僕が彼に恋する1分間─甘くて苦いBL短編集─




飛行機雲が伸びていく。

僕はどこにも行けやしない。




古びたアパートのエレベーターの前には「故障中」の立て札がかかっていた。

激しい夏の日差しがぎらつき、市営プールではしゃぐ子供らの歓声が微かに聞こえる。健康で若い男といえど、この暑さの中、5階まであがるのはなかなか骨が折れた。8月も半ばの熱気が、首や腕にじわりと絡み付き、段差に足を乗せる度に、僕は、ふぅ、と息を吐いた。

「生」の気配が濃厚に空気中に漂っているのに、アパートの廊下はしんと静まりかえっている。

ふと、休憩がてら、下を見下ろすと、カンナの花が、狭い中庭に咲いているのが見えた。

誰も手入れをしない、暗く鬱蒼とした庭に、大きく開いた黄色い花弁は鮮やかすぎる。黒アゲハが一羽、悪戯に花を揺らしていた。黄色い花弁は淡い芳香を撒き散らし、大きく弾む。

503と記された部屋のドアノブを回す。微かにラジオが聞こえた。叔父の好きな歌だ。また鍵をかけ忘れてる。

黴臭い本の山。乱雑に書きなぐられた壁の数式や文字。ジャズを流すトランジスタ・ラジオ。麦茶の入ったグラスが、カーテン越しに漏れる光で、きらりと輝いた。またアルコールランプで、チーズでも焼いたのだろうか。香ばしい匂いがする。

此処が──1LDKの、叔父の城だ。

肝心の城の主を探すと、小さく呻き声が聞こえた。乱雑に本やら紙やら埃やら煙草やらが転がる室内の中央に、彼は居た。スプリングの効かない小さなソファに仰向けになって寝ている。しわしわのカッターシャツに不精髭。昨日も徹夜で論文と格闘していたが、とうとう力尽きたのだろう。

「シュウ、そろそろ夏休みだろう、遊びにいこうか」

と、毎年のように、叔父は僕を誘った。27歳も年が離れた叔父は、どんな大人よりも子供を喜ばせる天才だった。瑪瑙色に輝く潮騒や、新しい自転車に、サーカスの花火。素朴だけど、美しい何かを魅せてくれる二泊三日の小旅行は、僕の楽しみの一つだった。

だけど、高校生になったばかりの僕は、いつもの問いかけに「行かない」と答えた。叔父は哀しそうな顔と同時に、「ついにこの日がきたか」と何もかも理解した顔をした。僕は笑った。

「夏休みの間、叔父さんの家に泊まらせてよ。どこも行かなくていい。だらだら過ごしたい気分なんだ」

「ううん……」と、ソファで寝ている叔父が眉間に皺を寄せた。夢の中でも研究しているのだろうか……何だか起こすのも忍びない。声を出すのを躊躇いながら、僕はソファの傍らに座り、頬杖をついた。

(大人の、男の人の寝顔なんて初めて見たかも)

ふと、そう思う。

(……それにしても、気持ちよさそうに寝てるな)

眼前の男の寝顔を、僕は小さく笑った。叔父は40を超えている。目尻には皺があり、白髪交じりの、野暮ったい独身男だ。なのに、この無防備な寝顔はどうだ。大学で熱弁をふるう研究者でも、面倒見のよい叔父でもない。ましてや「夢」を見てれば大人ですらない。

口を小さく開け、健やかに呼吸する胸の動きを僕は眺めた。グッと顔を近づけて、その幼い寝顔を間近に観察する。

こんな寝顔の貴方を

(きっと、僕しか知らない)

カーテンが風に煽られて、影と光が交差した。

「──悪いなぁ、シュウ。……今日の飯当番、俺だったのに」

頭をかきながから、叔父は簡潔に、しかし酷く申し訳なさそうに言った。彼が慌てた様子で居間に現れたのは、あれから一時間後だった。

「いいんだよ、料理、好きだし。おかわりもあるからね」

僕の作ったハヤシライスとサラダを、一口食べるごとに「うまいうまい」と連呼する叔父は、罪の意識を抱いてるようだった。眉を八の字にして、叔父はおずおずと切り出した。

「いいのか?こんな夏休みで。どっか海にでも連れてってやるぞ」

空になった食器をシンクに置きながら、僕は首を横に振った。

「今年は大事な学会があるんでしょ?それに、ここの本を全部読み切るって野望もあるから」

読み掛けの文庫本を見せて笑うと、叔父も安心したように笑った。そっか、とズボンのポッケに手を突っ込んだ彼は、「ん?」と眉をひそめた。しかし、すぐに嬉しそうな顔をして手をだした。

「舐めるかい、シュウ」

叔父が取り出したのは、紙袋に包んだ飴玉だった。「最近よく舐めるんだよ、いい歳した男なのにな」と彼は悪戯っ子のように笑った。

その笑みに、午後の夏の影と光が脳裏に蘇った。



いらない、と呟いた声は掠れていた。



「苦手なんだ。──薄荷」

そう答えると彼は「そうか」と頷いて笑った。甘くないのは苦手なのかと、俯く僕を「子供」だと叔父は笑って、 緑色の飴を口に放り込み、ぼさぼさの頭をかいた。

飴を含んだその唇に、知らず知らず目が行く。

あの唇の味を、きっと、僕しか知らない。

そう思う自分の心に、僕は。

「今夜、花火大会があるんだ。好きだろう、花火。一緒に行こうか」

目の前の「男」を、可愛い「子ども」だと見誤ってる叔父の笑みに、初めて覚えた僅かな苛立ちに、纏わりつく不快な熱に、くらくらする。カンナの花弁が、闇夜の中でゆっくりと開いていく。清涼感が漂う唇の、白昼のキスが一層後ろめたくて。

僕は




飛行機雲が伸びていく。

僕はどこにも、行けやしない 。