贄月と桜の契り


 これから自分は桜真とどんな日々を過ごすのだろうかと、まだ見ぬ未来を、美乃梨は夢想する。はっきりとは想像できない。ただそれでも、胸が躍るような心地がした。
 不意に、嘆息が聞こえた。
 
「……まったく、空気を読んだのか、読んでいないのか」

 剣呑な雰囲気を見せた彼に体をこわばらせる。

「走れるか?」
「えっと、はい。大丈夫です」
()く――いや、待て」

 妙な間があった。訳も分からないまま、走るのをやめて平静を装う。ただ、心臓が煩い。

「このまま真っすぐに行って、丁字路を右に行くと先ほど言った四阿(あずまや)がある。そこまで走って、待っていてくれ」
「わ、分かりました」

 もう桜の時期は終わりかけているというのに、妙な寒気がした。

「よし、行け!」

 声に弾かれて走り出す。祭りの戦利品が振り回され、激しく音を立てた。中で滅茶苦茶になってしまっているだろうが、そんなことを言っている場合ではない。
 後ろに爆音が聞こえた。何が起きているのか気になるが、振り返れない。ただ、必死に足を動かす。

 丁字路はすぐに見えてきた。言われた通りに右へ曲がり、更に駆ける。息が荒れ、徐々に足も重くなってきた。それでも速度を落とさない己の健脚に感謝していると、右手の方で強い光が迸った。
 反射的にそちらを見てしまう。木々をなぎ倒しながら近づいてくるのは、衝撃波か何かか。
 ――もしあの場に残っていたら……。

 あり得た未来に、生唾を飲み込む。
 桜真はこうなることを予見して自分を逃がしたのだと思い至って、心の底から感謝した。

 だんだん足を上げるのが辛くなってきた頃、ようやく美乃梨の視界に四阿が映った。
 残りの距離を勢いのみに任せて駆け込み、柱と膝に手を突いて息を整える。逃げて来た方角は、いつの間にか静かになっていた。

 四阿にあった椅子に座り、机にぐちゃぐちゃになってしまった祭りの戦利品を並べて桜真を待つ。一人でいる不安からか、つい先ほどまで走っていたからか、心臓がバクバクと鳴って煩い。それは今もなお変わらず照らしてくる月明かりとは対照的で、深呼吸を繰り返してもどうにもならなかった。
 その拍動を、じゃりっと砂を踏む音が遮った。

「桜、ま……」

 弾かれたように振り向くと、視界いっぱいに、嫌に赤黒い闇が映った。同時に腐臭が鼻を突き、無数の牙を糸となった唾液が繋ぐのが見える。化け物の口内だ。月明りばかりの夜にあって、不思議なほど鮮明にそれらを認識できた。

 再び感じた死の気配。喧しかった心臓の音すら消えて、一呼吸すら叶わない。今度こそ終わったと思った。桜真は負けてしまったのだと思った。この闇には二度と、光の差すことはない。避け得ないだろう絶望。それを受け入れ、決めようとした覚悟をまた、桜が遮る。
 ひらりと舞った桜の花びら。直後に白い閃光が奔って、真っ白な毛並みの狼足が化物を押さえつける。そこで初めて、化物が巨大な牛のような姿をしていることを知った。

「まったく、油断も隙も無い」

 桜真の声だった。しかし彼の姿は四阿の屋根に隠れて見えず、外に出る。
 そこにいたのは彼女のよく知る桜真ではなく、木彫りの狼の頭を持った巨大な獣だった。

 狼の首から下、上半身は木ではなく普通の狼のようで、大きな鳥の翼をもち、下半身は猫を思わせた。その猫の下半身から伸びる尾は蛇の頭で、ちろちろと赤い舌を覗かせている。それらのいずれも、月明りを受けて美しく輝く白色をしていた。

 自分の背丈よりもずっと大きな獣だったが、不思議と恐怖は感じなかった。その存在に神聖さを感じたからではない。ただ、狼の瞳が、自分に優し気な光を向ける濃い桜色だったからだった。

「やはり、驚かないのだな」
「はい。だって、人型の時と同じ綺麗な目をしていますから」

 彼は木の狼の口端を歪めてから、視線を牛の化物へ戻す。そこに先ほどまであった温かな光は無く、冷徹さばかり感じさせる色が宿っていた。

「辞世の句は浮かんだか?」
「ふんっ、化物め。神に並ぶ力を持った貴様に、我ら小妖怪の心など分かるまい」
「そうか」

 桜真は狼の足に力を込め、何の躊躇(ちゆうちよ)もなく牛の頭部を踏みつぶす。妖の身体はそのまま墨汁のようになって、地面に吸い込まれた。

「あやかしものは余程力の強いモノでもなければ、死後に身体を残さない」

 美乃梨が不思議そうに眺めていたからだろう。桜真の言葉は今起きたことを教えるものだった。彼はそれから、どこからともなく水を出して手を洗い、その身を無数の花びらに転じさせる。やがて桜吹雪が収まると、美乃梨も見慣れた細身で長身の男の姿があった。

「すまない、あちらは囮だった」

 木面であるはずの顔が歪む。狼の顔をしていても、それが苦心を表しているのが分かった。
 美乃梨は迷うことなく彼のすぐ横まで歩み寄る。

「でも、ちゃんと守ってくれました」

 平均より少し高い程度の身長の美乃梨では、しっかり見上げないと桜真の顔は見えない。その彼女を見下ろす彼の表情は困惑しているようで、それが何故か、おかしくて仕方なかった。

「……君には、きっと一生叶わないのだろうな」

 月明りと共に、そんな呟きが漏らされる。

「一生って。まだ知り合ったばかりでしょう」
「ああ、そう、だったな……」

 桜真の声は寂しげで、妙に気になった。これは聞いても良い事なのかと、考えている内に、桜真が口を開く。

「私が、君を守ろう。如何なるものからも、必ず、守り通して見せよう」

 美乃梨は己の胸が、一度ばかり高鳴るのを感じた。祭り囃子の太鼓よりも強く、大きく、鳴るのを聞いた。今日初めて出会ったはずなのに、何年も前から彼のことを思っていたような、そんな錯覚を覚えた。
 ――いやいやいや、さすがにそれは無いって!

 急激に顔の熱くなるのを自覚して必死に否定する。相手が人外だなんてことは関係ない。つい数時間前に会ったばかりの相手に、そのような感情を覚えること自体がありえないと、勘違いだと言い聞かせた。
 ――そう、これはあれ。つり橋効果的な!

 急に俯いた美乃梨を桜真は不思議そうに見下ろす。

「どうした?」
「あ、いや、何でもないです!」

 勢いよく上げた顔に夜の冷えた風が当たる。それに心地よさを覚える程度には、顔の熱は残っていた。その熱も、真っすぐに見つめ返してくる桜色のせいで冷めてはくれない。
 ぐるぐると煮詰まる思考を、桜真の桜のような香りが加速させる。もう酒も飲める歳だというのに、美乃梨は自分が女子高生に戻ってしまったような心地がした。