天使の専属料理人

 七月十四日
 ♢
 高校3年生になって、だいたい3ヶ月経つ。
 7月中旬。
 期末試験も終わり開放感に満ち溢れた高校は、夏休みに向けて予定を話す声が増えてきた。
 俺も高校生活最後の夏休みにしては地味で、でも平和な夏休みを迎えるはずだった。
 唯一の男子部員としてクッキング部の活動を少ないながらエンジョイし、家に帰ったら好きな料理を同居している祖母に振る舞う。
 そんな”平和な”夏休みのはずだった。
 少なくとも、その日の放課後までは。

 「小辻くん、ちょっと来て!」
 俺はいつも通りクッキング部の部室、つまり家庭科室で新作のカップケーキ作りに勤しんでいた。
 「どうしたんですか。」
 目の前で調理器具を手入れしていたはずの部長が、内線電話を肩で器用に挟んで俺を手招いていた。
 「いやぁ、俺もよくわかんないんだけど…」
 内線電話を持ち直し、それを指差す。
 「職員室から電話。至急応接室来いって。」
 __なんかやらかしたっけ?
 最近の行動を振り返ってみるが、それらしいことは見当たらない。
 「小辻くんやらかしたの〜?ウケる、意外!」
 奥で炒め物をしている同い年の女子部員に囃し立てられるが、俺は首を傾げる。
 「え、俺は行ったほうが…?」
 「そう。もう開き直って怒られちゃえ!男出せよ〜!」
 部長にバンと肩を叩かれ、俺はその勢いに乗せられて部室を出た。

 本当に心当たりはない。
 進路相談にしては時期が早いし、保護者が来ている様子でもない。
 首を傾げながら職員棟へ向かう。
 案内された応接室の扉を開けると、中には見知らぬ女性が座っていた。

 年齢は三十代くらいだろうか。
 きっちりとしたスーツ姿で、仕事のできそうな雰囲気をまとっている。
 「初めまして、小辻さん。」
 女性は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
 「私は日比谷セナのマネージャーをしています。」
 その名前を聞いて、思わず目を瞬かせる。

 日比谷セナ。
 学校中で知らない人はいない有名人だ。
 モデルとして活動しながら、うちの高校に通っている。
 整った顔立ちと人当たりの良さから、『天使』なんて呼ばれている存在だった。
 確か文芸部員で、詩を描いていたはず。
 そんな人と俺に、何の関係があるんだろう。
 「突然で申し訳ありません。本日は小辻さんにお願いがあって参りました。」
 「お願い……ですか?」
 「はい。」
 マネージャーさんは一枚の資料を机の上に置いた。
 「小辻さんはクッキング部に所属していて、料理が得意だと伺っています。」
 「まあ、一応……」
 曖昧な返事を返す。
 あまりにも遠い世界の人が目の前にいて、視界がくらくらしてきた。
 「実は日比谷の食事管理を手伝っていただける方を探しているんです。」

 意味が分からなかった。
 「食事管理?」
 「昼食と夕食を作っていただきたいんです。費用はこちらで負担しますし、報酬もお支払いします。」
 ますます意味が分からない。
 なぜ高校生の俺が。
 なぜ日比谷セナの。
 「どうして俺なんですか?」
 当然の疑問を口にすると、マネージャーさんは少しだけ困ったように笑った。

 「料理ができる男子生徒だからです。」
 「男子……?」
 「女性ですと、様々な問題が起こる可能性がありますので。」
 その言葉で何となく察した。
 日比谷セナは人気者だ。
 ファンも多い。
 距離が近ければ、特別な感情を抱く人もいるだろう。
 「作っていただいた食事は学校へ持参していただき、私が受け取ります。その後、日比谷本人へ渡します。」

 つまり直接会う必要はないらしい。
 少しだけ安心した。
 正直、学校一の有名人と関わるなんて想像もつかない。
 多分俺に頼んだのは、同じ学校の生徒だから受け取りもしやすいからだろう。
 「もちろん無理にとは言いません。」
 マネージャーさんはそう言って頭を下げる。
 「ですが、ぜひご検討いただけませんか。」
 俺は机の上の資料と、目の前の女性を交互に見た。
 夏休み前の平凡な一日は、どうやら思っていた方向とは違う形で変わろうとしていた。