くだん姫

「どうやら、褥は共にしていないようだな」
 ぬれ縁をささめの控えの間の前まで来て、宗員は息をついた。
「・・・下品な物言いはよせ」
「ははは。おぬしだとて、気になっておるのだろう?」
 幸氏は否定しなかった。
 夜はふけて、いま、館は寝静まっている。嵐は過ぎ去り、雲の合間からわずかに月がのぞいている。
しずかだ。
嵐は暑気もぬぐい去ってくれた。暑さもじき、終わりを迎えるのだろう。
 迷いながらここまで来てみた。もしもささめが許嫁と肌を合わせていたりしたら、立ち直れなかったかもしれないとも思う幸氏だった。姫さまからの宣告にどこか反発しながら、まったく、複雑な心境だ。
 運命を告げた日の姫さまの、どこか嗤うような、試すようなまなざしが脳裏をよぎる。
 姫さまの予言のままに、すでに己れは彼女に心を奪われているのだろうか? 
 いや、そこまでの恋着はない。ない、と思う。きっと気にかかるのは、彼女が自分たちと同じ運命を背負っているからだろう。
 くだんのしもべの生涯は、過酷だ。人の世にあっては肉親の縁が薄く、異形の者たちには命を狙われ、それでいて自分のすべてはくだんを守るためにある。くだんの命令には絶対服従、逆らいたくても逆らえない、そのように生まれてついているのだ。だから、しもべたちの結束は固くなる。しもべにあるのは主君と同輩だけだから。
「早く動かないと、取り返しがつかなくなるぞ。あの男が死人ならささめどのの命が危ない。死人でないなら、婚儀をあげてしまう。・・・死人ならばおぬしが斬れば冥府へ追いやれる」
「死人でないなら?」
「奪い取れ」
 宗員は強引な性格そのままに、親友をけしかけた。
「手荒なことは、彼女を傷つけはしないか」
「見ているだけでよいのか。いまなら時定どのにも迷いがあるし、いくらでも対応はある。あまりぐずぐずしていると、横から他の男に奪われてしまうからな」
 幸氏はつめたいほど沈着なまなざしを宗員へ投げた。
 だれのことを言いたいのやら。
「彼女を気に入ったのか?」
「気に入っているとも。わしの切ない胸の内を思いやってくれるなら、さっさと態度をはっきりしてほしいものだ」
 あいかわらず食えない男だ。そのまま宗員はおもしろそうに指摘した。
「懐に何を隠しておる。ささめどのへの貢ぎ物か?」
昼間、幸氏がふらりと市へ出かけたことを宗員は知っていた。
幸氏のふところには、小さな匂い袋があった。
「・・・ただの魔除けだ」と無愛想にこぼす。
この緊迫の夜に、ささめへ渡せる機会はないかもしれないが、彼女のために、何か、してやりたいと考えたものだった。
まさかの行動力に、宗員が言葉を選びあぐねていると。
 ばさばさと鳥の羽ばたきが割り込んだ。闇から抜け出たように黒く濡れた羽の烏が、宗員の肩へ舞い降りる。
「戻ったか」
 烏は、時尚の房室を見晴らせていた宗員の使い。標的の姿を見失ったがために舞い戻ってきたのだ。呪術で作り上げられた使いの目を逃れるとは、まっとうな人間にできる芸当ではない。
 ご苦労、と小声でつぶやくと、烏の姿はふうっと揺らいで闇に溶けた。
「決まりじゃな」
 時尚は、人ではない。
 いや、もはや、人ではないというのが正しかろう。
 かつて彼であったもの。死者の辿るべき道を拒絶して地上へ執着する罪人。そう、彼は罪人だ。どんなあやかしに入れ知恵されたものか、地上へ留まる術を得て。
 罪を望むのは、ささめへの想いゆえか?
 天の理に逆らうからには、なまじかな執着ではあるまい。
 捕らわれれば、ささめは徐々にその生気と霊力を奪われ、遠からず死に至るだろう。
 無理にでも引き離し、罪人は冥府へ送りつけなければ。
 それが、どんなにささめを傷つける結果になったとしても。
 我らは、彼女の大切なものたちを奪うしかできない。今度こそ、恨まれ憎まれるだろうか。
 幸氏はしずかに頷くと、そのままささめの控えの間の戸を叩いた。


◇ ◇


 奥州での激しい戦。
 源頼朝の異母弟であり、平家追討の功労者であった義経が、最期に頼った地。
 一度は匿われた義経だったが、奥州藤原氏は義経を排除した。鎌倉の脅しに屈したのかもしれないし、義経に奥州を乗っ取られるという昏い猜疑心があったのか。
 義経を一度は匿った奥州を、けれど頼朝は赦さなかった。
 西の朝廷とつながりの強い奥州藤原氏は、頼朝にとって脅威でしかなかった。
 義経の処遇を巡り奥州藤原氏は内部分裂を起こしていた。攻めるには絶好の機会だったのだ。
 北条氏も、総領家の時政をはじめ、主要な者たちが出陣した。時尚の従兄弟でもあり、仕えてもいる北条義時も先陣に名を連ねていた
 平家がいなくなったいま、大きな戦はこれで最後かもしれない。
 時尚にとっても、戦功をあげる、大きな好機だった。
 有利な戦だったはず。
 しかし、奥州の抵抗は激しかった。
 敵将の誘いに、時尚は乗ってしまった。乱戦となり、北条の陣は崩れていた。大物の首を狙って、時尚は戦場を駆けた。
 深く、深く、敵陣に入り込んで、そしてーー。
 無謀な深追いに気づいたとき、もう、遅かった。
 一騎だけになった時尚は、敵にかこまれ、馬を矢でつぶされ投げ出される。
 戦の歓声が、一瞬、遠くなった。
 敵の太刀が、深く、腹部を貫いた。激痛。
 口から、血が吹いた。
 敵兵が狂気のまなざしで時尚を見下ろし、馬乗りになっていた。首を狙われるのは、時尚となった。
(ささめーー)
 刃が首元に充てられようとしたとき、どしゅっという鈍い音がして、敵兵は時尚の上に崩れ落ちてきた。
「時尚どのっ」
 味方の兵が、敵兵を討ち、排除した。時尚を覗き込む。
「――もう・・・遅い」
 それだけ、つぶやくのが精いっぱいだった。
 腹部の傷は致命傷だ。痛みと苦しさ。もがくしかできない体。
 涙が滑り落ちた。
 痛みでも恐怖でもない。もう、伊豆へ戻れないことを悟ったことへの・・・
 すさまじい断末魔を味わいながら、時尚は意識を失った。


 闇の中にいた。
 子どものころからの記憶を追っていた。
 ささめの姿ばかりを見ていた。
 あの子が生まれたときの、小さな手。時尚が触れると、やわらかな赤子の手で、時尚の指を握った。
 守りたいと思った。ほのかな、慈悲の心。
 透明な無垢な赤子の目。そのまなざしに、囚われた。


 時尚と、かがりと、ささめ。
 共に北条の四季を巡った。まわりには、他の子どもたちもいたが、ささめが他の子どもに興味を示すのが不愉快だった。
 おれのものだ。守るのはおれだ。
 ささめはどこか、他の子どもとちがった。
 しんとした雰囲気を纏って、きれいで、きれいで、きれいで。
 笑うと、まばゆく陽がさすような。
 意味もなく、傍に在るのがここちよい。
 巡る四季のなかで、軽やかに笑い転げる子ども時代。
 ささめの関心が他の子どもに向くのが赦せなかった。
 他の子どもがささめに関わろうとすれば、容赦なく排除していた、あのころ。


「あにうえ。ささめにこれをあげたら、よろこぶかな」
 妹のかがりが、小さな櫛を手にしていた。祖母からもらった漆塗りだった。子どもには高価すぎるものだった。
「――よろこばない」
 きっぱりと、言い切った。
「なんでえ?」
 泣きそうになるかがり。わがままと愛着でささめを振り回すこの妹が、時尚は鬱陶しかった。
「あのな、ささめはおまえがキライなんだよ」
「うそっ。いつも遊んでるもんっ」
「嫌々つきあってくれてるんだよ。ささめがやさしいから」
「ちがうもんっ」
 妹は泣き出した。
 時尚は、かがりの頭をぽんぽんと叩いた。
「いいか、きらわれているんだから、おまえは無理に近づくな。ささめがかわいそうだろう」
「あにうえはいいの?」
「いいんだよ。ささめは、おれが好きなんだから」
「うそだー。あにうえばっかり、ずるい」
「うそじゃない」
「いいもん。かがりは、仲間はずれになんか、ならないから。あにうえと、ささめと、ふたりっきりになんて、ぜったいしないから」
 おさない妹が意固地になっていくのを、感慨もなく、眺めていた。


 ある日ささめが、熱を出した。
 寝込んでいた。
 ささめの慰めに、好きな花を集めようと思いついた。
 なのに、先に花を集める少女を見つけた。赦せなかった。
ささめがほんの少し「あの花がきれいね」とつぶやいただけで、あの子はそれを忘れなかった。ささめに取り入ろうとしている。
激流が渦巻く川の縁。命の危険も顧みず、河原で手を伸ばしていたその子どもの背を、推した。
 あっけないほど、簡単に、その子は川へ落ちた。
 流れていった。
 少女を押した手をじっと見つめて、もう、戻れないと悟った。
 

 二親を失い、屋敷に引き取られたささめ。
 憔悴していた。
 毎夜、眠るまえに手をにぎった。独りにしないと誓った。
 ささめが喜ぶことばかりを探した。
 家人が、ささめを不吉に思っていることなど、どうでもよかった。
 まわりに不幸が多すぎる?
 いいじゃないか、ささめが不幸でないのなら。
 だれもが、ささめを避けるなら、かまわない。ささめは自分のものなのだから。
 

 ささめを嫁にしたいと告げた。父は黙り、母は眉をひそめた。
 ささめの相続する土地が手に入ると、交換条件を示して説得した。父母はしぶしぶ認めた。
 かがりが騒いでいたが、気にする必要もなかった。
 ずるい、ずるい? ずるいって、なんだ。
 おまえは、ささめを手に入れるために、何か、したのか。
 おれはこの手を汚しても、ぜったいにあの手を離さない。
 

「ご武運を」
 見上げるささめの目が、うるむ。
 いくつになっても、きれいな目。
 きれいなものばかりを見せてきた。汚いものはすべて排除した。
 甲冑越しに、その柔らかい体を抱き寄せ、すべやかな髪を撫でた。
「戻ったら、婚儀だな」
 ぴくりと、細い肩がゆれた。
 覚悟はまだ、ないのかもしれない。かまわない。ささめはだれにも渡さない。
「かならず手柄を得てもどる」
 それは、誓いだった。


 もう、命は尽きようとしていた。
 時尚の人生は、終わるはずだった。
 なのに、苦しみと痛みのなか、気づくと見知らぬだれかがのぞき込んでいた。
 そこがどこだったのか。戦場だったのか。暗闇の洞窟? それすらもわからなかった。
「――あの娘に囚われた男か」
 冷たい、抑揚のない声が落ちた。
「生きたいか?」
 苦痛のなかで目を開き、時尚はその声の主を見上げた。
「・・・いき・・・た・・・」
 もう、何もかもが手遅れだった。


 人ではないものに、時尚はすべてを委ねた。


◇ ◇


 あやかしの杜、暗い社の主の元。
 時尚が蘇ったあと、体の修復には時間がかかった。ゆっくりと人ではないものに染まっていった。抵抗はなかった。人から生命を奪い取って、体を維持していく。生命を奪われて干からびた人間を前にしても、何も感じない。
 もはやこの杜が根城となった。
 約束の時を前にして、時尚は主の元にいた。鬼に対面するなどということは、もともと時尚は想定していなかったのだ。
「ささめは、あの櫛をどうしたのだろう」
「あの僧形の鬼が隠したようだな」
 つまらなそうに、主は言った。
「あいつか」
 時尚は低く唸る。
 はじめて会ったときから、気に入らなかった。初対面でありながら挑戦的なまなざしで挑んできた男。有髪のくせに僧形で。鬼のくせに人(ひと)の姿をして。もうひとりの男も落ち着き払ったところが小生意気だった。
 あいつらが鬼。大事なささめを奪っていく鬼。
「鬼がその気になれば、そなたに勝ち目はない。やつらの霊力は忌々しいほどだ。すでにそなたの正体も知れていよう。戻れば、そなたは斬られ、冥府へ送られる。死者がこの世に留まるのは、天の理では大罪だからな。地獄落ちは免れまい」
 罪の道を示した主が、たんたんとそれを言う。
 時尚には、鬼など未知のものだった。
「なぜやつらは、こうも都合良く現れたのだ」
「あれはくだんの姫のしもべたちだ。くだんの予知に触れたのであろうよ」
 それはつまり、あの娘がくだんの必要とするしもべであるという証。くだんはいかに未来を予知し、高い霊性を誇ろうとも、現身はあまりにも脆くできている。手足となるしもべたちがなければ、予知ができてもそれを生かす術を持たない。
 だからこそ、このあやかしの主は鬼を除こうと謀るのだ。手足をもがれた聖獣が、何もできずにのたうちまわるのを見たいのだ。
 あやかしの主は、時尚を挑発した。
「その身が惜しければ、このままどこぞへ消えるのだな。あの娘は諦めて・・・」
「諦めるものかっ」
 それではこの世に留まった意味がなくなる。
「諦めるものか。おれはあいつに誓ったんだ。決して独りにはしないと」
 己の思惑通りに男が動きそうなので、あやかしの主は満足だった。
「それではこれをそなたにやろう。鬼を相手に徒手ではあまりにも不公平だからな。これがあれば、鬼を倒せずとも娘をかすめるくらいはできよう。そして娘を一度、ここへ匿うがよい。ここなら容易に鬼の手は届かぬゆえな」
 差し出されたのは、懐紙に乗った三つの碧玉だった。


◇ ◇


 叶野のいない夜。ひとりきりの夜。
 いま、こんなにもそれが辛い。
 ささめは眠れずにいた。あまりにもさみしくて、せつなくて、孤独を紛らわせるために宗員のくれた猫を抱いていた。
 頼りにしていた大切な許嫁が生きて戻ってくれたというのに。この身を裂かれるような孤独感はどうだろう。
 先が見えない未来に初めて希望を見出したのは、つい昨日の夜だったではないか。
 どんな困難でも越えていけると、共に戦いたいと願ったのは・・・もう、過去となった昨日。
 平穏な北条へ戻れるというのに。そこで時尚に守られて、あたりまえの一生を無難に暮らしていく道が戻ったというのに。
 なぜ、こんなにむなしい?
 まるで、無いものねだりの子どもだ。
 あのときはこちらを懐かしみ、いまは向こうを欲する。
 時尚を裏切るのだけは、いやだ。絶対に、いや。それはもう、心の内で結論されているのに。
 ――こつん。
 そこへ、戸を叩く音。
 猫はささめの膝を降りて、外に向けて、一声、鳴いた。
「ささめどの」
 ちいさく、呼ぶ声。
 それが海野幸氏であると、ささめにはすぐにわかった。意識するまえに、体が動きそうになった。立ち上がり、手を伸ばしかけ、けれど、ささめはそれを意志の力で押さえた。
 開けられない。
「ささめどの」
 応えてはいけないのだ。彼らとは袂を分かつのだから。
 宿直に来てくれたのだろう。自分をあのあやかしから守るために。
 今日が例の約束の日にかかろうとしていると、ささめはわかっていた。叶野がいないいま、ひとりでいるのがどれだけ危険であるのかも。
 だが、こんなときだけ彼らを頼るなんて、ささめにはできなかった。彼らに助けてもらうだけ助けてもらって、それでいて彼らの望みはかなえられない自分。迎えにきたと言ってくれた彼らに、自分はついていけないのだから。
 救いだけを彼らに求めるなんて。
 それは、裏切りにも等しい行為ではないか。
「・・・だめです、幸氏どの」
 今宵は厳重に戸を閉じている。しん張りの棒も用意した。外からは簡単に開きはしない。
「ここを開けてください」
「だめです。もう、私のことは放っておいてください」
「なぜです?」
「私はもう、鎌倉へは行けません。明日には北条へ戻ります」
「――それは、困るのう」
 どうやら、宗員もいるらしい。
「ささめどの。開けていただけないなら、無理にでも入らせていただく。今宵はやつらが来る。ひとりでは危険じゃ」
「開けません。どうか、私のことはお見捨てください」
 涙がこみ上げてくる。どうしてこんなに悲しいのか。ささめは戸に背を向けた。
 しかし、戸を閉めておく程度では、彼らの進入を防ぐのは無理なのだった。
 がたっと、音がして、振り向いたささめの視線の先では、ふたりが戸をくぐる瞬間だった。押さえとしていた棒は、灰のように細かくなって元の姿を失っていた。
「・・・なぜ」
「ああ、これはわしの得意技のひとつじゃ」
 結界をはるよりも、破る方が得意な宗員だった。宗員の前では、いかなる施錠も、いかなる結界も意味をなさない。実はささめが猫を手元においてくれていたので、余計に呪術的には簡単になったのだが、それは言わぬが花というものだ。
 覚悟までも打ち破られた気がして、ささめはへなへなと座り込んだ。
 ふたりは月を背負って立っていた。幸氏は弓と太刀を、宗員は数珠と経筒を携えていた。
「守ると、約束しただろう」
「ささめどの。おぬしはもう、ひとりではない。独りで戦う必要はないのじゃ」
 ふたりが、ぼんやりと輝いて見える。
 月のほのかな灯りのせいか、彼ら自身の霊的なものなのか、それはわからなかった。けれど、それはあまりにきれい過ぎて。
 涙が止めどなく、流れた。
「私は鎌倉へは行けません。あなた方のご厚意を受けられる立場にはないのです」
 あきらめようと決心したのに。揺らぎそうだった。
 ついていきたい。彼らと共に行きたい。どんな感情がそう思わせるのか自分でもわからなかった。時尚を裏切りたくはないのに。時尚の気持ちに報いたいのに。
 幸氏を前にすれば、自分の気持ちが幸氏に傾いてしまっているのを止められない。いや、気持ちが止められないからこそ、余計に時尚への後ろめたさが、ささめの自由を許さなかった。
 気持ちの上では裏切っている。だからこそ、行動でまでは裏切れない。
 忘れなければ。
 北条へ戻りさえすれば、元の生活に戻れば、忘れられる。きっと。
「なぜ、行けないのじゃ? 許嫁を愛しているからか?」
 宗員は意地悪だ。おそらく、ささめの幸氏への気持ちに気づいているだろうに。
「私にとって、あのひとはだれよりも大切です。兄のように、いつでも私を庇い、慰めてくれました。あのひとの望むような気持ちではないかもしれないけれど・・・あのひとが必要だというなら、側にいてあげたいのです」
 わかっている。それは過去への執着でしかない。同情よりも質が悪い。結局は自分のために時尚から離れられないのだから。
 時尚のためと思いながらも。彼を裏切る自分が許せなくて。裏切れば暖かな思い出のすべてを失う気がして。
 どこまでも身勝手な自分に嫌気がさす。
 幸氏は何も言わなかった。
 弱い彼女をこれ以上傷つけたくはなかった。
「そうか・・・しかしな、ささめどの。あれはもう、人ではなかろうよ。気づいているのだろう?」
 宗員は、ささめを哀れんでいた。
 在りし日のすがたのまま現れた男。体も心も、かつて彼であったもの。
 しかし、あれは生きてはいない。何か異様な力で動かされている。まるで生者そのままに。
 相手が鬼たちでなければ、気づかれなかっただろう。そのくらい、彼はかつての姿のままだった。
「まさか」
「わからんのか? いや、わかりたくないだけではないのか? あれはきっと、おぬしに残された最後の家族なのだろう?」
 見透かされている。
 彼への、執着の理由。
 時尚はただひとり遺された、しあわせだった時代の残滓なのだ。
 その彼が帰ってきてくれた。・・・どうして、拒否できる?
 彼がもう、人間でなかったとしても。
 ささめを見捨てず、心を残して戻ってきてくれたのだ。
 彼らの言うことが正しいのかもしれなくても。
「それでも・・・です」
「己を生け贄に捧げるか? それがどんなに罪深いか、わからぬわけではあるまい?」
 あやかしは、鬼の気を喰らって力をつける。
 死霊は、その力があればこの地に留まることもできる。
 だがそれは、世の理において最も大きな罪。地に縛り付けられた霊は、そのままでは永劫に救われないのだから。
「あのひとがもう人ではないというのなら、罪は、私が引き受けます。私があのひとに、罪を犯させたのです。私が弱すぎたから。だからあのひとは」
「莫迦な。罪はどんな罪でも、犯した本人のものじゃ。だれも肩代わりなどできぬ」
 宗員はあきれた。しかしささめは、ただ頸を振るばかりだ。
「あのひとがすでに死者だというなら、私が側にいて見張ります。だれにも迷惑はかけません。北条で静かに暮らします。私が生きている間だけです。私が今生を終えるときには、必ず彼を連れて閻魔王の御前に参ります」
「敢えて罪をかぶるのか?」
「ここで彼を見放せば、もっとひどいことになります。あのひとは、ふつうの人間でした。自力で甦るなどできるはずがありません。おふたりのおっしゃることが真実なら、だれかに唆されてこの世に留まったのだと思うのです。だれかが知識と力を貸さなければ、あんなにも生前のままの姿は保てないでしょう? あんな、生きているような死者は、私は見たこともありません。そんな方法を教えた相手がどんな存在なのかはわかりませんが、私がここで見放せば、彼はそのだれかの元へ行って、本物の悪霊になってしまいます」
 ふたりのやりとりを目の前にして、幸氏は急激な既視感に襲われた。
 こんな言葉を、こんな風に泣く女を、どこかで見たことはなかったか。はるか昔、そう、生まれ変わる前の、その先の記憶。
 消えてしまった思い出。届きそうで届かない、もどかしさに幸氏は震えた。
 もう少しで、届きそうだった。
 それでもそれはするりと幸氏の横を通り抜けて、風のように消えてしまった。
 もしかしたら、地獄の鬼に堕とされた業は、似たような経験だったのかもしれない。お人好しな、莫迦正直な娘。何もかも背負うなど、どんな目に遭わされるかしれないのに。
 彼女は、鬼だ。このとき、幸氏ははじめてそれを実感した。愚かで罪深く、そして哀しい鬼。姫さまの予言は受け入れられなくても、仲間としては認められる存在となった。
 幸氏は、頭を振った。過去にとらわれている場合ではない。大事なのはいま、このとき、直面した危機を逃れることこそだ。
「ささめどの・・・大切なことを間違えてはいけない。そなたは鬼。一度罪を犯し、そのために地獄の獄卒という業を背負った。同じ過ちを繰り返すのか?」
「幸氏どの・・・」
「方法は、ある。私がそなたの許嫁を閻魔庁へ送ってやろう」
 それが、幸氏の異能であったから。彼の手にかかった者は、強引に閻魔庁へ送り込まれてしまうのだ。拒める者はない。たしか、そう聞いていた。
「でも、でも・・・」
 いまになって、時尚を突き放すなんて、できない。幸氏に同意するのは、死んでまで自分を求める時尚を見捨てる行為だ。
「決心するのだ。残酷なようでも、それがゆくゆくは彼のためになる」
「やさしさが弱さにつながるのは、罪じゃ。それは強さに基づくものでなければならない。ささめどの、強くなりなされ。おぬしに最も必要なのは、強さじゃ」
 ふたりの言い分はもっともだ。理性ではささめにもわかっていた。
 どうしよう。どうすればいい?
 ふたりの言いなりになれば、本当に時尚を裏切ってしまう。それがどれだけ時尚を傷つけるか。
 いや、それでも時尚を受け入れてしまえば、結局は彼を苦しめるだけ。すでにこの世に甦っただけでも、地獄へ堕とされる大罪だった。
 さらに、彼を苦しめるなんて、間違っている。
 ささめは、膝の上で、自らの衣をきつく握りしめていた。
 幸氏は、すうっと目を細める。もう彼の心は決まっていた。
「ささめどのが決められずとも、我らはあれを放置してはおけぬ。どのみち選べる道はひとつだけだ」
 幸氏は無慈悲に見えた。鬼というものにふさわしく思えた。
「まもなく、丑三つ時となる。守ってほしくない約束には迷惑なほど律儀な連中じゃ。ささめどのを連れだしに、やつらはここへ来るだろう。餌もまいておいたしな」
 宗員は経筒の蓋を開けた。
 月光の中、ぬれ縁にぽつんとそれを置き、距離を置くようにささめの前に立ちふさがった。中にはあのときの見事な櫛が納められている。
 櫛を残していった、生きていない子ども。残した言葉。
 あれは・・・
 いくつもの場面が脳裏をゆらめく。重なってゆく。
 ――前哨だったのだ。
「もしや・・・いえ、やはり、あのときの求婚の相手というのは・・・」
「時尚どのであろうな。まったく大した執着心じゃ。気持ちはわからぬでもないが、所詮星が違いすぎたな。――なあ? 時尚どの?」
 ゆらりと、宗員が外へ振りかえる。
 にじむ異様な気配。
庭先に、あやかしは姿を現した。すうっと視線が動いて、経筒を睨み、そのままささめを見つける。
 時尚だった。
 生前のままの姿。生前のままの記憶をもって。
でも、目の前にいるのはもう、ささめが知っていた時尚ではない。死者の冷気。夜の陰の気が、彼の気配を隠しようもなく暴いている。
 幸氏は太刀を構える。刀身が月光に濡れた。
「ささめどの。下がれ」
 もはや、戦いは免れようもなかった。
 宗員は数珠を持つ手を時尚へ向けた。
「よくまあ、我らのいるところへのこのこと現れたものじゃ。おぬしに蘇りの法を教えたやつは、我らの存在を忠告せなんだか?」
 時尚はまるでふたりが見えぬようだった。
 ただ、ささめだけを見据え、ゆっくりとその手を伸ばした。
「ささめ、おいで。迎えに来たのだ。おれといっしょに、行こう」
 青白い月光の元、すべてが暗い影を帯びて闇に浮いている。
 ささめは震えていた。恐怖はなかった。ただ、悲しかった。
「兄上・・・どうして? 死者が現世に留まるのはとても大きな罪なのよ?」
 どうして私を見捨てなかったの? どうして・・・。
 ゆらりと闇に浮かぶ彼の表情は、幽鬼じみたところはなかった。
 この上なくやさしげな、生前のままの姿。
 懐かしい声が、繰り返し呼ぶ。
「ささめ、おいで。もう独りになんてしない。これからはずっと側にいる。心配だったんだ。おまえが泣いているんじゃないかと」
 ・・・ささめ、おいで。
 幼い日、夕焼けの中で。あやかしたちに囲まれてひとり遊んでいたささめを、温かい家へ、人の輪の中へ引き戻してくれた腕。強引で、わがままで。意志の弱いささめに、常に道を示してくれた。
 ・・・ささめ、おいで。
 でも、いまは。彼は常夜の罪の中へ招こうとしている。破滅へつながる闇へと。罪を罪と知りながら。
 ・・・ささめ、おいで。
 ささめ・・・。
 呪文みたいに繰り返し、繰り返し、時尚は呼びかけるのだった。
「私のせいなのね・・・私が心配かけてばかりいたから、無理にこの世に繋がれてしまったのね。・・・ごめんなさい・・・」
 安らかな眠りを奪ったのは自分。
 彼に罪を選ばせたのは、自分の弱さ。頼りない、莫迦な娘のために。
 もっとも迷惑をかけたくなかった人に、こんな罪を背負わせて。
 ささめはまだ迷っていた。
 どうすればいい? どうすれば償える? どうすればあなたをしあわせにしてあげられるの?
 わかってる。言われるまでもなく、正しいのは幸氏たちなのだ。天の理を犯した者は、無理にでも冥府に送らなければ、永遠に救われない。いつまでも地上を彷徨う悪鬼になりはてる。
 幸氏たちには、彼を救う力がある。それを頼ればいい。簡単なことだ。
 だがそれは、おそらく、時尚にとって最大の裏切りだ。
 こんなにも自分を大切にしてくれる人を裏切るなんてできない。
 どうすればいい?
 ささめを庇い、先に動いたのは宗員だった。
「使いたちよ。死霊の動きを封じろ!」
 翳された数珠が、青白い霊光を放った。
(なに?)
 ささめは、信じがたい光景を目にした。
 放たれた光の中から、烏が、黒猫が、狗が、姿をとり、飛び出して、いっせいに時尚を襲った。すばやかった。
 時尚は帯びていた剣を抜いた。それらの獣を切りつけるが、斬ればそれらはふたつに裂け、それぞれが元の姿を取り戻す。ふたごのように増殖して、更に牙をむいていった。斬れば斬るほど数が増えていく。奇妙な術だった。
「幸氏っ」
 宗員は、術に集中しつつも、相方を呼ぶ。
 使いが死霊の動きを封じる間に、幸氏が敵を斬りつけるはずだった。
「させるか!」
 時尚は懐紙に包まれた碧玉を床に投げつけた。
 轟音がした。
 煙が立ち上り、現れたのは極彩色の大蛇だった。三匹が、みるみる人以上の大きさにふくれあがる。
「――!」
 大蛇は大口をあけて牙をむき、宗員の使いたちを飲み込んでいった。
 碧の巨体に、赤く光る目。異形の獣。
 ずるずると音を立てて、庭をのたうつ。樹木はまきこまれ、つぶされ、引きずり回されていた。土埃。滑るような悪臭。これは・・・あやかしなのか?
 バキバキと柱を折り、壁を打ち砕き、それらは幸氏たちに迫ろうとしていた。
 宗員が何かをつぶやくと、網目のような結界の糸がにぶく光りながら立ちふさがった。結界はそれらを抑え込もうと、波打ってきしむ。もはや真摯な表情になりながら宗員は経文をつぶやきつづけた。幸氏は刀を構え、冷ややかに大蛇を見据えていた。一分の隙もなかった。
 しゅうしゅうと音を立てながら、大蛇は突き進もうとしている。
 時尚は高く嘲笑を吐いていた。破壊を楽しむような、傲慢な嬌声。
 ささめは泣き濡れたまなざしで、時尚を凝視した。獣を操る姿は、すでに悪霊と化していた。
 こうして。
 知らず知らずの内に、魔へ近づいていくのだろう。取り返せないほどに。
(答えはやはり、ひとつしかないの?)
 幸氏も宗員も、こんななかで、慌ててはいなかった。
 機会を狙っている。
 幸氏が、すべてを切り伏せる機会を。
 もう、すべては一瞬で決まる。
 ささめの目にも、それがわかった。時間がない。
(――兄上)
 それならば、いっそ。
 すべてを終わらせなければ。
「――私にはもうひとつ、答えがあるわ」
「ささめどのっ」
 一瞬を先に突いたのは、ささめだった。
(幸氏どのを、宗員どのを、そして何より私を思ってくれた兄上を──私は今、すべて裏切る!)
思考よりも先に、足が畳を蹴っていた。
「ささめどの、ならぬ!」
幸氏の鋭い制止が鼓膜を打ったが、もう止まれない。飛び散る火花と土煙の中、ささめは二人の男の隙間を縫うようにすり抜けて、迷わず前方へ突っ込んだ。
宗員が張った、外界の魔を拒むための強固な結界。しかし、その術は「外からの敵」を防ぐために特化していた。内側から、しかも守るべき対象であるささめ自身が自死を覚悟して体当たりを敢行するなど、宗員とて予測できるはずがない。
パリン、と硬質な膜が砕けるような音が夜の大気に響き渡り、淡い青の光壁が霧散する。
「ごめんなさい。私、先に閻魔庁へ参ります」
頬を切り裂く夜風を浴びながら、ささめは真っ直ぐに、あの懐かしい、けれど今は酷く冷え切って見える時尚の腕の中へと飛び込んでいった。


◇ ◇


「くっそ」
 館の外。
 結界の外側では、鬼を奇襲しようと魑魅魍魎が集まりつつあった。
 醜悪な異形のものたち。ぬめるよだれを滴らせながら、あるいは牙をむきだしながら、鬼たちがいる館を取り囲もうとしている。
 有象無象のものたちが、かがやく魂を狙っている。
 叶野はそれを見逃せなかった。
「あの莫迦娘、どうせまたひとりで全部背負い込んで、死ぬ気だ! 」
 あれは、人が好いという範疇を超えている。
 引きずられやすいようにも見える。
 それでいて、どこか頑固でもあり。
「簡単に死なせやしない」
 叶野ははげしく気をため込み、熊のように身を膨らませた。
 一気に吐き出す。
 炎になって、息は魑魅魍魎たちを燃やし、蹴散らした。
 断末魔の声が広がってゆく。
 燃えかすは舞い上がると、塵となり、はらはらと解けてゆく。視界が晴れてゆく。
 ――子どもがいた。
 かむろ髪の少女。青白い顔に、くいっと口の端を上げて。
「――通せ」
「いやと言ったら?」
「知るかっ」
 再び炎の咆哮をあびせかける。
 炎は、空を目掛け、ただ、かけていった。
 かむろ髪の少女は無傷のまま、ふわっと空を飛ぶ。
「おまえも、本来は我らの側の者ではないのか?」
「おれは、おれの在りたいように在るだけだ」
「それほど、あの娘がいいのか。おまえも」
 ゆがむ嘲笑。
「――おなじ嘲笑でも、発する魂によって、かなりちがうなあ」
「戯言を」
「とにかく、お前の相手など、してるひま、ないんだ、よ!」
 瞬間、細い疾風が、かむろ髪の少女を弾き飛ばした。


◇ ◇


 長い髪が、跳ねる背中。
 ささめの手が、伸びる。
 時尚を裏切らず、また罪を重ねなくてもすむ方法がひとつだけある。
 それは――いますぐ、共に閻魔庁へ行くことだ。
 すなわち、死。
 ささめは時尚の手をとった。にぎりしめ、時尚の顔を覗き込む。
「いっしょに行きましょう。私が連れて行ってあげる」
 時尚も、虚をつかれた。
 どうして。
 どうしてこれほどまでに、清くいられるのだ、彼女は。
「ささめ――」
 そのときだった。
 ものすごい力が、ささめを突き飛ばした。華奢な体が、大きく弾かれる。
 力の元は――叶野だった。
「・・・叶野?」
「莫迦! 勝手に死ぬんじゃない!」
 叶野はささめと時尚の間に割って現れていた。
 一瞬のできごとだった。
「いまだ、幸氏! 斬れ!」
 宗員に言われるまでもなく、幸氏は動いていた。好機をのがすはずもない。
 太刀が弧を描き、月光がはじかれた。たしかに肉の斬れる音。袈裟懸けに斬られて、時尚の体は倒れた。
 間違いなく、深手であった。
 三匹の大蛇までが、苦悶にゆれた。幸氏はすかさず、それらをも切り裂く。太刀捌きは大きな舞のようにゆらめいた。
 大蛇も力を失った。
 蒸発するかのごとく、音を立てながら崩れ、消えていった。時尚が現世から消え去ろうとしているいま、すべて形を失っていった。
 ささめにはそれらの動きはまったく視野に入っていなかった。
「兄上!」
 ささめは時尚に駆け寄り、すがった。


 正面から斬られたはずの肉体。傷口はぱっくりとはぜていたが、血はなく、闇色をした傷口だけがあった。
「おまえ、独りじゃあないんだなあ・・・」
 斬られたというのに、時尚は笑っていた。唇が歪むのは自嘲のせいだ。時尚に罪を犯させたのは間違いなくささめへの想いだった。自分がいなくなったら、ささめは独りになってしまう。その愛情と執着が、罪を選ばせた。
 ささめは今度こそ彼の手をにぎった。彼に残された時間は、もうあとわずか。
「泣くな。泣かせたくて甦ったんじゃない」
「うん・・・わかってる。いつだって、私のこと大事にしてくれたもの」
 だからこそ、一緒に行ってあげたかった。
 彼の内側から、もれていく生気。割瓶から漏れる水滴のごとく、失せていく時間。
 最後に話したいのは、何だろう。
 ささめは言葉を探したが、ただ、彼の告白に耳を傾けるしかなかった。
「ささめ・・・おれはずっとおまえが好きだった。兄としか見てくれなくても、かまわない。手に入るならどうでもよかった。嫁にきてくれると決まって、うれしかった。奥州で手柄をたてたかった。おまえのために」
 こんなにも求められていたのに。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 しかしいま、この場での謝罪は、彼へ愛情を返せないという告白に等しい。
 だからささめには、ただ頷くしかできなかった。
「でも、おまえにはやはり手が届かないのかな。子どものころ、他人には見えないものが見えて、聞こえないものが聞こえるというおまえが不安だった。いつか、目の前から消えてしまう気がして。つなぎ止めたくて、ずいぶんわがままを言った。すまなかったな」
「謝らないで」
 負い目など感じないで。悪いのはすべてあなたではない。・・・私が、人でなかったから。だからあなたを罪に追い込んだ。
「ああ・・・おまえには、結局何もしてやれなかった。遺してやれるものもない。せめて扇のひとふり、櫛の一本でも、まともなものをやりたかったな。奥州へ赴く前に、鎌倉で見かけたんだ・・・若い女の喜びそうな物たち。帰るときには持ち帰ろうと思っていた。おまえの喜ぶ顔が見たくて」
 莫迦ね。いつだってあなたはたくさんのものをくれた。愛情も、安心も、居場所も、思い出も、過去のしあわせはあなたがくれた。そう。
「私はいつもしあわせだった。あなたが側にいてくれて。幼いときからずっと、あなたは私を支えてくれた。いつだって、守ってくれた」
「あのまま時が過ぎてくれればよかったのにな。そうすれば、おまえを失わずに済んだろうか」
 左手はささめに握られたまま、彼の右手だけがささめの頬に触れた。
 両手はもう、冷たい。
 急速に、その身から力が抜けていくのがわかった。
 ささめには痛いほど時尚の愛情がわかっていた。これほどの愛情に、自分は裏切りでしか返せない。気持ちに応えられないのが、もっとも大きなささめの悔い。
 どうして自分はこのひとを愛せなかったのだろう。
 兄としてではなく、ひとりの男として。
 兄としての愛情なんて彼は望んでいない。わかっていたのに。
「・・・いっしょに、行くわ」
 言わずにはいられなかった。
 それしかできることがなかった。こんな自分のために罪を犯した人。いつでも自分を一番に考えてくれた人。置いて行かれるよりも、ひとりでこのひとを旅立たせなければいけないのがつらい。
 時尚はすぐには応えなかった。
 明らかな、逡巡。
 だが、あきらめたように目をつむると、ささめの頬から手を離したのだった。もはや言葉にも体にも、力はなかった。
「おまえが死ぬのなら、おれが生き返った意味がないだろ? おれはおまえと死にたかったんじゃない。生きたかったんだ」
 ありがとう。
 つぶやきは、彼の体と共に、塵となって消えた。
 蘇りの術は解けたのだ。ささめの握っていた手も、もはや空を掴むばかりだった。
 あの櫛だけが、残った。
 ささめは動けなくなった。彼の痕跡を必死に探すけれど、みじんの気配さえ残されてはいなかった。今度こそ、逝ってしまったのだ。自分を残して。
 涙が止まらなかった。祈らずにはいられなかった。もしも閻魔庁が存在して、ほんとうに閻魔王が彼を裁くというならば、どうかその罰を私にください、と。それだけが自分にできる、精一杯の弔いだった。
 暑さは去り、すずしい風がやわらかく自分を包んでいく。
 いつのまにか時間は経っていて、東の空は白くにじみ始めていた。
 透明な蒼が、かなしみに溶けるように夜闇を押しのけていく。
 夜明けが近い。
 気づくとささめのうしろには、ふたりと一匹がしずかに立っていた。側にいてくれる、あたたかい気配。
 ゆっくりと振り向くささめに、彼らはあからさまな安堵を示した。
 いくらかささめが落ち着いたと想ったのだろう。幸氏はささめの頭にぽんと手を置いた。
「あまり、心配させるな」
 不器用な彼なりの、精一杯のいたわりなのだろう。
「あやつは、おぬしを道連れにはせなんだ。現世に留まった罪は重くても、最後のそれでいくらかは閻魔王のご慈悲がいただけるのではないかの」
 宗員も、近づいてくる。
「やつはさ、最後までおまえを大事にしていた」
 叶野は相変わらず細いきつねの姿で、ささめの肩にちょこんと乗っていた。
 あたたかい。これが、生きているということなんだ。
「みんな・・・ごめんなさい。ありがとう・・・」
 あついものが胸につかえて、どうしてもそれ以上ささめは口にできなかった。
 夜が死んで、朝が生まれていった。
 

◇ ◇


「つまらん結末だな」
 あやかしの男は、自らの社で、その結末を見届けた。
 手元の大きな水瓶に望めば、彼はおよそこの国のすべてを覗く力があった。
「だから人間の男など、あてにはならぬと申し上げましたのに」
 由衣はあきらかに不満げだった。それは主に対してではなく、主の期待に微塵も応えられなかった人間の男に対する侮蔑だった。
「期待というほどでもなかったが、どうしてあれは自ら身を引いてしまったのだろうな。今更、天道の理に逆らうを恐れたわけでもあるまいし。欲するものが目の前にあるというのに、なぜ強引に手に入れようとはしなかったのか」
「あの娘の幸福を願ったのでしょう。運命をねじ曲げて死の道を選ばせるには、あまりにも不憫と」
「それがわからぬ。現世に遺しておいて、どうしてあの娘がしあわせになれるなど信じられるのだ? しかも、仮にしあわせになれるとして、傍らには自分はおらぬというのに」
 これこそが、人の、人たる姿だというのに。あやかしの主には、あまりにもへだたりのある価値観だった。
 かむろ髪の少女だけが、せつない色をのせてまなざしを伏せた。
「あれはこれから地獄へ堕ちるのです。自分が消えたあと、あの娘が他の男と微笑む姿を想像するよりも、今ここで自分のためにあの娘が死んでいくのを見る方が、耐え難かったのでしょう。人間なぞ、どこまでも己の感情でしか動きはせぬのです」
 主ははじめて、自分を慕うこの子どもの過去に興味を持った。
「・・・だから由衣は、男がきらいなのか?」
 それには、肯定も否定もかえらなかった。
 

◇ ◇


 半壊となった館。幸氏たちが盗賊らしき討ち入りと話したが、そのときに館の者がだれも気付かないというのはどういうことなのか。実際には、宗員の結界によって、人にはかんじられない空間となっていたため、朝になるまで露見することがなかったのだ。
 館の惨状と、まして、再び時尚が行方知れずとなり、浦辺邸は大騒ぎになった。
 どんなに探しても時尚の行方はようとしてしれず、だれもその後の姿を見た者はなかった。
 北条時定はひそかに涙し、かがりは半狂乱になっていた。それでも時尚はどこにも現れなかった。
 いろいろな噂が流れた。
 盗賊を追っていったという者、偽物が正体を見破られて出て行ったという者、神隠しにあったという者、幽霊が帰ってきたのだという者・・・。
 またしてもささめの周りで起こった怪異に、伯父は何かを訊きかけたが、やはり武者としての矜恃が邪魔をしたのだろう、その後もささめには何も問わなかった。
 季節はいつの間にか移ろっていた。日差しは相変わらずきついが、風の感触がすでに秋のものになっている。
 この騒ぎでまたしても旅程に支障をきたしたものの、時尚の捜索が断念されたころ、ささめたちは改めて、鎌倉を目指すことになった。
 時尚のうしろにいたであろうあやかしが干渉してくることは、とりあえずなかった。
 出発の前夜、三人と一匹はささめの控えの間に集まっていた。
「――ようやく鎌倉へ出発じゃ。姫さまはさぞかしお待ち兼ねじゃろう」
「まったく、このように時間がかかるなど、姫さまに顔向けができぬ」
 ふたりの姫さま大事は、相変わらずだった。
 彼らとは、鎌倉に着いたらしばらくお別れだった。ささめはまず北条館へ赴きしばらくはそこに逗留する予定だったし、彼らは早々に御所へ戻り、元の生活に戻るのだ。
 ささめは北条館でいくらかの教育を受け、その上で大姫に仕える流れとなるだろう。
 くだんの姫。
 予言をもって人の世を救う聖獣の化身。幸氏たちを使わして、ささめの命も救ってくれた。いや、命だけではない。新しい道までも示してくれているのだ。自力で、踏みしめていく道を。
「しばらくお会いできないなんて、さみしくなりますね」
 突然、見ず知らずの場所へ勤めに出るよりも、こうして知り合えた彼らがいると思うと、御所勤めにもどこか安心できた。
 ささめのなかに、幸氏への恋心はやはり淡く宿っている。はじめて心惹かれた人。
 けれどいまは、時尚の面影がもうすこし遠くなるまでは、己の恋にうつつを抜かすなんてできるささめではない。
 時間が必要だった。
 それを知ってか知らずか、幸氏もささめをそれ以上には扱わないから、結局このふたりの関係は当分進展しそうにはない、のだが・・・
「どうかしたか、ささめどの」
ふと視線に気づいたのか、幸氏がわずかに首を傾げた。その切れ長の瞳には、ささめを気遣う、静かな温かさが宿っている。
「・・・いえ。鎌倉へ行っても、こうして皆様が近くにいてくださるのだと思ったら、少し安心いたしました」
「御所勤めはきっとにぎやかになるだろう。楽しみにしているといい」
 何事もなければ。
 そこは、幸氏はのみこんだ。
 このまま、おだやかな時間が過ぎてゆけばいい。姫さまと、同輩たちと。それがいちばんの望みでもあった。
「しかし、ささめどの。どうしても、そのケダモノを鎌倉へ連れて行くのか?」
 宗員は、心底嫌そうだった。御所にこんなあやかしを連れて帰ったら、他の同輩たちに何を言われるやら。いや、姫さまにだってどんな叱責をうけるかわからない。自分たちがついていながら、ささめに恥をかかせるのもいやだった。
「心配いらねえよ、宗員」
 しかも、このケダモノは自分たちを呼びつけにする。
 いったい何様のつもりなのか。
「叶野? ・・・そろそろ教えてあげた方がいいんじゃない?」
 くすくすとささめは声をたてた。笑い顔は、やはりかわいらしい。
「そうだなあ。こいつらに恥をかかせるのもなんだから、教えておいてやるか」
 あくまで態度のでかいケダモノは、そのあと、とんでもない告白をする。
「おれさまはよお、おまえたちに言いがかりつけられたあと、ささめから離れて鎌倉に行ってたんだよな」
「何?」
 宗員も幸氏も、息をのんだ。
 嫌な予感がして・・・それは、的中した。
「何をしてきたかというと、まあ、早い話がおまえたちの飼い主に話をつけに行ったのさあ。ささめとおれさまの関係に、いっさい口出しするんじゃねえってな」
 それは、あんまりな宣言だった。
「なんだと!」
「このケダモノ! いったい、どういうつもりじゃ!」
 叶野はまったく悪びれない。
「だって、おまえたちがああいう態度なら、そのあと鎌倉に行ったって、おまえらの仲間にもおなじような扱いをうけるだろう? ・・・たしかにおれさまは、ささめの側にいて、その力をいただいてきたよ。ささめを守るためにな。ただでさえ、ささめの力は強すぎた。あれじゃあ、莫迦な人間にはわからなくとも、異形の者たちには目立ちすぎる。だからそれを押さえるためにも、おれさまは役に立っていたというわけさ。でも、おまえらが簡単に納得する話じゃないだろう? あれこれ邪推されるのもつっかかられるのも鬱陶しいからな。直接くだんに話をつけた方が早いに決まってる」
「直接・・・だと? お主、まさか姫さまの御前に、その毛むくじゃらの姿のまま突っ込んだのではあるまいな!?」
宗員が転げ落ちんばかりに身を乗り出す。
「まさか。おれさまをだれだと思っていやがる。ちゃんと気配を消して、一番奥の御座所に忍び込んでやったさ。おかげで周りにいた生真面目な獄卒どもは、おれさまが声をかけるまで、すぐ後ろに異形がいることすら気づかなかったぜ。まったく、あいつらの間抜け面を拝ませてやりたかったもんだなあ」
叶野は前足を器用に使って己の鼻先をこすり、いかにも愉快そうに喉を鳴らした。
 なんというおそれを知らないケダモノだろう。
 生身の形代(かたしろ)もとらぬあやかしの分際で、天上の聖獣であるくだん姫にかけあうとは。
「それで・・・姫さまは、何と・・・」
 幸氏は心なしか青ざめていた。ささめや叶野よりも、姫さまの性格はよくわかっている。
「もちろん、すぐに納得してくれたさあ。さすがにくだんは何でもお見通しだな。最初おれさまを追い払おうとしたおまえらの仲間なんて、こっぴどく叱られていたぜえ? 敵かどうかも見分けられないなんて、修行が足りねえってなあ」
 うっ。やはり、そうか。
 それなら、戻ったときに、同輩たちの八つ当たりを受けるのは、やはりこのふたりに違いなかった。
「ああ、それから、くだんの姫さまから伝言があったぜ」
 聞きたくない。しかしそんなわけにもいかないふたり。そして、予想は裏切られなかった。
「うちのしもべたちはいったい何を遊んでいるのか。帰ってきたら、お仕置きですよ! ・・・だ、そうだぜ?」
 くくくくく。叶野は心底楽しそうだった。
「幸氏・・・わし、なんだか戻りたくなくなってきおった」
「わたしも気が重い」
 ほんとうに姫さまには弱いのだと、ささめは感心してしまった。
「私、姫さまにお会いしたら、おふたりにどれだけ助けていただいたか、お話します」
「ささめどのは、やさしいのお。ますます惚れ直すわ」
「宗員はその軽口を直した方が生きやすくなると思うぞ」
「おや、幸氏は妬いておるのか」
「わたしはそういう話をしているのではない」
「人間素直さが肝心だぞ。あとから後悔したくなかったら、素直になれ」
「宗員! おまえはいったい、わたしをなんだと・・・」
 こうなってくると、ふたりの言い合いはいつまでも終わりそうもない、
 ささめには、それが楽しかった。
 少し前まで、自分の世界は伊豆の小さな里だけだった。家族を失い、かがりからは憎まれ、ただ息を潜めるように明日を待つだけの日々。それがいまでは、賑やかに言い争う風変わりな男たちと、ふてぶてしいあやかしが傍にいる。
時尚が繋いでくれた明日。彼を失った哀しみは消えないけれど、下を向いたまま生きることは、彼の愛を裏切ることになってしまう。
鎌倉へ行けば、辛いこともあるだろうけれど、きっと、もっと楽しいことだっていっぱいあるに違いない。
 自分はしあわせにならなければいけない。
 助けてくれたみんなのために、時尚のために、そして何より自分のために。
 きっと大事なものはそこにある。必ず出会える、そんな気がする。