書斎の窓から色づき始めた紅葉の葉が見える。
電気ストーブの小さく唸るような音だけを聞きながらコーヒーを啜っていると、遠慮がちにドアがノックされた。
「はい」と入室を許可すると、ドアの隙間をゆっくりと広げ、担当編集者の一ノ瀬が顔を覗かせた。
「失礼します……先生、今、よろしいですか?」
原稿を執筆する時にだけ用いている眼鏡を外しながら、彼に手招きした。
仕事の邪魔ではないと分かった途端、遠慮がちに様子を伺っていた一ノ瀬の瞳に喜びの色が滲む。
「順調ですか、先生」
「絶不調だ。まったく筆が乗らない。スランプだ。筆を折るしかない」
俺の台詞に、一ノ瀬が絶句する。連載中の原稿は雪原のように真っ白だ。
五行ほど埋めた後は、悪戯に「ggsdjb,hqj;」と打ってあった。
一ノ瀬が「鬼編集者」の顔つきになる。キッと鋭い目つきで俺を睨んだ。
「先生、非常に申し上げにくいのでが、そろそろ本腰をいれていただかないと……」
「ん、じゃあ、『いつもの』頼んでいいか」
俺は椅子をくるりと回し、両手を広げた。目尻を紅潮させた一ノ瀬が思わず「またですか、先生」と抗議の声を上げる。
「今朝も、その……したじゃないですか」
「一日一回って決まりでもあるのか。減るものでもないんだし、いいだろ」
顎を小さく振り、自分の膝を示すと一ノ瀬は小さくため息をついた。
律儀に「・・・重いですよ」ため息をついて、不服そうな一ノ瀬が、後ろから俺に抱きしめられる体勢で座る。俺は少し首を曲げ、そのほっそりとした首筋に鼻を埋める。
これがスランプの時の、『いつもの』特効薬だ。
「こんなことしても、意味、ないと思いますけど」
「いいアイディアが浮かぶんだよなぁ、こうしてると」
「……原稿、落としたら許しませんからね」
怒ったような声。強ばった肩。
あと数十秒後には、毛を逆立てた猫のように、一ノ瀬は俺からサッと離れて、矢のように小言と説教を投げつけ始めるだろう。……嫌だな。
でも、今はなんにも考えなくて、いいや。
四方を本棚で敷き詰めたささやかな書斎で、俺は一ノ瀬の匂いに包まれる為に目を閉じた。
***
「やっぱり、長野先輩ですよね」
再会した時、一ノ瀬は今のように俺を「先生」とは呼ばなかった。
それは、3年前の秋だった。サラリーマンと作家との二足の鞋を十年近く続け、必死に書き続けた成果がようやく実を結ぼうとしていた。
念願の新人賞をようやく獲り、名が売れ始めていたのを感じ始めていた。
その年もK社の主催する文学賞を受賞し、俺はパーティに出席していた。
「先生」と呼ばれる度にまだ居心地が悪く、かといって遅咲きの作家としては若い編集者との会話に戸惑い、シャンパングラスを片手に曖昧な表情で周囲の会話に相づちを打っていた。一通りの挨拶が済んだ頃、聞き覚えのある声で「長野先輩」と呼ばれたのだった。
「受賞おめでとうございます。夢を叶えたんですね」
その感情のない、クールな顔つきに見覚えがあった。
確か、一ノ瀬……一ノ瀬 涼 という名だった。
俺が卒業する年に大学に入学した後輩で、一年ほどしかつきあいはなかった。
小説表現のゼミでも一緒だったが、彼は専ら創作では無く、書評を書くことに長けていた。多角的な視点で分析する彼の書評には遠慮が無くて、自分の作品を読ませるのは、教授の時よりも緊張した。今の作家人生があるのも、一ノ瀬のおかげかもしれない。
卒業して以来の再会だったが、懐かしい仏頂面に思わず顔がほころび、自然と彼との再会を喜ぶ台詞が出てきた。
「一ノ瀬。久しぶりだな。もしかして作家に?」
「いえ、ぼくはこちらです」
一ノ瀬は無表情のまま、名刺を見せた。K社に彼がいるとは知らなかった。俺の驚きに気付いたのか、
「今は文芸部ではなく、雑誌編集に在籍しているのですが、今日は同僚に無理いって出席させていただきました」
右耳に髪をかきあげて、一ノ瀬は目をそらした。その仕草も覚えている。俺の小説を読むときの彼の癖だ。紺色のシャツにテーラードジャケットという地味な出で立ちも大学時代から変わらず、その涼しげな目元も懐かしい。
「『暁闇』に出されていた作品も拝読しました。先輩らしい、幻想的な作品でしたね」
「え?!まさか、アレも読んだのか。違う出版社の、言っちゃあなんだか、マイナーな雑誌じゃないか」
他社の小さな文芸誌の隅に載った数年前の小説までも、一ノ瀬が読んでいたことに驚いた。
小説家になりたいとは口にしていたが、実際に応募しているのは気恥ずかしくて誰にも言ったことがなかったのだ。
「あ・・・・・・えっと、その・・・・・・」
一ノ瀬の頬がさっと赤くなる。唇を手で拭うような仕草をしながら、一ノ瀬が続けた言葉を俺は一生忘れない。
「僕も夢を叶えました・・・・・・長野先輩と一緒に仕事ができたらって、ずっと、そう思ってたんです・・・・・・」
その表情に、生真面目で物怖じしない一ノ瀬を「生意気な後輩だな」と面白がっていた気持ちが、何か別の感情へと変容していくのが分かった。
性別だとか、年齢だとか、そういうものを超越し、ただ単純に「愛しい」と思った。そして何よりもこの男を「欲しい」と思ったのだ。
気むずかしく、人になつかない猫のような男。
だが、結果として、彼は現在、こうして俺の腕の中にいる。
恋人として、そして仕事のパートナーとしてもだ。
編集長に無理を言い、彼を文芸部に移動させ、俺は一ノ瀬を公私ともに自分のものにしたのだ。
腕の中の柔らかくて甘い匂いに、思わず一ノ瀬との再会を思い出していると、小さな溜息が聞こえた。
「・・・・・・先生がこんなにワガママだとは知りませんでした」
背中から抱かれ、何年経っても、つれない恋人がそんな悪態をつく。俺は彼の項に鼻を寄せながら、「お前から俺のところに飛び込んできたのが悪い」と彼をからかった。
「それに、二人きりの時は「先生」はなしだろ、一ノ瀬」
「んっ・・・・・・も、だめ、です・・・・・・ってば!」
後ろから抱きしめながら耳にキスをすると、一ノ瀬が俺の肩をやんわりと押した。
ささやかな拒絶や抵抗も、心開いてくれている証拠なのだと思うと悪くはない。
拗ねたように上目遣いで見つめてくる顔に、恋人としての特権を感じ、「ふふ」と嗤うと、腕の中の一ノ瀬が眉間に皺を寄せた。
「先輩って変です」
「変か?」
「僕みたいなのを恋人にしてる時点で相当」
「だってこんなに可愛いじゃないか」
「・・・・・・変です」
顔をぷいっと背けるのに耳が真っ赤に染まっている。口下手で年下の男が可愛くてたまらない。後ろから再び抱きしめて、小さく息を吸った。
「一ノ瀬の匂いも好きだ。安心する。香水とかつけているのか」
「いえ、別に・・・・・・自分じゃ分からないんですけど、どんな匂いですか?」
俺の言葉に一ノ瀬が自分の服の腕裾を嗅いだ。子犬のように不安を浮か一ノ瀬表情に思わず微笑んだ。「なんか、嬉しいな」
「一ノ瀬の知らない一ノ瀬のことを俺だけが知ってるんだな」
俺の言葉に、不意を突かれた一ノ瀬の顔が真っ赤になった。
******
「お疲れ様です。今日は社の飲み会があってそちらに伺えません。
今夜は冷え込みが厳しくなるそうなのでお気を付けてください」
これが恋人からの連絡だろうか。他人行儀な文面の端々に、俺を気遣う気持ちが見えて、思わず笑ってしまった。
昨晩遅くまで執筆していたのを見抜かれていたような連絡が、夕方、スマホに届いていた。
寝癖頭をぼりぼりかきながら、素っ気ないような、それでいて心配性な文面を読み、口元を緩めた。
毎週金曜日は会おう、というのが暗黙の約束だった。だが30も過ぎて、約束の一つや二つ反故にされて怒るほどの青さもない。それでも律儀にこんな連絡をいれてくる恋人がいるのは嬉しい。電気ポットのお湯を沸かし始めながら、俺は一ノ瀬に返信する。
「また会えるの楽しみにしてる。仕事がんばれ」
すぐに既読の文字がつく。その後に送られてきた「承知しました」という一言を、どんな表情で打っているのか簡単に想像がついて、一人暮らしの部屋でにやけてしまう。
首を曲げ、マグカップにコーヒーを注ぎ、「さて」と俺は呟く。慣れた一人暮らしのはずなのに、言葉を返してくれる人がいないことに物寂しく感じるようになってきた。そんな自分をごまかすように、俺はノートパソコンの電源をいれた。この瞬間が好きだ。キーボードを打てば、俺の、俺だけの世界が広がっていく。
──長野ってこんなことを考えてるんだね。意外だ。
俺の小説を読む知人や友人たちは大抵そんなことを言う。自分では自覚がなかったが、寡黙で何を考えているか分からないとよく評された。人間嫌いだと誤解されている節さえあった。俺を知っている人間からすると、そもそも「文字」を使って表現する仕事を生業にしているのが意外らしい。
「だが悪くない」
昔馴染みの口が悪い友人がそう言っていたのを思い出す。お互い仕事もあり、滅多に会わなくなったが、本音を言い合える数少ない友人だ。
「お前の話にはお前のポリシーを感じる。譲りたくない何か、熱いものが感じられる。俺はそれが嫌いじゃねぇ」
まぁ、頑固じゃ無きゃ、そもそもそんな仕事に就かねぇしな。映画も小説も嗜まない友人の、飾らないそんな言葉が嬉しかった。
(そういえば)
大学時代も、編集者となってからも、一ノ瀬が俺の小説を褒めたことはない。
勿論、編集者として相談にのり、助言や資料作りにも協力してくれる。
「作家の某センセイが今回の作品も良かったと仰っていましたよ」等は言うが、俺の作品について一ノ瀬自身の評価は口にしない。
徹底的ですらあった。きっと自分の評価で俺の作品を邪魔しないようにしているのだ。公私の区別をしっかり分けていたいという彼なりのルールなのだろう。
俺もプロだから恋人の感想には影響されないつもりではいるが、つまり、一ノ瀬は、口下手と言うよりは……。
(案外、頑固なんだよな。ああ見えて)
集中して2時間ほど打っていると、だいたいの目処がついてきた。
コーヒーを何度かおかわりし、眼を休めるために入浴し、そして再度パソコンに向かおうとしたところで、インターフォンが鳴った。
「夜分にすみません。以前頼まれていた資料と、ささやかですが差し入れをもって参りました」
小さな紙袋を抱えて、一ノ瀬が立っていた。ほんのりと紅潮した顔。表情がいつもより緩んでいる。
かろうじて口調はしっかりしているが、目元もとろんとしている。
「飲み会からここに来たのか」
「はい。まだおやすみじゃない時間だと思ったので。ご迷惑でしたか」
「まさか」
俺の微笑みに一ノ瀬も嬉しそうに微笑んだ。俺の後ろを歩き、廊下をすすむが、すこしふらついている。
「珍しいな。だいぶ飲んでいるのか」
「はい。断り切れなくて・・・。でもこちらを渡したらすぐに帰りますから」
「泊まっていけばいいじゃないか。もう眠たくててたまらないって顔だぞ」
酔っていても遠慮がちな恋人の髪をくしゃりと撫でると、申し訳なさそうに「すみません」と言った。
「そこで座っていろ。水を持ってきてやる」
彼から荷物を受け取ると、俺はキッチンに立った。アイランド式キッチンのシンクの蛇口をひねると、カーペットに腰を下ろした一ノ瀬がふにゃふにゃ笑いながら、俺を見ていた。丸いローテーブルに突っ伏しながら、笑っているその顔がどこか幼く見えた。
「なんだ。今日は本当に酔ってるな。上機嫌じゃないか」
ガラスのコップを水で満たしたところで、一ノ瀬の言葉が響いた。
「長野先輩、僕ね、ふふ」
とろんと蕩けた瞳で、微笑んでいる。硬直している俺の表情に気付かないで、無防備な恋人が、俺を見て、夢見心地のような顔で呟いた。
「大学の時から、ずっと、こうしていられたらって思ってて。だから、今、すごく」
しあわせ
俺は用意した水を卓上においた。テーブルに突っ伏して文字通り「むにゃむにゃ」などと訳の分からない言葉を言う一ノ瀬の肩を掴む。
誰の評価も気にしないでいられたはずだった。内気な恋人の慎ましさにも理解を示していたはずだった。
「せんぱ、ん・・・んっ・・・ふ、」
一ノ瀬の唇を奪うようにキスをした。力のはいらない腕が抵抗ではなく、俺の腕にすがりつく。甘く漏れる吐息に、一生懸命目を閉じてキスに応えようとするその顔に、自分が自分でなくなっていくのが分かった。
「悪い」
唇を離すと、期待と欲が絡んだオリーブ色の瞳に、余裕を無くした俺の顔が映っている。
「長野、せんぱい・・・・・・?」
とろんとした顔。ほんのすこし舌っ足らずな口調。それでも、首にまわる腕はしっかりと絡みついている。小説家なくせに、気の利いた言葉がひとつも出てこなくて、俺は脱力しきった一ノ瀬の身体を抱えて、寝室に向かった。
年甲斐も無く、年下の男に溺れてる。──その自覚に呆れながら、俺は一ノ瀬の体をシーツに押し倒した。
******
「失礼します……先生、今、よろしいですか?」
書斎の窓から色づき始めた紅葉の葉が見える。
電気ストーブの小さく唸るような音だけを聞きながらコーヒーを啜っていると、遠慮がちにドアがノックされた。
「はい」と入室を許可すると、ドアの隙間をゆっくりと広げ、一ノ瀬が顔を覗かせた。
原稿を執筆する時にだけ用いている眼鏡を外しながら、彼に手招きした。
仕事の邪魔ではないと分かった途端、遠慮がちに様子を伺っていた一ノ瀬の瞳に喜びが滲む。
「順調ですか、先生」
「絶不調だ。まったく筆が乗らない。スランプだ。筆を折るしかない」
笑顔にあわない俺の台詞に、一ノ瀬の眉間に皺がより、例の如く鬼の形相になりかけた。
しかし、俺が原稿用紙の束をトントンと揃えているのを視て安堵の表情を浮かべた。
「拝受いたします」と丁寧に言いながらそれを茶封筒に収め、宝物のようにゆっくりと鞄に入れた。
「お疲れ様でした。さっそく社に戻って作業に取りかかります」
「ご褒美は」
「え」
俺は椅子をくるりと回し、両手を広げた。目尻を紅潮させた一ノ瀬が思わず「またですか、先生」と抗議の声を上げる。
「言い方が違うだけで、今朝もしたじゃないですか」
「それはそれ、これはこれ。減るものでもないんだし、ほら」
顎を小さく振り、自分の膝を示すと一ノ瀬は小さくため息をついた。
律儀にため息をついて、素直に、後ろから抱きしめられる体勢で座る。俺は少し首を曲げ、そのほっそりとした首筋に鼻を埋める。
何度同じことをしても、慣れない彼が少し緊張しているのが分かる。
心臓の高鳴りが聞こえずとも、その戸惑い気味の瞳が見えずとも、彼が何を思っているのか、その匂いを嗅げば分かった。
「一ノ瀬」
「はい」
「幸せだな」
「・・・・・・そうですね」
恥ずかしがり屋の恋人はそれ以上俺に言葉を与えてはくれない。
だがまぁよしとしよう。いつかまた不意に素直な姿を見せてくれるはずだ。……昨晩のベッドでの一ノ瀬を思い出しながら、俺はにやけた。
(──せんぱい、すき。すきです、もっと、せんぱいの匂いで)
満たして、とねだる一ノ瀬の甘い声が、今も体に染みついている。
「あんまり、俺以外の前で、酒飲むなよ、一ノ瀬」
「……はい」
一ノ瀬も昨晩のことを思い出しているのか、しおらしく俺の膝に座っている。
真っ赤な耳朶が見れる、俺だけの特等席。
ほんの少し開けた窓から入る、秋の澄んだ空気の匂い。淹れ立てのコーヒーと、高浜虚子の句集の匂い。
その中で何よりも近い距離にいてくれる、大切な匂い。
四方を本棚で敷き詰めたささやかな書斎で、俺は一ノ瀬の匂いに包まれる為に目を閉じた。
*ここまでで一旦、更新をお休みいたします。
他作品も含め読んでくださった方、いいね等くださった方、ありがとうございました。



