幼馴染の史は、「擬涙病」の患者だ。
「涙に擬える病」──何百万人に一人だとかの珍しいその病は、涙のかわりに別のものが溢れてしまうのだ。
ある者は白いクチナシの花弁がひらひらと、
ある者はまだ誰も見たことがない文字の羅列が。
涙のかわりに「異物」が流れていく、原因不明の病だ。
──で、史の場合は、厄介なことに「真珠」なのだった。
目尻からとろりと乳白色の液体が溶け出すと、熱で固められた硝子みたいにまあるくなって、ころんと落ちる。形は歪だが、真珠だ。
それならコイツをいじめにいじめぬいて大泣きさせて一儲けしたいところだが、肝心なことに史はめったなことで泣かないのだ。
そう、史が泣かなくなったのは、俺のせいだ。
「もう泣きたくないのに、こんなの、嫌だ……助けて、隼ちゃん……」
史が「擬涙病」を発症したのは、6歳の夏だった。
外にも行けず、部屋に閉じこもってた史の足元に真珠が幾つも転がっていた。
柔らかな頬を宝石が擦れて、史の肌は赤く腫れていた。泣きじゃくる史の、短い呼吸が子供部屋に響いていた。
史の両親が離婚したこと、クラスメイトにいじめられたこと、史の悲しみと苦しみを小さな球体が閉じ込めて、無機質に光っている。
「泣けばいいじゃねぇか、いっぱい」
背負っていたランドセルを下ろし、俺は床に散らばった真珠をかき集めた。絶望で目を見開く史の目尻にまた、真珠が一つきらりと輝く。
「海にでも捨ててこようぜ、史。こんなもん」
ザッザッと片手で放り込みながら俺は、ぶっきらぼうに言った。
夕焼けが溶けた波が、テトラポットに当たっては砕けた。用心深く、片足をテトラポットに乗せて、俺はランドセルの蓋をそっと開けた。そして、腕をブンッと振った。
淡い光の粒たちが一瞬だけ、宙に静止し、水平線と重なった気がした。だが、そのまま、海にパラパラパラと音を立てて、真珠たちは沈んでいった。
「……ありがとう、隼ちゃん」
俺は振り返った。あんなに嬉しそうに笑う史を、俺は初めて見た。ランドセルの底に残っていた真珠が一粒、転がり落ちて、小さな水音を立てた。
史はあの日から一度も──少なくとも俺の前では泣いていない。
そのかわりによく笑うようになった。いつしか周囲も史の「奇病」を忘れた。あの日、海に大量の「涙」を投げ捨てた俺以外は。
「もったいないことしたよな、今思うと」
「何言ってんの、隼ちゃん」
自販機から、ガコンと音を立ててペットボトルが落ちてきた。グラウンドが陽炎で揺らめいている。微かに吹奏楽の練習が聞こえていた。
「あれだけあれば今頃、億万長者だったのにな。──今からでも遅くはないんじゃねぇか?勿論、山分けで……」
身長が俺よりも10センチも高くなった、17歳の史を見あげながら、俺はニヤリと笑った。毒々しい色の炭酸飲料を飲み、史は小首を傾げた。
「うーん。それはどうだろ。宝石としては出来が悪くて価値がなかったみたいだよ」
「マジ?」
「だから悪巧みはしないでね、隼ちゃん」
「ちぇ。まぁ、しねぇけどさ」
俺がそう言うと、史は目を細めた。あの笑顔だ。身体ばかりでかくなるくせに、その笑顔だけはいつまでも幼い。俺が史の「涙」を利用しないことをちゃんと知ってて、俺の何もかもを信用してる、ガキの笑顔だ。
この笑顔を見ると、どうも胸の奥が痛い。俺はフン、と鼻を鳴らしてペットボトルのキャップをひねった。夏の空にシュワっと甘い飛沫が飛んだ。
高校三年間は、そうやって史と過ごした。
卒業後、史は地元に残り、俺は東京の大学へ行った。
夏と冬には故郷に戻り、史のあの笑顔で迎えられた。
史の知らない、バイト先やゼミの仲間の話を俺がする時も、史はずっと笑って聞いていた。
東京の会社に内定したと話した時も、
初めて彼女ができたんだと話した時も、
ずっとずっと、史は楽しそうだった。
東京に出て十年後、よく高校時代に2人で通っていたファミレスに、俺は史を呼び出した。
「テスト終わるたびに来てさ、ドリンクバー、全部制覇しようってやったの覚えてるだろ?」
「そうだったね。懐かしいな」
ダークグリーンのセーターを着た史は静かに微笑んでいた。史と向き合って座ってるのがなんだか落ち着かなくて、俺は変なテンションだった。昔話を次から次へと話して、史はそれを笑顔で聞いていた。
「でさ、史、これ」
俺は、結婚式の招待状を、テーブルにスッと置いた。さっきまであんなにはしゃいでいたのに、何故か、それ以上何も言えなかった。気まずさと、後ろめたさがあった。
テーブルに置かれた白い封筒と、『ストロベリーフェア』と華々しく書かれたメニュー表を見つめながら、俺は史の言葉を待った。
ころんと何かがテーブルに転がった。
乳白色のまあるい球体が、ゆっくりと転がって、俺の指に当たった。
「ふ、み……」
「見ないで」
史は、自分の顔をばっと覆った。隠しきれなかった唇を強く噛み締めて、史の肩が小刻みに震えていた。
──ごめんね
鼻水と涙混じりの声が、かろうじて言葉を作った。それから、幸せになってね、と声を震わせて、史は席を立った。軽快な電子チャイムと共にドアが開くのが見えた。
テーブルに残った真珠を、俺は呆然と見つめていた。
史とはそれ以来、会っていない。
史の母さんに、海外に留学に行ったのだと、一度聞いた後、何年も史の音信を聞かないでいる。それが本当かどうか確かめるのも怖かった。その資格もないと思った。
(海にでも捨ててこようぜ、史。こんなもん)
真珠を海に捨てた日、史はどうして笑ったりしたんだろう。
(……ありがとう、隼ちゃん)
あんな片手で投げ捨てられるだけの、それっぽっちの悲しみのはずがなかったのに。
それとも、俺の知らない間に、史は一人で海に「涙」を捨てに行っていたのだろうか。
史の頬からまあるい光が溢れて、ぽちゃりと水面に落ちていく。遥か遠い異国の海でも、史は真珠を捨てているのだろうか。その時、誰かが史の隣にいてくれたら。俺ではない、俺よりも優しい誰かに。
あの時の「涙」が、史の熱を閉じ込めたまま、俺の机の引き出しで静かに輝いている。



