僕にとって、放課後の家庭科室は少しだけ学校の中から切り離された場所だったんだ。
グラウンドからは、サッカー部の掛け声がかすかに聞こえてくる。廊下の向こうでは吹奏楽部が同じフレーズを何度も練習していて、どこかの教室からは椅子を引く音がした。
だけど、家庭科室の中だけは違う。
オーブンの低い音と、ボウルの縁をこするゴムベラの音。そして、溶かしバターと砂糖の、甘くてやわらかい匂い。
僕は、焼き上がったばかりのマドレーヌを網の上に並べながら、ふう、と小さく息を吐いた。
「うん……悪くない、と思う」
誰に聞かせるでもなく呟いて、マドレーヌを一つ指先で摘まんでみた。
これは文化祭で家庭科部が出す予定の焼き菓子で、その試作品を作っている。
形は綺麗にできており、そして表面の焼き色も濃すぎない。
だけど、問題は味――もう少ししっとりさせるか、バターの香りを強くするか。レモンの皮を少し入れてもいいかもしれない。
僕は試作ノートを開き、今日の分量を書き込んだ。
――薄力粉、アーモンドプードル、卵、砂糖、はちみつ、溶かしバター。焼成温度は百八十度。時間は十二分。
「そうだなぁ……あと一分短くてもいいか……」
僕は、真剣にメモを取っていると、家庭科室の引き戸が、から、と音を立てた。
思わず顔をあげてみると、そこに立っていたのは見慣れない男子だった。
見覚えのない人物が目の前に現れて、僕は思わず硬直してしまった。
現れた男は制服の上にジャージを羽織っていて、肩にはスポーツバッグ。少し汗をかいた前髪が額に貼りついている。間違いなく、いかにも運動部、という雰囲気の男子は入り口でぴたりと足を止め、鼻をひくつかせた。
「……すげえ、いい匂い」
「え?」
「ここ、もしかして天国だったりする?」
「えっと、違うけど……」
返事に即答すると、男子はぱちぱちと瞬きをしたあと、にかっと笑った。
「ごめんごめん、匂いに釣られた」
「釣られたって……ここ家庭科室だけど」
「うん、知ってる」
「……じゃあ、出てってくれる?僕、邪魔されるのが一番嫌なんだ」
僕がそのように言うと、、男は「えっ」と本気で驚いた顔をした。
「え、まだ何もしてないのに?」
「だって、僕君の事知らないから」
「あー……それはたしかに」
男は反省したように眉を下げた。けれど、視線はすぐに僕の手元へ向かう。
網の上に並んだ、出来上がった焼きたてのマドレーヌ。それを見た目が、分かりやすいくらい輝いた。
「なぁ、それ、何?」
「え、マドレーヌだけど……」
「マドレーヌ……作ったの、白鳥?」
男は、言葉を覚える子どもみたいに、そして名前で呼ばれた。
僕は少し眉を寄せる。確か、初対面のはずだ。
少なくとも、僕はこの男子と話した覚えがない。なのに相手は、まるで前から知っていたみたいに、自然に僕の名前を口にした。
「……なんで僕の名前知ってるの?」
「俺とお前、同じ学年だし。二組の白鳥恵都だろ。家庭科部の?」
「え……」
突然名前を呼ばれた事に驚いてしまった。
あっさり言われて、少しだけ身構えてしまう。
どうして名前を、そして家庭科部だと言う事を知っているのだろうかと身構えながら、静かに呟く。
「……そっちは?」
「俺は黒瀬真。五組でサッカー部だよ」
黒瀬は自分の胸を軽く指差してから、またマドレーヌを見た。
名前を聞いて、ピンときた。
僕も、黒瀬のことを知らないわけではない、名前くらいは聞いたことがある。
彼はサッカー部で、足が速くて、よく笑っていて――クラスの中心にいるようなタイプ。
多分、僕とはあまり関わらない種類の人間だ。
そう思っていた相手が、今は家庭科室の入り口で、焼き菓子を前に目を輝かせている。それを見て、なんだか少しだけ調子が狂う。
「……黒瀬君、部活は?」
「今、休憩中……腹が減ってどうしようかなーと歩いてたら、めちゃくちゃいい匂いがして」
「それで、家庭科室に?」
「そう。運命だと思った」
キラキラと目を輝かせている黒瀬君に対し、僕はため息を吐きながらマドレーヌを保存容器に移そうとした。
これ以上ここにいられると、なんとなく落ち着かない。
黒瀬の視線は、僕ではなくマドレーヌに向いている。それは分かっているのに、真っ直ぐと僕自身が見られているような気がして、手元が少しだけぎこちなくなる。
その瞬間、黒瀬のお腹が、ぐう、と大きな音を立てた。
家庭科室に、妙に間の抜けた沈黙が落ちる。
オーブンの余熱の音まで、急にはっきり聞こえた気がした。
黒瀬は自分のお腹を押さえ、恥ずかしそうに笑った。
「……聞こえた?」
「うん、聞こえた……もう……」
僕はため息を吐きながら、保存容器のふたを開ける。
文化祭用の試作だから、数は余っている。部員たちにも味見してもらう予定だったし一つくらい渡しても困らない。
けれど、ある意味初対面の男に簡単にあげるのも変だなと思った、次の瞬間だった。
「あっ」
黒瀬の手が伸びた。
僕が止めるより先に、黒瀬は網の上のマドレーヌを一つつまみ、口に入れていた。
「ちょっと!」
僕の声が家庭科室に響く。
黒瀬は口を押さえたまま固まり、数秒後、目を見開く。
「……うまっ」
「勝手に食べないでよ!」
「ごめん。でも、うまっ。何これ、店のやつ?」
「だから試作だって!」
「試作でこれなのか?」
黒瀬は本気で驚いている。その顔はふざけているようには見えなかった。
頬を少し膨らませたまま、もぐもぐと噛んで、飲み込む。それから、まっすぐ僕を見た。
「白鳥、天才じゃん」
「……は?」
「外ちょっとさくってしてて、中ふわってしてる。あと、なんか、バター?めっちゃいい匂いする」
「……バターは入ってるけど」
「やっぱり。すごいなぁ……俺、こういうの作れる人、尊敬する」
怒っていたはずなのに、僕は言葉に詰まった。
からかわれることは、あった。
男子なのに家庭科部なんだ、とか。女子力高いね、とか。悪気がないのは分かっていても、少しずつ胸に引っかかる言葉はあった。
でも、黒瀬の言葉にはそういうものがないのだ。
まっすぐに、僕が作ってくれたマドレーヌを本当に美味しいんだと言ってくれたのだ。
その言葉に僕はうまく反応できなかった。
「えっと……」
「……白鳥?」
「その……勝手に食べたのは、許してないから」
「あ、はい、本当にすみませんでした!」
黒瀬は勢いよく頭を下げる――その素直さがまた少し調子を狂わせる。
そして再度、笑いながら答えた。
「次からは、ちゃんと食べていいか聞くから!」
「次がある前提で話さないでよ……って、食べる気?」
「え、ないの?」
「ない」
「そんな……」
僕の言葉に、黒瀬はまるで世界の終わりみたいな顔をした。
大げさすぎる――そう思ったのに、僕は思わず笑いそうになってしまい、慌てて口元を引き締めた。
「……ねぇ、部活戻らなくていいの?」
「あ、やばい。戻らないと怒られる」
黒瀬はスポーツバッグを肩にかけ直し、扉の方へ向かった。
けれど、出ていく直前に振り返る。
「――白鳥」
「……何?」
「また、お前の作ったモノ、食べたい!」
「だから、次はないって」
「つまみ食いしないから!ちゃんと、聞いて食べるから!」
「そういう問題じゃないから!!」
「でも本当にうまかった。ごちそうさま!」
黒瀬はそう言って、そのまま廊下へ駆け出していった。
すぐに、遠くから「黒瀬どこ行ってたんだよ!」という誰かの声と、「天国!」と答える黒瀬の声が聞こえた。
いや、天国じゃないよここは。
「……何なんだ、あいつ」
家庭科室に一人残された僕は、網の上に並んだマドレーヌを見る。
マドレーヌは一つ、減っていた。勝手に食べられてしまった。
怒っているはずなのに、胸の奥が変に落ち着かない。
『白鳥、天才じゃん』
黒瀬君の言葉――思い出しただけで、耳のあたりが熱くなる。
僕はぶんぶんと首を振り、試作ノートを引き寄せた。
まずは今日の反省点を書く。
焼き時間。食感。甘さ。次回の調整。そのように自分に言い聞かせて、シャープペンを走らせる。
けれど気づけば、ノートの端にこんな文字を書いていた。
――黒瀬君は甘めが好き?
「……っ」
僕は慌てて、その一文に何本も線を引いた。
「違う違う!試作の参考、そうだよ!ただの参考!」
誰もいない家庭科室で、言い訳だけが小さく響いていた。
オーブンの中には、まだ次のマドレーヌが焼ける匂いが残っていたのだった。
グラウンドからは、サッカー部の掛け声がかすかに聞こえてくる。廊下の向こうでは吹奏楽部が同じフレーズを何度も練習していて、どこかの教室からは椅子を引く音がした。
だけど、家庭科室の中だけは違う。
オーブンの低い音と、ボウルの縁をこするゴムベラの音。そして、溶かしバターと砂糖の、甘くてやわらかい匂い。
僕は、焼き上がったばかりのマドレーヌを網の上に並べながら、ふう、と小さく息を吐いた。
「うん……悪くない、と思う」
誰に聞かせるでもなく呟いて、マドレーヌを一つ指先で摘まんでみた。
これは文化祭で家庭科部が出す予定の焼き菓子で、その試作品を作っている。
形は綺麗にできており、そして表面の焼き色も濃すぎない。
だけど、問題は味――もう少ししっとりさせるか、バターの香りを強くするか。レモンの皮を少し入れてもいいかもしれない。
僕は試作ノートを開き、今日の分量を書き込んだ。
――薄力粉、アーモンドプードル、卵、砂糖、はちみつ、溶かしバター。焼成温度は百八十度。時間は十二分。
「そうだなぁ……あと一分短くてもいいか……」
僕は、真剣にメモを取っていると、家庭科室の引き戸が、から、と音を立てた。
思わず顔をあげてみると、そこに立っていたのは見慣れない男子だった。
見覚えのない人物が目の前に現れて、僕は思わず硬直してしまった。
現れた男は制服の上にジャージを羽織っていて、肩にはスポーツバッグ。少し汗をかいた前髪が額に貼りついている。間違いなく、いかにも運動部、という雰囲気の男子は入り口でぴたりと足を止め、鼻をひくつかせた。
「……すげえ、いい匂い」
「え?」
「ここ、もしかして天国だったりする?」
「えっと、違うけど……」
返事に即答すると、男子はぱちぱちと瞬きをしたあと、にかっと笑った。
「ごめんごめん、匂いに釣られた」
「釣られたって……ここ家庭科室だけど」
「うん、知ってる」
「……じゃあ、出てってくれる?僕、邪魔されるのが一番嫌なんだ」
僕がそのように言うと、、男は「えっ」と本気で驚いた顔をした。
「え、まだ何もしてないのに?」
「だって、僕君の事知らないから」
「あー……それはたしかに」
男は反省したように眉を下げた。けれど、視線はすぐに僕の手元へ向かう。
網の上に並んだ、出来上がった焼きたてのマドレーヌ。それを見た目が、分かりやすいくらい輝いた。
「なぁ、それ、何?」
「え、マドレーヌだけど……」
「マドレーヌ……作ったの、白鳥?」
男は、言葉を覚える子どもみたいに、そして名前で呼ばれた。
僕は少し眉を寄せる。確か、初対面のはずだ。
少なくとも、僕はこの男子と話した覚えがない。なのに相手は、まるで前から知っていたみたいに、自然に僕の名前を口にした。
「……なんで僕の名前知ってるの?」
「俺とお前、同じ学年だし。二組の白鳥恵都だろ。家庭科部の?」
「え……」
突然名前を呼ばれた事に驚いてしまった。
あっさり言われて、少しだけ身構えてしまう。
どうして名前を、そして家庭科部だと言う事を知っているのだろうかと身構えながら、静かに呟く。
「……そっちは?」
「俺は黒瀬真。五組でサッカー部だよ」
黒瀬は自分の胸を軽く指差してから、またマドレーヌを見た。
名前を聞いて、ピンときた。
僕も、黒瀬のことを知らないわけではない、名前くらいは聞いたことがある。
彼はサッカー部で、足が速くて、よく笑っていて――クラスの中心にいるようなタイプ。
多分、僕とはあまり関わらない種類の人間だ。
そう思っていた相手が、今は家庭科室の入り口で、焼き菓子を前に目を輝かせている。それを見て、なんだか少しだけ調子が狂う。
「……黒瀬君、部活は?」
「今、休憩中……腹が減ってどうしようかなーと歩いてたら、めちゃくちゃいい匂いがして」
「それで、家庭科室に?」
「そう。運命だと思った」
キラキラと目を輝かせている黒瀬君に対し、僕はため息を吐きながらマドレーヌを保存容器に移そうとした。
これ以上ここにいられると、なんとなく落ち着かない。
黒瀬の視線は、僕ではなくマドレーヌに向いている。それは分かっているのに、真っ直ぐと僕自身が見られているような気がして、手元が少しだけぎこちなくなる。
その瞬間、黒瀬のお腹が、ぐう、と大きな音を立てた。
家庭科室に、妙に間の抜けた沈黙が落ちる。
オーブンの余熱の音まで、急にはっきり聞こえた気がした。
黒瀬は自分のお腹を押さえ、恥ずかしそうに笑った。
「……聞こえた?」
「うん、聞こえた……もう……」
僕はため息を吐きながら、保存容器のふたを開ける。
文化祭用の試作だから、数は余っている。部員たちにも味見してもらう予定だったし一つくらい渡しても困らない。
けれど、ある意味初対面の男に簡単にあげるのも変だなと思った、次の瞬間だった。
「あっ」
黒瀬の手が伸びた。
僕が止めるより先に、黒瀬は網の上のマドレーヌを一つつまみ、口に入れていた。
「ちょっと!」
僕の声が家庭科室に響く。
黒瀬は口を押さえたまま固まり、数秒後、目を見開く。
「……うまっ」
「勝手に食べないでよ!」
「ごめん。でも、うまっ。何これ、店のやつ?」
「だから試作だって!」
「試作でこれなのか?」
黒瀬は本気で驚いている。その顔はふざけているようには見えなかった。
頬を少し膨らませたまま、もぐもぐと噛んで、飲み込む。それから、まっすぐ僕を見た。
「白鳥、天才じゃん」
「……は?」
「外ちょっとさくってしてて、中ふわってしてる。あと、なんか、バター?めっちゃいい匂いする」
「……バターは入ってるけど」
「やっぱり。すごいなぁ……俺、こういうの作れる人、尊敬する」
怒っていたはずなのに、僕は言葉に詰まった。
からかわれることは、あった。
男子なのに家庭科部なんだ、とか。女子力高いね、とか。悪気がないのは分かっていても、少しずつ胸に引っかかる言葉はあった。
でも、黒瀬の言葉にはそういうものがないのだ。
まっすぐに、僕が作ってくれたマドレーヌを本当に美味しいんだと言ってくれたのだ。
その言葉に僕はうまく反応できなかった。
「えっと……」
「……白鳥?」
「その……勝手に食べたのは、許してないから」
「あ、はい、本当にすみませんでした!」
黒瀬は勢いよく頭を下げる――その素直さがまた少し調子を狂わせる。
そして再度、笑いながら答えた。
「次からは、ちゃんと食べていいか聞くから!」
「次がある前提で話さないでよ……って、食べる気?」
「え、ないの?」
「ない」
「そんな……」
僕の言葉に、黒瀬はまるで世界の終わりみたいな顔をした。
大げさすぎる――そう思ったのに、僕は思わず笑いそうになってしまい、慌てて口元を引き締めた。
「……ねぇ、部活戻らなくていいの?」
「あ、やばい。戻らないと怒られる」
黒瀬はスポーツバッグを肩にかけ直し、扉の方へ向かった。
けれど、出ていく直前に振り返る。
「――白鳥」
「……何?」
「また、お前の作ったモノ、食べたい!」
「だから、次はないって」
「つまみ食いしないから!ちゃんと、聞いて食べるから!」
「そういう問題じゃないから!!」
「でも本当にうまかった。ごちそうさま!」
黒瀬はそう言って、そのまま廊下へ駆け出していった。
すぐに、遠くから「黒瀬どこ行ってたんだよ!」という誰かの声と、「天国!」と答える黒瀬の声が聞こえた。
いや、天国じゃないよここは。
「……何なんだ、あいつ」
家庭科室に一人残された僕は、網の上に並んだマドレーヌを見る。
マドレーヌは一つ、減っていた。勝手に食べられてしまった。
怒っているはずなのに、胸の奥が変に落ち着かない。
『白鳥、天才じゃん』
黒瀬君の言葉――思い出しただけで、耳のあたりが熱くなる。
僕はぶんぶんと首を振り、試作ノートを引き寄せた。
まずは今日の反省点を書く。
焼き時間。食感。甘さ。次回の調整。そのように自分に言い聞かせて、シャープペンを走らせる。
けれど気づけば、ノートの端にこんな文字を書いていた。
――黒瀬君は甘めが好き?
「……っ」
僕は慌てて、その一文に何本も線を引いた。
「違う違う!試作の参考、そうだよ!ただの参考!」
誰もいない家庭科室で、言い訳だけが小さく響いていた。
オーブンの中には、まだ次のマドレーヌが焼ける匂いが残っていたのだった。



