廓の中でしか咲かなかった女は現代で恋を学び直す。

 遊郭の中では嫌でも見られてきた。なのに今は、私を見る人はいない。
 私はずっと座敷にいたはず。
 冷たい床が全身に伝わる。だけど微かに残る、燃えるような熱さ。

 ──思い出した。
 熱い、息がしづらい。痛い。袖辺りが燃えるような匂い。
 ぼんやりとした記憶を辿る。妙に現実味を帯びている体温。
 火は障子や畳を舐める。
 焦げた柱。
 跡形もない襖。

 彼女の華やかな衣装を巻き込んで全身が震える。
 縮めた体はしばらく治まることがなかった。
「そうだ! 撫子は!? 私の大切な禿は!?」
 あの近くにいたはず……!
 辺りを見回すが、それらしき影も気配も見当たらない。
 あぁ、いないのか。撫子……。撫子よ。
 あの笑顔はもういない。
 守れなくてごめんね…。撫子、ごめんなさい。
 目からは涙は落ちなかった。
 撫子が言っていた。
『お姉さんは、涙は似合わない! わっちが大人になって、ここを出られたら、お姉さんのこと買ってあげる!』
『その前にわっちがここを離れるでありんす』
 
 あの笑顔が…。
 ダメだ、彼女のことを考えると………。
 禿(かむろ)だったあの子は、まだ遊女のことを知らないから、私に引っ付き虫で……それで。
 私の頭の中は、何も考えられなくなってしまった。
 それも思考停止したように。
 
 
 そうだ、ここはどこ? もうあそこには戻れないの?
 見回すものに、知っている景色は何もなかった。
 しかし、まだ知っていそうなものはあった。
 上を向くと大きく交差する木。
 瓦が仕込まれている。
「お寺?」
 私の住んでいたところとは少し違う。でもお寺らしきさび付いた鐘。
 きっとお寺だと思うけど、確信はない。
「……お姉さん。どうしたの?」
 背後から聞こえるそよ風のような声。
 驚きで息を呑んだ。
「……だ、誰でありんす?」
 動揺で体を起こすと全身に稲妻が走った。
「い、痛っ」
「大丈夫ですか!?」
「ち、近う寄らんでくださりんせ!」
 はたいた手が妙に人間味があることが私の心を現実に引き戻した。
 私は一人でなんとかできる。
「だから人の手は借りんせん」
 彼は顎に手を預けて悩むが、返ってきた返事は曖昧だった、
「平気でありんす」
 足に力を入れるが、どうしてもうまく入らない。
 あれ、どうして。
 動かないときっと彼は私を心配する。
 動いて、動いてよ!
「やっぱり危ない。……良ければ、俺の家に来るか?」
「お主の家でありんすか?」
「そう」
 彼は私の腰に腕を通す。
 私が人に身を任せるなんて、恥ずかしい。
 もしこの光景を女将に知られたら、きっときつい折檻が……。最悪、見世から外されることもあり得る。
 だけど、今は違う。
 周りは、いつもの景色とは異なる。
 女将が居座る部屋もないし、近くには彼がいる。
 どうしてだろう。この男は安心させる声。
 いつの日かに彼と似た旦那様がいた気がする。けど、どうしても思い出せない。数多くの旦那様がいる花魁にとって覚えるのは至難の業。
 この時は諦めるのが一番。
「そういえばお姉ちゃんの名前聞いてもいい?」
「高貴なわっちに名前を聞くとは無礼な主様でありんすな」
 彼は呆れたような声で
「はいはい。教えて?」
 と軽い返事をする。
「……白妙(しろたえ)と申しんす」
「白妙さんね。了解」
 辺りを見回すと光を纏った大きな建物ばかり。所々に見える家の隙間に長い棒?

「そう言えば、白妙さんはそんなに綺麗な服を着てるけど、どこの人? 俳優?」
 少しだけ沈黙が開く。
「ハイユウ? その言葉は知りんせん」
「俳優っていうのは、自分の演技で物をつくる感じかな」
 自分の演技……。たまに町に訪れる旅芸人か何か? それとも門付(かどづけ)をする芸人?
「わっちは花魁と申す身でありんす」
「花魁? あの女性が身を売る?」
 あってはいるけど、
「言い方が悪いでありんすな」
「ごめんごめん」
 無言の一瞬がどうしても荷が重い。
「花魁だってなりたくてなるものではありんせん」
 ため息を吐きながら言うが、彼の反応はいささか薄い。
「そうなのか」
 なんか味気ない。
 もう少しいい返しはないの?
 私が空気を壊したみたい。
「そう申せば、今は何時代でありんす?」
 勇気を出して聞いた言葉に彼は軽々と応える。
「今は令和だよ」
「れ、レイワ?」
「そう令和」
「そうなんでありんすか」
 聞いたことのない言葉。やはりここは江戸でも遊郭でも、何もかもが違う。
 私の暮らしていた人生は、どこにもなかった。
 でも、身に着けてる衣装は私が遊郭での勝負服。
 首元に咲く大きな芍薬(しゃくやく)は、私の美しさを際立たせる。
 間違いない。私の衣装よ。
 初めて働く時に向けて、女将に仕入れてもらったものだもの。
 てことはこの男は嘘をついていない。
 なら余計に疑問がある。
 私はなんでこの世界に来たのか。
 どうやってここに?
 外国から持ってこられた本に「転生」という言葉があるらしい。
 そう名の分からぬ旦那様から聞いたことがある。
 だけど生まれ変わりにしては、服も顔も体も。
 すべてがそのままというのはおかしい。
「ここに着いたよ」
 目の前に広がる小さな屋敷には、いくつかの扉と小窓がちらほら。ただそれだけ。