くだん姫

「おまえの大事なひと、このままだと死んでしまうよ?」
 姫は、告げた。
 傍らに控える若武者は、海野小太郎幸氏。幼いころから鎌倉に仕え、この姫を守ってきた。
「わたしにとって大切なのは、姫さまだけです」
 幸氏の声に、感情はない。熱が感じられない。
 若いのに近寄りがたい男だった。
「ふうん。そんなこと言って、あとで後悔するかもしれなくてよ」
 含みのある笑い。
 くすぐるような嘲笑を、静かに、しかし幸氏はつめたく受け流した。
「見知らぬ相手をどのように案じればよろしいのか」
 とぼけているわけではない。
 顔も、名も、知らない。
 姫が救えという娘は、まだ出会ってすらいない相手だった。
 幸氏でなくても、実感を持てるはずもなかった。
「今生で、出会えなくなるわよ。いいの?」
「わたしの一生は姫さまに捧げました。いまさら人並みの恋だの愛だのは求めませぬ」
「まったく、おまえは堅物もいいところねえ。――こうもきれいに忘れてしまうなんて、つまらない。せっかく、現世へ戻れたというのに。かつてのおまえたちは、共に地獄へ堕ちることすら厭わなかった。出会えば、きっと愛するようになる」
 ……姫は、相変わらず奇妙なことをおっしゃる。
 幸氏はこっそりため息をついた。
 幼いころから未来を言い当て、人の知らぬことを知っていた姫。
 幸氏が知るかぎり最も高貴で、そして、最も不幸せな御方だ。
 鎌倉に仕えたその日から今日まで、ただこの姫を護ることだけが、幸氏の生のすべてだった。
 姫が意味もなく、いたずらに相手の不安をあおるはずがない。
 姫の予言は外れぬ。
 ならば、いつかその娘と出会うのだろう。幸氏は淡々と、ただそれだけを受け入れた。
 運命の恋。
 甘い響きだった。
 だが幸氏は、前世を知らない。
 恋も知らない。
 甘い響きなど、自分には無縁だと思っていた。
 ただ、どこか、不穏に胸がざわつく。
 姫の言葉を疑いはしない。だからこそ、恐ろしかった。
 ……幸氏の沈黙を、姫は、逡巡と捉えたのだろうか。
 衣擦れの音。姫は跪く幸氏の前に立ち、扇で彼の顎をしゃくりあげた。
 視線がぶつかる。
 揶揄の影はもう、姫からは感じられなかった。
「幸氏。忘れてはならぬ。おまえは、私のしもべ。逆らうことは許されないよ」
 幸氏はただ、頭を垂れた。
「迎えにお行き。あの娘は鎌倉へ呼び寄せた。おまえがあの娘を忘れるなら、それはそれでもよい。ただ、あれも私のしもべには違いない。いずれ役に立ってもらうときが来る。こんなところで死なせるわけにはいかぬ。――守りなさい。私のために」
「はっ」
 幸氏はその場を辞した。
 見知らぬ娘を迎えるために。


◇ ◇


 桜が舞い散る。その風の中に。
 ――見て、兄上。あそこにいるのよ。
 幼いささめが指差す先、人通りのない道を、異形たちが静かに歩いていた。
 ――わからないの?
 何度問いかけても、彼はただ困ったように笑うだけ。
 夏も。
 秋も。
 雪の夜も。
 ――私たちを守ってくれているのよ。
 座り込む異形が、にやりと誇らしげに笑った。
 その姿は、ささめにしか見えない。
 いつも。


◇ ◇


 明日の朝には、鎌倉へ発つ。

 遠く、ひぐらしの声。
 夕映えに染まる山々。刈り取りを終えた田には案山子だけがぽつんと残る。
 ああ……この懐かしい景色とも、もうお別れなのだ。
 二度と故郷へは帰れないだろう。
 慰めるような風のやさしさが、かえってささめにはせつなかった。
 ざわざわと木々が揺れ、影の中からいくつもの「形」が這い出してくる。
 ひとつ目は、ささめの膝ほどの高さしかない、水に濡れた河童の子供だ。寂しげに、キュウ、と鳴いてささめの小袖の裾を引っぱる。
「今日は暑かったわね。たくさんお水を被らないとだめよ?」
 ほほえみかけると、河童は小さくうなづく。
「みんな。いままでありがとう。もうお別れなの」
 河童の子は何度も首を振り、裾を放そうとしなかった。
 ささめが屈み込んでその頬を撫でると、冷たいはずのあやかしの肌が、どこか温かく感じられた。
 すると、森の奥から一際大きな影がのそりと現れた。古い大木の精とも、山の主ともつかぬ、苔むした大入道のような異形。巨大なひとつ目が、哀れみのままささめを見下ろした。
『……行くのか、人の子の娘よ』
 地鳴りみたいに、声が、ささめの頭に直接響いた。
『東は、闇が深い。人の業が渦巻いておる。気をつけよ』
「私には、行く場所が他にないのです」
 ささめは静かに、けれど毅然と答えた。大入道は深くため息をつくと、その大きな手でささめの頭上を払うような仕草をした。
『ならば、せめてこれを持っていけ。道中の魔を祓う気休めにはなろう』
 風が吹いた。異形の者たちも、その風にかき消された。
 大入道が消えると同時に、ささめの手のひらに、ぽつんと小さな、琥珀色に透き通った木の実が落ちてきた。
 木の実を胸に抱いた。
 ぬくもりだけが残っていた。
 その木の実を大切に懐へと収めたとき、背後から不意に、聞き慣れたぞんざいな声が降ってきた。
「――ささめぇ」
 呼ぶ声が聞こえる。里の方から走ってくる娘がいた。
 従姉妹のかがりだった。
「もう! いつまでふらふらしてるのよ! あんたの姿が見えないから、父上が不安がってるじゃないの!」
 駆けつけると、肩で息をしながらけたたましく詰るこの幼なじみとも、明日にはお別れだ。
 ささめにとってはもはや数少ない、近しい血縁であった。
「探しに来てくれたの? ごめんなさい」
 そう言って首をかしげると、かがりは露骨に顔をしかめた。
「ふんっ。なによ、上品ぶって! これから鎌倉に住むからってねえ、気取ってんじゃないわよ!」
「かがり……」
 ささめにとっては、気取りもなければ、鎌倉へ行くからといってそれをひけらかす気分にもなれなかった。
 けれども、価値観とは、ひとそれぞれである。
 かがりには、ささめの一挙手一投足、何もかもが気に障るようだった。やわらかな口調も、汚れを知らぬような瞳も、日焼けしない肌も、何より、同じ里に育ちながら、自分とはどこか違うと思わせる、その在り方が。
 年も、出自も、大きくは違わない。だからこそ、ささめだけが選ばれたことを、かがりは受け入れられなかった。
「ほんとだったら、あんたじゃなくて、この私が、鎌倉の御所にあがったっていいはずなのよ。それを父上てば、あんたじゃなくちゃ駄目だなんて……ひどいわよ。娘の私のことなんて、何にも考えてくれないんだから!」
 かがりに妬まれているのは、承知していた。
 むかしから、ささめの持つものを何でも欲しがった従姉妹。
 あげられるものは何でも譲ってきた。だからあきらめることにも慣れていた。
 鎌倉への出仕。譲れるものなら譲ってやりたいが、ささめの意思でどうにかできる状況でもなかった。
「そのうち、かがりにだってお声がかかるわよ。私たちが北条の一族だから、御台さまのお声掛かりで行儀見習いにあがるだけだもの」
 御所への行儀見習いは、有力御家人へ嫁ぐための道でもあった。家族を失い、伊豆に居場所のないささめにも、その役目が回ってきた。喜べる話ではない。
 だが、かがりには違って見えていた。かがりにとって鎌倉は、夢の都だった。その夢を奪ったのがささめだった。
「父上も母上も、あなたに甘すぎるのよ。そんな冴えない顔で御所へ上がったら、北条の恥よ。せいぜい、身の程を知ることね」
 ささめは言い返さなかった。その沈黙が、かえってかがりを苛立たせる。
 そして――何より。
「ささめは……やっぱり、兄上のこと、好きじゃなかったのね」
 低い、低い声。
 ささめは凍りついた。嫉妬以上の憎悪をそこに見たからだった。
 反射的に、脳裏にあのひとの面影が差し込む。


 真夏の、日差しのような男だった。
 蝉の声を背負って、かがみこむように、ささめを覗き込む姿。
 木陰でひとり泣いているささめを、見つけてくれるのは、いつもあのひとだった。
『おれは、おまえをひとりになんてしない』
 大きな手が、幼いささめの頭をくしゃりとなでた。
 けれど、その時尚はもういない。


 かがりの瞳の奥にある、歪んだ敵意がささめを射抜いていた。
「かがり……」
「だって、そうでしょ? 兄上はあんなに、あんたのこと好きだったのに! 婚儀だって決まっていたのに!」
 かがりは、兄が大好きだった。いつも後ろを追いかけ、ささめと兄の間に割って入ってきた。
「かがり……あのひとはもう、いないのよ」
 ひぐらしの声が遠い。しずかな夕暮れ。何もかもが赤く染まっている。しずかに、しずかに。
「だからって、あんたも父上もひどいよ!」
 かがりの声が震えていた。
「兄上が死んじゃったらもう、何もかもなかったことにして……二親亡くしたあんたを、兄上がどれだけ大事にしていたと思うのよ! あんたが寂しくないように、辛くないようにって、いつもいつもそればかりだったのに……」
 息を継いで、彼女は叫ぶように続けた。
「なのに、兄上がいなくなったとたん、手のひら返したように鎌倉へ行くなんて!」
 ……かがりの悲しみに、何を言ったらいいのだろう。
 ささめは、眼差しを伏せた。
「感謝しているわ。あのひとにも、伯父上にも……あなたにも」
「感謝って、何よ! だからあんたは冷たいっていうのよ! 兄上が奥州で討ち死にしたって聞いても、あんた平然としていたじゃない。兄上はあんなにあんたを好きだったのに……ろくに悲しみもしないあんたを」
「――悲しくなかったわけじゃないわ」
 やさしいひとだった。明るく笑い、たくましい腕でいつもささめを庇ってくれた。あの腕に守られているあいだだけは、ひとりではなかった。
 戦に出るときだって、彼は笑っていた。ささめのために戦うと。いつでも笑顔しか思い出せないひと。
 悲しくなかったわけじゃない。
 泣けなかったのは。
「ふんっ。どっちにしろ、あんたは鎌倉に行くのだし、兄上はもう二度と戻ってこないんだわ。……あんたみたいな冷たい女、姿が見えなくなってせいせいする。鎌倉でもどこでも、好きなところに行けばいい」
 かがりはもう堪らないといった様子で、踵をかえした。ひるがえる長い髪。屋敷に向かって駈けていく。
 ささめは駆け去る背中を見送った。呼び止めることはできなかった。
 時尚は、一年前の戦から帰らなかった。
 かがりの兄であり、ささめの許嫁だった。
 激しい戦闘のさなかに行方しれずとなり、それきりだれも姿を見た者がない。
「だって……戻ってこないんだもの」
 ぽつり、と、ささめはつぶやいた。
 うつむき、伏せたまつげに陰が籠もる。夕日は薄れつつあり、青白い闇が視界を覆いはじめていた。
 戻ってこなかったのだもの。――戻ってくれば、見えるのに。
 ふるさと最後の日。ささめはもうここへは戻れないのだと、改めて身にしみた。
 もう、居場所はない。それだけは、嫌というほどわかっていた。
 だから、鎌倉行きを受けた。
 行きたかったわけじゃない。鎌倉になんて、御所勤めなんて、何の興味もない。
 けれど……ここにいるのは、あまりに辛いから。
「ごめんね。――さようなら」
 森を振り返る。
 森の闇には、ささめにしか見えない異形たちがしずかに見送っていた。