君が教えてくれた故郷

 四月の終わり。

 朝の空気はまだ少し冷たく、山から吹いてくる風が頬を撫でていた。

 神谷悠斗は自転車を漕ぎながら、大きなあくびをする。

 通学路の両側には田んぼが広がり、その向こうには緑色の山々が連なっている。

 遠くには恵那山が見えた。

 だが悠斗はその景色を見ようともしない。

 毎日見ている景色だった。

 見飽きるほど。

「山しかねぇな……」

 誰に言うでもなく呟く。

 進学したら名古屋へ行きたい。

 できれば東京。

 とにかくこの町から出たい。

 それが悠斗の本音だった。

 別に中津川が嫌いなわけじゃない。

 ただ、何もない。

 遊ぶ場所も少ないし、大きな商業施設もない。

 都会のような刺激もない。

 だから早く出て行きたい。

 それだけだった。

「神谷ー!」

 後ろから声が聞こえた。

 振り返るとクラスメイトが手を振っている。

「おはよー!」

「おう」

 軽く返事をして校門をくぐる。

 いつも通りの朝。

 いつも通りの学校。

 その日も平凡な一日になるはずだった。

 少なくとも、このホームルームが始まるまでは。





「よーし、席につけー」

 担任の田辺先生が教室へ入ってくる。

 四十代半ばの男性教師だ。

 面倒見は良いが、妙なところで強引な一面がある。

 出席確認が終わると先生は黒板に大きく文字を書いた。

『文化祭』

 教室がざわつく。

 高校生にとって文化祭は一大イベントだ。

 盛り上がる生徒も多い。

 しかし先生の次の言葉で空気が変わった。

「今年の文化祭は地域交流がテーマだ」

 教室のあちこちから嫌そうな声が漏れる。

「えー……」

「また地域交流?」

「去年も似たようなのやったじゃん」

 先生は構わず続ける。

「各クラスで地元紹介企画をやることになった」

 さらにため息が増えた。

 悠斗も机に頬杖をつく。

 面倒くさい。

 それ以外の感想はない。

「というわけで文化祭実行委員を決める」

 教室が静まり返った。

 誰も目を合わせようとしない。

 先生も慣れたものだった。

「立候補は?」

 沈黙。

 誰も手を挙げない。

「よし、推薦な」

「早っ!」

 誰かが叫ぶ。

 教室に笑いが起きた。

「じゃあ誰か推薦してくれ」

 一瞬の静寂。

 そして。

「神谷でいいじゃん」

 男子生徒の声だった。

 教室が一気に盛り上がる。

「あー、確かに」

「暇そうだしな」

「神谷やれよ」

 笑い声が広がる。

 悠斗は目を丸くした。

「は?」

「神谷、どうだ?」

 先生が聞いてくる。

「嫌です」

 即答だった。

 教室が爆笑に包まれる。

「却下」

「なんでだよ!」

 先生は楽しそうに笑う。

「決まりだな」

「決まってねぇよ!」

 その時だった。

「私やります!」

 元気な声が教室に響く。

 全員の視線が集まる。

 手を挙げていたのは水野美月だった。

 肩まで伸びた黒髪。

 明るい笑顔。

 クラスでも目立つ存在だ。

「助かるな、水野」

「はい!」

 美月は元気よく返事をする。

 悠斗は思わず顔をしかめた。

(面倒なのが来たな……)

 そんな予感しかしなかった。



 放課後。

 文化祭実行委員会が開かれた。

 各クラスの代表が集まり、会議室には三十人ほどが座っている。

 悠斗は窓際の席でやる気なく座っていた。

 一方、美月は前の席で目を輝かせている。

 やる気の差がひどい。

 生徒会長が前に立った。

「今年の文化祭テーマを発表します」

 プロジェクターに文字が映る。

『中津川PRプロジェクト』

 一瞬、会議室が静まり返った。

「終わった……」

 悠斗は机に突っ伏した。

 地元紹介。

 しかも中津川限定。

 最悪だった。

「面白そう!」

 前から聞こえた声に顔を上げる。

 美月だった。

「どこが?」

 思わず口から出る。

 美月が振り返った。

「え?」

「面白い要素ある?」

「いっぱいあるよ」

「例えば?」

 美月が固まった。

「えっと……」

 言葉が出てこない。

 悠斗は肩をすくめる。

「ほらな」

「あるもん!」

「じゃあ言ってみろよ」

「えーっと……」

 数秒。

 沈黙。

 そして。

「いっぱいある!」

「雑すぎるだろ」

 思わず笑ってしまう。

 美月は悔しそうに頬を膨らませた。

「神谷くんは?」

「何もないだろ」

「そんなことない!」

「あるなら教えてくれ」

「今は出てこないだけ!」

「説得力ゼロだな」

 結局そのまま会議は進み、企画内容は後日決めることになった。



 夕方。

 帰り道。

 空は茜色に染まっていた。

 悠斗が一人で歩いていると後ろから声がした。

「神谷くん!」

 振り返る。

 美月だった。

「まだいたのか」

「ひどくない?」

「なんだよ」

 美月は少し真面目な顔になる。

「本当に何もないと思ってるの?」

「思ってる」

 即答。

 美月は少し考える。

「じゃあなんで私は好きなんだろ」

「知らねぇよ」

「私ね、中津川好きなんだ」

「へぇ」

「山もあるし、川もあるし、人も優しいし」

「そんなのどこでも同じだろ」

「違うよ」

 美月は立ち止まった。

 夕日が横顔を照らしている。

「神谷くんは見ようとしてないだけだと思う」

「何を?」

「この町を」

 悠斗は黙る。

「調べてみない?」

「何を?」

「中津川」

「は?」

「本当に何もないのか」

 美月は真っ直ぐ悠斗を見る。

「それとも私たちが知らないだけなのか」

 その言葉だけは妙に心に残った。

 だが素直には認めたくない。

「面倒くさい」

「やっぱりそう言うと思った」

「だろ?」

「でも参加だからね」

「強制かよ」

「強制です」

 美月は笑った。





 駅前の交差点。

 別れ道。

「じゃあ土曜日ね」

「何が?」

「取材」

「行くなんて言ってない」

「来るよ」

「なんでだよ」

 美月は少し考えた後、にやりと笑った。

「神谷くん、意外と優しいから」

「意味分かんねぇ」

「じゃあね!」

 そう言うと駆け出していく。

 夕日に照らされた背中が少しずつ遠ざかる。

 悠斗はため息をついた。

「なんなんだよ、あいつ」

 そして何気なく空を見上げた。

 夕焼けに染まる山並み。

 恵那山が赤く輝いている。

 いつも見ている景色。

 見慣れたはずの景色。

 なのに。

 なぜだろう。

 今日は少しだけ違って見えた。

「何もない町……か」

 ぽつりと呟く。

 その答えはまだ分からない。

 けれど。

 土曜日になれば何かが変わるかもしれない。

 そんな予感がほんの少しだけ胸の奥に生まれてい
た。

 春の風が吹く。

 恵那山の向こうで、夕日がゆっくりと沈んでいった。