3.
「ねぇ、やめてよ!」
悠未はベンチから立ち上がり、力の限り叫んだ。広いプールに声が溶ける。現実はどうしようもないぐらいに変わらない。どうしても息ができないのは、正しく助けを求められない私たちが悪いのだろうか。
視線の先で、樹が荒い息をしている。プールサイド、両脇を二人の男に固められて、身動きが取れない。
「ねぇ、あんたちょっとうるさいから黙りなよ。不快でしょうがないんだよね」
そばに立つ女の言葉だった。悪意を帯びる言葉尻に、涙が出てくる。でも、涙など所詮は飾りにすぎない。いくら流れ出たところで、意味などない。辛いのも、苦しいのも、悲しいのも、全て脳の電気信号なんだから。
涙の分だけ強くなれるって誰かの名言は、涙を流させる人間の方便だった。
「ちょっと……」
悠未の口から、脳を通過せずに言葉が漏れ出ていた。
樹が足を蹴られ、バランスを失い、水面に叩きつけられた。ダパーンと、衝撃音がプール中に響き渡った。派手に水しぶきをあげた樹は、どうにか犬かきをして水面から顔を出した。悠未は胸を撫で下ろす。
「あはははははは」
樹を突き落とした連中が腹を抱えて笑っていた。
「犬かきしてやんの。屈辱的だよな。お前」
憎悪を覚え、悠未は連中を睨みつけた。すると、そばで座る女が嘲笑うかのような視線を向けてきた。
「いくら復讐しようってって無駄だよ。努力は無駄。あいつらはただ楽しくてやってるだけ。生物として楽しんでるんだよ。だから、いくらあんた達が抵抗しようったって無駄だから。生存のためにやっているだけだから」
「じゃあ、あなたはどうしてただ傍観しているの。樹を突き落とした連中と一緒じゃない」
「私は見てるのが楽しいだけ。私って、同罪かな?」
女はフッと笑った。悠未は適切な言葉を見つけられなかった。ただ、ただこの世界の残酷さがあまりに怖くて仕方がなかった。
私たちの生きる世界は、夢も希望も息をやめてしまった。
「おい、悠未、来いよ」
樹を突き落とした連中の一人が言った。悠未は拳を握り、連中に近づく。どうしても握った拳が震えそうで、強く、強く力を込める。
「しっかり立てよ」
水面を正面にして、プールサイドに立たされる。後ろでは相変わらず不快な声が響いている。誰が私を突き落とそうが、もうどうでもいい。私は世界に見放されている。
「今日は自分で飛び込んでもらうわ。ちゃんと飛ばないと、何回でも飛んでもらうからな」
リーダー格の男が後ろから言った。
悠未は、足元を見つめた。大丈夫、怖くない。なんとか自分に繰り返し言い聞かせ、視線を上げたとき、ずぶ濡れの樹が目に入った。樹は柔和に微笑んでいた。いつもそうだ。 樹は苦しいときほど、柔和に笑う。どうしようもない苦しみがこみ上げてくる。
ポタ、ポタと素足に水滴が落ちてきた。
「泣いて許されるとでも思ってんの。元はといえば、お前らが悪いんじゃん。こっちは怒鳴られながら死ぬほど練習してんのに、樹だけ特別扱いだぜ。水泳の才能があるからな。一般市民の気持ちにもなれよ」
「おい、悠未に言うことじゃないだろ。悠未は一切関係ない」
樹の強い口調だった。樹が声を荒げるのは、非常に珍しいことだ。
リーダー格が悠未の横に来た。肩を抱かれ、悠未はビクッと体を震わす。
「お前の彼女なんだから、関係ないわけないだろ。コイツも物好きだよな。お前を守りたいだなんて。一緒にいるだけじゃ、意味ないのにさ」
「いい加減にしろよ!」
樹が水面を殴った。天井に向かって、激しい水しぶきがあがる。樹は紅潮した顔のまま口を開いた。
「分かった。もういい。俺は水泳を辞める。もう水泳は二度とやらない。他校に転校するのもなし。元々、中野家裕福じゃないしな。もういいんだ」
「だめだって、樹。水泳は続けないと、今戦ってる意味がなくなる」
「もう、やめよう。ごめん悠未、俺が弱かったんだ。悠未の優しさに甘えたんだ。もうなにもかもから逃げよう。全部終わり。苦しんでさえいれば、いつか誰かが助けてくれるのかもしれないって、根拠もないのに思い込んだのが馬鹿だった。ごめん、悠未を傷つけた」
「ひゅー、アツアツじゃん。幸せ見せつけないでくれますか。気分悪いんで。いいよな、才能持って生まれた人間は生きるの簡単でさ。持ってない人間の苦労を味わってくれないと。じゃないと公平じゃないんだから」
悠未の脳内で、ついさっき、女に掛けられた言葉が再生された。生存のための行為としてやっているだけだから。そうか。きっとこの連中は私たちのことを攻撃しないと、自分のことを守れないんだ。だから執拗に攻撃するんだ。
じゃあ、もう耐える意味も、苦しむ意味も一切ない。やっぱり、涙をどれだけ流したとしても、強くなることはない。そうだ。一切間違ってなかった。
悠未は、透明に煌めく水面を数秒見つめた後、体から一切の力を抜いた。
頭から水面に落ちていく。樹の叫ぶ声が耳に刺さった。
猛烈な痛みを覚悟した瞬間、なにかフサフサの柔らかいものに包まれた。
なぜだか、水にぶつかる感触がしない。あれほど想定していたのに。
不思議に思って目を開けると、そこには大きなシロクマがいた。まるで樹の持っているぬいぐるみのようなシロクマだ。悠未にとって、見覚えはあるけど、見覚えのなさすぎる意味のわからない光景だった。
混乱した頭で樹の方を見ると、樹は目を真ん丸にして、ペンギンの背に乗っていた。とさかのあるペンギンは、悠未の持っているぬいぐるみのようなペンギンだった。
現実感のない視界の中で、シロクマさんは私に向かって微笑んだ。
「やぁ、会いに来たよ」
「ねぇ、やめてよ!」
悠未はベンチから立ち上がり、力の限り叫んだ。広いプールに声が溶ける。現実はどうしようもないぐらいに変わらない。どうしても息ができないのは、正しく助けを求められない私たちが悪いのだろうか。
視線の先で、樹が荒い息をしている。プールサイド、両脇を二人の男に固められて、身動きが取れない。
「ねぇ、あんたちょっとうるさいから黙りなよ。不快でしょうがないんだよね」
そばに立つ女の言葉だった。悪意を帯びる言葉尻に、涙が出てくる。でも、涙など所詮は飾りにすぎない。いくら流れ出たところで、意味などない。辛いのも、苦しいのも、悲しいのも、全て脳の電気信号なんだから。
涙の分だけ強くなれるって誰かの名言は、涙を流させる人間の方便だった。
「ちょっと……」
悠未の口から、脳を通過せずに言葉が漏れ出ていた。
樹が足を蹴られ、バランスを失い、水面に叩きつけられた。ダパーンと、衝撃音がプール中に響き渡った。派手に水しぶきをあげた樹は、どうにか犬かきをして水面から顔を出した。悠未は胸を撫で下ろす。
「あはははははは」
樹を突き落とした連中が腹を抱えて笑っていた。
「犬かきしてやんの。屈辱的だよな。お前」
憎悪を覚え、悠未は連中を睨みつけた。すると、そばで座る女が嘲笑うかのような視線を向けてきた。
「いくら復讐しようってって無駄だよ。努力は無駄。あいつらはただ楽しくてやってるだけ。生物として楽しんでるんだよ。だから、いくらあんた達が抵抗しようったって無駄だから。生存のためにやっているだけだから」
「じゃあ、あなたはどうしてただ傍観しているの。樹を突き落とした連中と一緒じゃない」
「私は見てるのが楽しいだけ。私って、同罪かな?」
女はフッと笑った。悠未は適切な言葉を見つけられなかった。ただ、ただこの世界の残酷さがあまりに怖くて仕方がなかった。
私たちの生きる世界は、夢も希望も息をやめてしまった。
「おい、悠未、来いよ」
樹を突き落とした連中の一人が言った。悠未は拳を握り、連中に近づく。どうしても握った拳が震えそうで、強く、強く力を込める。
「しっかり立てよ」
水面を正面にして、プールサイドに立たされる。後ろでは相変わらず不快な声が響いている。誰が私を突き落とそうが、もうどうでもいい。私は世界に見放されている。
「今日は自分で飛び込んでもらうわ。ちゃんと飛ばないと、何回でも飛んでもらうからな」
リーダー格の男が後ろから言った。
悠未は、足元を見つめた。大丈夫、怖くない。なんとか自分に繰り返し言い聞かせ、視線を上げたとき、ずぶ濡れの樹が目に入った。樹は柔和に微笑んでいた。いつもそうだ。 樹は苦しいときほど、柔和に笑う。どうしようもない苦しみがこみ上げてくる。
ポタ、ポタと素足に水滴が落ちてきた。
「泣いて許されるとでも思ってんの。元はといえば、お前らが悪いんじゃん。こっちは怒鳴られながら死ぬほど練習してんのに、樹だけ特別扱いだぜ。水泳の才能があるからな。一般市民の気持ちにもなれよ」
「おい、悠未に言うことじゃないだろ。悠未は一切関係ない」
樹の強い口調だった。樹が声を荒げるのは、非常に珍しいことだ。
リーダー格が悠未の横に来た。肩を抱かれ、悠未はビクッと体を震わす。
「お前の彼女なんだから、関係ないわけないだろ。コイツも物好きだよな。お前を守りたいだなんて。一緒にいるだけじゃ、意味ないのにさ」
「いい加減にしろよ!」
樹が水面を殴った。天井に向かって、激しい水しぶきがあがる。樹は紅潮した顔のまま口を開いた。
「分かった。もういい。俺は水泳を辞める。もう水泳は二度とやらない。他校に転校するのもなし。元々、中野家裕福じゃないしな。もういいんだ」
「だめだって、樹。水泳は続けないと、今戦ってる意味がなくなる」
「もう、やめよう。ごめん悠未、俺が弱かったんだ。悠未の優しさに甘えたんだ。もうなにもかもから逃げよう。全部終わり。苦しんでさえいれば、いつか誰かが助けてくれるのかもしれないって、根拠もないのに思い込んだのが馬鹿だった。ごめん、悠未を傷つけた」
「ひゅー、アツアツじゃん。幸せ見せつけないでくれますか。気分悪いんで。いいよな、才能持って生まれた人間は生きるの簡単でさ。持ってない人間の苦労を味わってくれないと。じゃないと公平じゃないんだから」
悠未の脳内で、ついさっき、女に掛けられた言葉が再生された。生存のための行為としてやっているだけだから。そうか。きっとこの連中は私たちのことを攻撃しないと、自分のことを守れないんだ。だから執拗に攻撃するんだ。
じゃあ、もう耐える意味も、苦しむ意味も一切ない。やっぱり、涙をどれだけ流したとしても、強くなることはない。そうだ。一切間違ってなかった。
悠未は、透明に煌めく水面を数秒見つめた後、体から一切の力を抜いた。
頭から水面に落ちていく。樹の叫ぶ声が耳に刺さった。
猛烈な痛みを覚悟した瞬間、なにかフサフサの柔らかいものに包まれた。
なぜだか、水にぶつかる感触がしない。あれほど想定していたのに。
不思議に思って目を開けると、そこには大きなシロクマがいた。まるで樹の持っているぬいぐるみのようなシロクマだ。悠未にとって、見覚えはあるけど、見覚えのなさすぎる意味のわからない光景だった。
混乱した頭で樹の方を見ると、樹は目を真ん丸にして、ペンギンの背に乗っていた。とさかのあるペンギンは、悠未の持っているぬいぐるみのようなペンギンだった。
現実感のない視界の中で、シロクマさんは私に向かって微笑んだ。
「やぁ、会いに来たよ」



