
焼き上がりを待つ間、試作ノートを開くと、昨日の線だらけの文字がページの端にまだ残っていた。
「……消し方、雑だったな」
ため息をついた、その時だった。
がらっ、と家庭科室の引き戸が控えめに開く。
「白鳥!」
扉の隙間から、黒瀬が顔だけをのぞかせていた。制服の上にジャージを羽織っている。なぜか、頭に犬耳、後ろに尻尾があるような幻影が見えた気がした。
「……何?」
「家庭科室、入っていいか?」
昨日、次はないと言ったはずだ。
なのに、黒瀬は本当に来た――しかも今日は、ちゃんと許可を待っている。
「……用件は?」
「すっごく、いい匂いがした!」
「それ、用件じゃないんだけど……まぁ、いいか」
「あと、昨日の謝罪をしに来た」
黒瀬は笑顔から、少しぎこちない真面目な顔になった。
「昨日、勝手に食べてすみませんでした」
「え、今さら?」
「昨日も謝ったけど、ちゃんと謝り直そうと思って」
そう言われると、強く追い返しにくい。
僕はオーブンの表示をちらりと見る――焼き上がりまでは、まだ少しある。
「……どうぞ、入れば?」
「え、いいの?」
「廊下で謝られても目立つし」
「ありがとう!」
「ちょ、声大きいから!」
黒瀬は慌てて口を押さえながら、家庭科室に入ってきた。
近くで見ると背が高い。
僕より頭半分以上は高い気がする――実は身長を気にしているなんて、言えるわけがない。
「で、白鳥!今日は何だ?」
「……フィナンシェ」
「フィナンシェ?」
「そうだよ、知らない?」
「食べたことないかもしれない。俺、和菓子はよく食べるけど、洋菓子は全然だから」
「ふーん……」
少し意外だった。甘いものなら何でも好きなのだと思っていた。
「和菓子って、どんなの?」
「どら焼きとか大福とか。あと団子」
「渋いね」
「うまいぞ」
「別に否定してないけど」
黒瀬は少し得意そうに笑った。
その笑いが、すごく楽しそうに見えるなと感じながらも。
「じいちゃん家の近くに和菓子屋があってさ。小さい頃からよく食べてたんだ」
「へえ」
サッカー以外の黒瀬の話を聞くのは、初めてかもしれない。
「じゃあ、フィナンシェってどんな味?」
「食べれば分かる」
「へへ、楽しみだなぁ……」
本当に楽しそうに言うから、僕は返事に詰まった。
きっと、黒瀬は悪気なく、ただ思ったことを言っているだけなのだろう。
分かっているのに、調子が狂う。
そんな事を考えていた時、オーブンが音を立てた。
僕は急いでミトンをつけて扉を開く。
湯気が出ている焼き上がったフィナンシェを取り出すと、香ばしいバターの匂いが一気に広がった。
「うわ……」
黒瀬の目が、分かりやすく輝く。
「ちょっと、近いよ!それに、まだ熱いから食べられないよ」
「あ、ごめん。じゃあ、待つ」
「本当に?」
「おう!」
真面目な顔で頷く黒瀬が妙に面白くて、僕は少しだけ口元を緩めてしまう。
それに気づいたかのように、黒瀬は僕に声をかけた。
「お、今笑ったな白鳥!」
「……笑ってないよ」
僕は小さくため息をつき、型から外したフィナンシェを網に並べた。
目に映ったのは、きれいな焼き色のフィナンシェだった。
端は少し濃いめで、中心はふっくらしており、思わず悪くないと思った。
その中でも形のいいものを、無意識につまむ。
そして黒瀬の方に差し出しそうになって、はっとした――今僕は何故、一番きれいなものを選んだのか。
「……一個だけ」
「え、いいの?」
「昨日の分、ちゃんと謝ったから……試食。感想言ってくれると嬉しい」
「言う言う!」
黒瀬は両手で受け取り、昨日とは違ってすぐには口に入れなかった。
「食べていい?」
「……うん、いいよ」
再度、ちゃんと確認されたことが、少しだけくすぐったい。
黒瀬は一口かじった。
それと同時に、さくっ、と小さな音がする。
「……うまい」
「本当に?嘘じゃない?」
「嘘じゃねぇよ!だってうまいから。えーと……外がカリッとしてて、中がしっとりしてる感じがする」
「……そう?」
「おう!昨日のマドレーヌはふわってしてたけど、これは端っこが香ばしい。いうなれば大人っぽい味がする」
専門的ではない言葉だけど、多分黒瀬の本音なのだろう――ちゃんと食べている。
ただ甘いから美味しいだけではなく、周りの味も見てくれている。
「……焦がしバター使ってるから、香ばしいんだと思う」
「こがしばたー。それが大人っぽい味の正体?」
「うん、多分絵」
「へぇ、すげえ」
黒瀬は残りを大事そうに食べながら、口を開いた。
「白鳥って、すごいな」
「は?大げさだよ」
「大げさじゃないって。俺、料理とか全然できないし」
「練習すればできるよ。分量を守って、手順を覚えて、失敗したら原因を考える」
「サッカーと似てるな!なんとなく蹴ってるだけじゃ上手くならないし。何でミスったか考えるし」
「……へえ」
サッカーで比べることに対しては一瞬驚いてしまった。
多分、好きなものに真剣なのは、同じなのかもしれない。
黒瀬は笑いながら答えた。
「白鳥はさ。お菓子作るの、好きなんだな!」
その言葉を聞いた瞬間、僕は答えに詰まってしまった。
「……まあ、部活だから」
「部活でも、好きじゃなかったらそんな顔しないと思う」
「はぁ、どんな顔?」
「すごく親権で真面目な顔……後、ちょっと楽しそうな顔してるぞ?」
「そ、それは……見なくていいっ!」
顔が熱くなるのを誤魔化すように、僕はノートを開いた。
急いで黒瀬が言ってくれた感想を書かないと、と思ったから。
そのまま、黒瀬は笑いながら言う。
「好きなことがあるのって、いいな」
その言葉は、思ったより静かに胸に落ちた。
――男子なのに家庭科部かよ。
――お菓子作りなんて女子っぽいのになぁ。
クラスメイトから何度も言われた事がある。
だけど黒瀬の言葉は、全くそのような文字がなかった。
本当に、楽しいと思って、僕に向けて言っているのであろう、と。
「……黒瀬だって、サッカーあるじゃん」
「ある。めちゃくちゃ好き」
「じゃあ同じでしょ?」
「そっかぁ、同じか」
黒瀬は嬉しそうに笑った。
その笑顔がまっすぐで、僕はまた何も言えなくなる。
「あ、やべ!そ、そろそろ戻らないと」
「じゃあ早く戻りなよ」
「今日こそ怒られる!」
「昨日も怒られたんじゃないの?」
「怒られた。『天国ってどこだ』って聞かれた!言わなかったけど!」
「……ああ、言ったんだ……」
その言葉に、少し呆れ顔をしながら僕は黒瀬を見る。
黒瀬はスポーツバッグを持ち直し、扉の方へ向かった。
「白鳥。今日のやつも、すごいうまかった。また食べたい!」
「試食係なんて頼んでないよ」
「でも、俺、感想言えるぞ?フィナンシェも覚えたし、焦がしバターも覚えた」
「ただ、食べたいだけでしょうが」
「そうかもしれないけど!あ、ごちそうさま、白鳥!」
笑顔でそのように出て行った黒瀬がいなくなると、家庭科室に静けさが戻った。
僕は、黒瀬が食べたフィナンシェの残りを見る。
一つ減っただけなのに、網の上が少し寂しく見えた。
「……試食係なんて、頼んでないし」
そのように呟いた後、僕は試作ノートに感想を書き込む。
外側はカリッと、中はしっとり。焦がしバターの香りは好評。甘さはこのままでよさそう。
そこまで書いて、少し迷う。
そしてページの端に、小さく付け足した。
――黒瀬はフィナンシェも好き。
今度は、その文字はすぐには消す事はなかった。



