たぶん、好きな人がいる。
駅前の小さなカフェ。金のドアノブに手をかけると、コーヒーのいい匂いとカランカランと軽やかな鐘が響く、居心地のよい店だ。
おそらくその店を経営している、名前も年齢も知らない男に、たぶん、僕は恋している。
「おそらく」としか断定できないのは、バイトらしい若い店員に指示を出したりしている様子を何度か見たことがあるぐらいで──落ち着いた佇まいや風貌から僕が勝手に決めつけてるに過ぎない。
つまり、彼と僕は「カフェの店員」と「客の学生」というささやかな接点しかないのだ。カウンターでコーヒーを焙煎してる彼は、接客をほぼせず、週に一度、ブレンドを頼む僕のことを、認識さえしていないだろう。
つまり、気づかれてもない片思いだ。
でも、それで良かった。
コーヒーを焙煎し、グラスや皿を拭く横顔を、カウンターから最も離れた席で、ページの進む気配のない文庫本を片手に、僕はちらりと彼をのぞき見る。
(……顔がタイプなんだよなぁ)
キラリと光る銀色のピアス。ハーフアップの黒髪が似合ってて、時折前髪がさらりと揺れて、一重の切れ長の目が、コーヒーをじっくりと焙煎する。無精髭も大人の色気を醸し出している。そんな姿を見るだけで、じんわりと心が満たされた。
この気持ちが、恋なのかも怪しい。ただ見てるだけで、素敵だなぁ、かっこいいなぁ、と思って、それで満足している。絵画を鑑賞してるのと同じだ。だから、僕の恋には「たぶん」がくっついてくるのだ。
それに、仮にこれが恋愛感情だとしても、自分なんかが人に好意を告げるなんて、そんなつもりもなかった。
(見てるだけでいい。傍観者でいいんだ、僕は)
今日も、僕は店の扉についている鐘をカランと鳴らし、若い女性店員の愛想笑いに小さく会釈しながらいつものテーブルに着く。
ガラス窓に面したその席は、僕のお気に入りの席だ。いつものように、ブレンドを頼み、僕は窓に映る風景に目をやる。
親子連れ、老夫婦、若いカップル、楽しそうにはしゃぐ学生服の群れ。
自分とは無縁の人々の日常風景が、こうしてガラス窓一枚挟んでみると幸福なドラマのワンシーンのようで、それを眺めながらコーヒーを飲むのが、僕は好きだった。名前も知らない、明日この道を再び通るとは限らない人々なのに、どういうわけか、それを見ながら、たまらなく幸せな気持ちになれた。
そう、「彼」のことも見てるだけで良かった。僕は傍観者でいることに満足していたから。
「午後から、雨らしいぞ」
頭上から声がかかり、僕はハッとする。振り返ると「彼」だった。客商売なのにタメ口なんだ、と驚きつつ、何も知らないのに、ああ、そうだ、この人はそういう人だったと知り尽くしているような気もした。
彼からコーヒーを受け取りながら、「……そう、なんですか」と僕はしどろもどろに応えた。
「ん、」と鼻をすこし鳴らす返事をして彼はカウンターに戻った。女性店員となにか会話しているのを横目で見る。
耳が熱い。気取られただろうか。たった一往復の会話なのに心臓が痛い。あの鋭い眼差しは、僕の気持ちを見抜いているのではないだろうか。恥ずかしい。気持ち悪がられる。もうこの店には来れない。動揺と緊張でコーヒーの味も分からない。どうしよう、どうしよう。
「悪いが、今日は閉店だ」
「……へ?」
二度も声をかけられるとは思わず、内容よりもそのことに驚いて、素っ頓狂な声が出た。カフェエプロンをゆったりと外しながら、彼はごくごく自然に僕の真向かいの席に着いた。
「この後用事はあるのか」
「あ、ありません」
「見たところ傘もないようだが」
「予報を見てなくて、すみませ……」
「俺もなんだ。雨が降る前に帰ろう」
矢継ぎ早の彼の発言に流されるまま、返事をし、僕はうっかり最後の台詞に「そうですね」と頷きそうになった。子どもの遠足じゃあるまいし……とさすがに冷静に脳内で指摘しながら、僕は口ごもりながら言った。
「い、いいんですか。お店は、そんな理由で、」
「趣味でやってる店だから、いいんだ」
彼の瞳に僕が映ってる。早く帰るぞ、と念を押され、気がつくと混乱した頭で、こくんと頷いていた。……でも、帰るって、一体どこに帰るというのだろう。
***
彼の名前は「タナカ」という。年は37歳。僕と17も離れている。僕も自分の名前と年齢を教えたが、ふぅん、と興味があるのかないのか、よく分からない返事をタナカさんはした。
道を歩きながら、僕と彼は、ぽつりぽつりと、互いの話をした。
僕は通っている大学の話を、タナカさんは自分の仕事の話を。
彼の本業はコーヒー豆の輸入業らしく、他の店に卸す以外にも自分の豆で自分の好きな味で出すためにあの店をやっているらしい。
その話が本当なら、なおさら真面目に商売しないといけないんじゃないかと思っていると、僕の考えが分かったのか、タナカさんはやはり鼻をフンと鳴らした。
(読めない人だ)
彼の目指す場所まで、彼の隣を歩きながら、僕は、彼の印象を目まぐるしく上書きし続けた。
「──いつも水曜日に来てるな。頼むのはブレンドばかりだが、好きなのか」
「気づいてたんですか」
店の片隅にいる僕を彼が認知してたなんて、驚きだ。目を丸くする僕を、彼は穏やかに見つめた。
「南米の豆を取り寄せている。ウチのはすこし柑橘系の匂いがするだろ」
「あ、そうです。実は、コーヒー、苦手だったんですけど、なんだか爽やかな酸味がかえって飲みやすくて」
僕の返答に、彼は黙って頷いた。その穏やかな瞳に僕は勇気を振り絞って、質問した。
「……あの、いつから、僕のこと、その、気づいてましたか?」
「あの席に──窓側の隅に座ってるから、気にしてたんだ」
「え?」
「あそこからは駅の往来が見える。俺も気に入ってる特等席なんだ」
変な会話だ。まるで噛み合ってない。だが、落ち着き払った彼の態度には自然と納得せざるを得ない感じがする。僕はこの不思議な会話を楽しみ始めていた。
そんな会話をしながら商店街を抜け、住宅街に入り、そして気がつくと、知らないマンションの前にいた。「一体どこに帰るのか」と疑問に感じていた正解がそれだった。
彼の部屋だ。彼の部屋に入るのだ。何か言わなきゃと思ったのに、何も言えなくて、そうこうしているうちに、彼がドアの前で止まった。
彼が、ちらりと僕を見た。仄かに、熱を帯びた瞳にどきりとする。
「──君さえ、良ければ」
緊張感を伴う静けさがあった。その静寂が、彼は僕をただの友人として招きいれるのではないのだ、と告げていた。
(そんな、まさか、でも……)
心臓の鼓動が煩い。彼の耳にも届いているのではと思うほどに、胸から弾け飛びそうだ。
タナカさんも黙っている。でも、その瞳は穏やかで、優しくて……怖いぐらい真剣に見えた。
僕は返事のかわりに、彼のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。
すくむ足を支えるように、彼のあの骨太な指が僕の背をゆっくりと押した。
電気もまだつけていない、冬の空気に支配された薄暗い部屋。まして初めて入る他人の部屋は一層不気味で、意図も分からず連れてこられたのなら尚更だ。
「タナカ……さん」
僕はその日初めて知った彼の名前を呼びながら、振り返った。
細い糸のような瞳にぼんやりと僕の輪郭が映っていた。
綺麗。鏡みたい。それとも氷のようだ。
もう少しで僕の姿がよく見えるのかもしれない。
そう思って近づくと、彼もまた距離を縮めた。そしてまた距離が縮む。彼の髪が僕の額に触れて、それから、それから。
「ん……!ふっ……」
気がつくとそれはキスになっていた。自分が彼と、タナカさんとキスをしている、と認識している頃には僕はタナカさんの指にいいようにされていた。髪をぐしゃぐしゃにかき乱され、背を壁に押しつけられ、あぁ、これはカウンターでコーヒーカップを丁寧に拭うはずの掌なのに、と思うと余計に感じてしまった。濡れるはずのない体が全身ぐちゃぐちゃに濡れて、僕の喉から変に甘い涙声があふれた。
「ふっ……んっ……っ!」
彼の唇が僕の肌をなぞり、僕の全てが暴かれていく。恥ずかしい、怖い、どうして、と脳内で叫びそうになりながらも、僕はその手に絡みつくように手を重ねた。
その瞬間、好きだ、と思った。
「たぶん」じゃない。この硬い手が、薄い唇が、熱っぽい吐息が、好きだ。肌と肌が擦れる度に、何度も、この人が好きだ、と思った。でも、声に出したら途端にこの乱暴な夢が溶けてしまいそうな気がして、僕は唇を噛みしめた。
(……声をかけたその日に寝るなんて、どうかしてる……)
でもそれは、彼だけでなく、僕にも言えることだ。僕は、この展開を自然に受け入れてる僕自身に何よりも驚いていた。
ごくごく平凡で、どちらかというと影が薄くて大人しい僕が、こんなことするなんて。「お前は真面目すぎる」と友人に揶揄されたことは何度もあるけれど、もしかしたら、僕はちっとも真面目じゃないのかもしれない。
(傍観者でいるはずだったのにな……)
不謹慎で、不道徳で先が読めないものに自ら飛び込む勇気はないけれど、そういうものが、つまらない僕の日常をさらってくれるのを、ずっと待っていた気がする。
今日、名前を知ったばかりの年上の男の部屋で、裸になってシーツの上で転がっている。初めて感じる腰の違和感や痛みは、きっとこの悪くてマトモじゃないことの罰だろうに、ちっとも嫌じゃない。
タナカさんの寝顔を見ながら、僕はそんな自分の正体に気がついた。
タナカさんの顎のラインを、僕はそっと撫でた。それから、肩までの黒髪を、無精髭も目尻のシワ
も。
僕の指が、さっきまでキスしていた薄い唇をなぞると、彼がまたフンと鼻を鳴らした。寝ているのにその癖が抜けないんだと思うとなんだか可笑しかった。
そういえば、タナカさんは雨が降るはずだと言っていたのに、その日は結局雨なんて降らなかった。
***
最初がそんな風だったから、彼が突拍子もないことをするのに慣れてきた。
閉店時間が日によって違うのも、客がいない日は僕の真向かいに座って「その本おもしろいか」と問われるのも、雨が降らないのに降るかもしれないと言われて彼の部屋に連れて行かれるのも、そうして、大人の男の匂いに包まれて眠るのも、嫌じゃなかった。
刹那的に始まったから、ある日、唐突にこの関係が終わるんだろうと予感しているのも良かった。そんな終わり方も、不謹慎で、不道徳で、刺激的だ。タナカさんとの秘密で先が読めない関係性を、僕は面白がっていたのだ。
タナカさんが僕を抱く理由が分からないのと同じように、きっと彼が僕を飽きる理由も分からないまま終わるのだろう。それは不真面目な僕が待ち望んでいた「未知」そのものだったから、僕はこの関係性に満足していた。
・・・・・・ただ、一度くらいは。
「なにを考えてる」
気がつくと、やはりカフェエプロンを外した彼が僕の真向かいに座っていた。表情のあまり変わらない、けれど穏やかな瞳に見つめられても、僕は最初の頃のようにどぎまぎしなくなっていた。
「今夜は雨が降らないのかなって」
そう微笑むと「今夜は降らないらしい」と彼は応じた。そして「花火を見に行こう」と唐突に言った。
「花火?冬ですよ」
「冬でも海岸沿いでやっている。空気が澄んでて綺麗らしい。だから今夜は雨が降らない。行くぞ」
相変わらず会話が破綻してる。降雨の条件付けとしては変な文章だが、生真面目な顔で言われるとそうなんだろうなといつも通りに流されてしまう。
僕の返事を聞かずに彼はカウンターに戻り、女性店員に何かを告げた。ラッキー!と喜びながら、からかうような呆れたような表情を僕に向ける彼女の視線に、ほんの少しだけ居心地の悪さを感じた。
電車に乗って5つ目の駅。冬の花火なんて、と思っていたのに、花火会場行きの電車に乗り込む客は増えていく。
楽しそうなカップルや家族連れの笑顔を見ている内に、僕は突然、もやもやした気持ちに襲われ始めた。
ガラス越しに見る群衆の姿は微笑んで見れたのに、その中に自分がいるのは奇妙な感じだ。
彼等はきっと、花火を大切な人と見るのだろう。
それはとても「正しく」、「普通」で「当たり前」の幸福だ。
でも、僕は……僕たちは、どうだろう。
僕は傍観者だったはずなのに、幸福な人々の中に放り込まれた途端、自分がどうしょうもなく、「異物」であるような不快感に襲われた。
僕は僕よりも背の高い男の服裾を掴んで、その顔を見上げた。
「タ、タナカさん、あの」
帰ろう、と言いたかった。帰りたい。帰らなくちゃ。僕の言葉に、もしも、彼が「なぜ」「嫌だ」と応えたら「別れましょう」と切り出したいとさえ思っていた。
だが、僕は思わず口をつぐんだ。
そもそも僕たちは「普通に別れられる」「普通のカップル」のように「普通につきあっている」のだろうか。だって、彼は一度も、僕に──。
「ん?」
とタナカさんが小首を傾げた。その顔に、僕はうまく言葉が出ず、俯いてしまった。
結局、電車は幸福な人々を乗せて、花火会場に止まってしまった。人の流れに乗っていけば、初めての街でも目的地へとスムーズに足は進んだ。
夏と違い、屋台もでていない。ただ人々の顔は夏の興奮はなくとも、穏やかな幸福に包まれている。肩を寄せ、手を繋ぎ、美しい花火を愛しい人たちと見るために。
その中で僕だけが彼の手を掴めない。彼の顔はまっすぐ前を見ていて、少し後ろを着いて歩く僕からはその顔も見えないままだ。
***
花火は海上に浮かぶ船から打ち上げられるらしい。冬の真っ暗な海の前の砂浜は、夏ほどではなくとも花火を待ちわびる人が集まっていた。人々は空を見上げているのに、僕は真っ暗な海に、妙な胸騒ぎを覚えていた。
姿がなくとも、ざざんざざんと呻くような潮の音。何かがやってきて、飲み込んで、戻り、現れる気配。過去と未来が揺れては溢れ、僕にまとわりついてくる。陽光に照らされた海とはかけ離れた海の姿に、僕のからだが震えた。
「寒いか」
タナカさんが尋ねた。僕は首を横に振った。
「もう少しで始まる。大丈夫か」
妙に優しいことをいう。少し躊躇って、黙ったまま、彼の言葉に頷いた。そうか、と彼は言った。
「タナカさんはコーヒーが好きなんですか」
「たぶんな」
「花火も好きなんですか」
「あぁ」
「なら夏にいけばいいのに」
「夏の花火はいやだ。うるさいし、暑いし、下品だ」
「それじゃ」
僕の息が白く空気に溶けた。
「タナカさんは、僕のこと、好きですか」
花火がまもなく上がるアナウンスが、流れた。期待に溢れる声が会場のあちらこちらから聞こえた。その声に紛れてタナカさんがゆっくりと応えた。
「わからない」
その横顔はいつもと変わらない。雨が降るかもしれない、とか、今日はいい豆が入ったからとか、花火を見に行こうと言った時と、彼の表情は同じだ。
僕は、彼の返事に「そうですか」と応えた。
僕のこと、好きですか。
わからない。
──そっか。
好きじゃなくたって良かった。そう。いいんです。だいたい、あなたに部屋に招かれてフラフラついていって、だらしがない人間だって思われてるかなって、ずっと思ってたんだ。だから、いつ終わったって良かった。僕はつまらない人間だし、僕だって僕のことよく分からなくて、タナカさんのことも本当はどう思っているのか分からなくて、だけど。
(誰に、なんの言い訳してるんだろう、僕は)
コンバースのスニーカーの爪先を見つめながら、僕は僕の胸からあふれ出す言葉が浮かんでは消えた。それは唇から紡がれ、タナカさんに伝わることはない。
彼はまっすぐに空を見ている。手と手は触れあうほど近いのに、繋がることはない。
いつのまにか、タナカさんのことをこんなに好きになってしまったんだと思うと、たまらなく寂しい気持ちになった。
「──わからないんだ」
タナカさんが再びぽつりと言った。僕は街灯に照らされた砂浜を見つめながら、その低くて優しい声を聞いていた。
「君が店に来るたびに気になってた。水曜になるのが待ち遠しくなって、でもどうしてそう思うのかが、今もわからない。君を見てるだけでよかったはずなのに──ここにどうして君を誘ったのかも」
誰になんの言い訳をしてるの、とツッコミながら、僕は少しだけ可笑しかった。
冬の寂しい花火をわざわざ一緒に見ようと思う幸福な人たちで集まるこの場所で、曖昧で不明瞭な気持ちを抱えた男が二人、立っている。
僕たちは不器用で、口下手で、ほんの少し世間となにかがズレている。でも、彼と僕の気持ちはお揃いだった。それが、恋では、ないとしても。
「タナカさん」
僕が顔を上げると、彼が僕を見つめているのに気がついた。──変なの。大人なくせになぜそんな泣きそうな、怯えるような顔をしているの。でもきっと僕も彼と同じ顔をしている。離れていても、ささやかな接点しかなくとも、僕と彼の寂しさの形は誰よりも似ているのだ。
わからないなら、わからないままでいい。
後悔してるのなら、さよならという4文字で済ませばいい。
真っ暗な海から炎の矢が放たれ、冬空に放射線が放たれるその瞬間、僕は、彼の手を掴んだ。タナカさんがハッとしたように僕を見た。
僕は彼に初めて、たったひとつ、ずっと口にしたかったことを、ねだった。
好きじゃなくていい。ここでなにもかも終わらせたっていい。あなたになら、なにをされても、どう捨てられても、いい。
でも、せめて、一度は。
「笑って、タナカさん」
僕の願いに、タナカさんは。
せっかく見に来たというのに、美しく咲いているはずの冬の花火は、音だけしか聞こえなかった。
それでよかった。僕はずっと、その人の優しい顔を目に焼き付けていたいと思った。



