たかが4歳差。されど4歳差だ。
お隣さんの「兄ちゃん」はいつまで経っても、4歳年上のままだ。そもそも4歳というのがいけない。
俺が中学にあがる年に「兄ちゃん」は高校生、俺が高校に入学すれば「兄ちゃん」はとっくにいない。家族ぐるみで仲がいい幼馴染だといったって、手を繋いで通学路を歩いてくれた思い出があったって、やっぱり4年分の空白はどう足掻いたって埋められなくて。
でも今年は、ちょっとした奇跡が起きる。
高校3年の春、「兄ちゃん」が俺と同じ教室にやってくるのだ。──教育実習生として。
「せーの……千景せんせー!」
女子高生たちに呼ばれて、「兄ちゃん」が振り返る。高身長で顔がちっちゃくて、アイドルみたいに綺麗な顔で──それでいて年上なのだ。しかもスーツを着てる。周囲の男子学生を霞ませるこの高スペックな存在を、彼女たちが放っておく訳がなかった。
「ん?どうしたの?」
「えっと、さっきの問題なんですけどォ」
「あっ、それ、ユイも分からなかった!」
「あぁ、これね。これは公式の──」
ノンフレームの眼鏡で柔らかく微笑む姿に、キャッキャッと笑いながら、彼女たちは、数学の教科書やらノートやらで「兄ちゃん」を包囲する。他の教科もそれぐらい熱心にやれよ、と心の中で悪態をつきながら、俺は頬杖をついた。
「──俺、来年、母校に実習しにいくからさ。遥斗のクラスだったら嬉しいな」
「兄ちゃん」からそれを聞いた時から、その日をずーっと待ちわびていた。嬉しいどころの騒ぎじゃない。それは奇跡だった。18歳の俺の教室に、22歳の教育実習の「兄ちゃん」がくるなんて。
「兄ちゃん」が黒板に字を書いてる姿にいちいち感動した。「兄ちゃん」が俺と同じ数学の教科書を持ってる!って興奮した。まるで、叶うはずのない青春を共有できてるみたいで、最高に幸せだった……はずだった。
教育実習の2日目、「兄ちゃん」が授業中に、俺を当てるまでは。
「えっと、じゃあこの問題を……佐和山くん、お願いします」
……佐和山くん?
遥斗じゃなくて?
大体、なんで敬語?
「兄ちゃん」に褒めてもらいたくて予習までしてきたのに、俺は咄嗟に「……わかりません」と答えていた。「兄ちゃん」が申し訳なさそうな顔を一瞬だけして、「そっか。じゃあ、えーと……他の人に挑戦してもらおっかな」と笑った。
その日は1日中、その記憶が繰り返し繰り返し頭の中に流れ続けた。
「えっと、じゃあこの問題を……佐和山くん、お願いします」「……わかりません」「そっか。じゃあ、えーと……他の人に挑戦してもらおっかな」「えっと、じゃあこの問題を……佐和山くん、お願いします」「……わかりません」
延々と流れる、つまらないショート動画を振り払って、俺は気を取り直した。
どうせお隣さんだ。実習中は実家に帰省中の「兄ちゃん」に会いに行けば、こんな寂しさなんか吹っ飛ぶはずだった。でも、予習やら報告書やらに追われてる「兄ちゃん」は毎晩遅くに帰宅してるようで、なかなか会えそうになかった。
目と鼻の先にいるのに、別の同級生に囲まれて笑ってる「兄ちゃん」は、俺は遠くから見つめるだけで。
宿題教えてイベントも、帰りにコンビニでお菓子買ったり、補導にバレずにカラオケやゲーセンに行くことも、なんにもないまま、2週間経った。
「遥斗くんも書いてね。千景先生に、色紙」
教育実習も明日で終わるという放課後、既にカラフルに書き込まれた色紙が俺の元に回ってきた。
ぽっかり空いた小さなスペースが、埋まらない4年分の時間みたいだった。
俺はボールペンを、ゆっくりと走らせた。
物心ついた時から好きだったんだ。俺よりも勉強もスポーツも出来て、優しくてかっこよくて、憧れで。いつの間にか弟でも親友でもなくて、恋人になれたら、って思うようになってた。
好きだよ、ちか兄。
(……言えるわけ、ねぇよ)
汚い字で「ありがとうございました。 佐和山」とだけ書いて、俺は色紙をクラスメイトに返した。
実習最終日、体育館に集められ、実習生たちがスピーチをした。「千景先生」は最後にスピーチをした。スマートで当たり障りない内容だったけど、兄ちゃんらしい、温かな内容だった。俺は自分の上履きをジッと見つめながら、体育館に響く拍手の音を聞いていた。
そして、いつもの帰路を、いつものように一人で帰った。
小学校入学したての頃、怖くて不安で泣きじゃくる俺の手を温かな掌が包んで、この道を一緒に歩いてくれた。
慣れた道程が、染み込んだ孤独が、今日は妙に寂しく感じた。歩いても歩いても、いつまでもたどり着けない錯覚に陥る。
「遥斗」
兄ちゃんにそう呼ばれたのは、いつ以来だろう。
群青色の空にオレンジ色の夕日が鈍く光っていた。スーツ姿の、年上の幼馴染が、俺の家の前に立っていた。
なんでこんな早くに帰ってるんだよ。あ、そっか。実習が終わったから。でも打ち上げとかなかったんだろうか。いや、そんなことより、なんで俺の家の前にいるんだろう。
「やっと実習終わったから、もう『佐和山くん』も『千景先生』もナシな」
困惑する俺に、4つ年上の男は、いたずらめいた瞳で笑った。手にはあの色紙と花束を持っている。
「あと1年だよな、遥斗が卒業するの」
「え、あ、う、うん」
それまで待っててくれるか、と尋ねた声に、俺は暫く反応できなかった。
「なにそれ」
かろうじて出たのはそれだけだった。「兄ちゃん」は、ヤレヤレって顔をして、笑った。
「長い付き合いなんだから分かれよ、それぐらい」
分からない。分かるわけがない。
だって、こんな奇跡みたいなこと、あっていいんだろうか。
顔を手で覆って涙をこらえる俺の頭を、ずっと昔の思い出と同じように、兄ちゃんの掌がぐしゃぐしゃと撫でてくれた。



