贄月と桜の契り


「ずっと僕のこと、警戒してるね」

 ドキッと、美乃梨の心臓が鳴った。

「いや、えっと……」

 美乃梨の本能が警鐘を鳴らす。身体はそれに従ったのか、無意識のうちに少しずつ後ずさりをしていた。
 その様子に確信を得たのか、付喪神は鏡の内から表情を消す。

「仕方ない。無理矢理連れて行こうか。ここが神域じゃなかったらもっと楽な仕事だったんだけど」

 付喪神の纏う雰囲気まで変わった。一も二も無く美乃梨は向きを変え、走り出す。

「逃がさないよ」

 化物は鏡の身体を先ほどよりも高く浮かせ、凄いスピードで追いかけてくる。美乃梨の足は早い方だが、直に追いつかれるのは確実だった。

 それでも初めは諦めず、角を使いながら大通りへ向けて駆ける。
 何故かここまで通ってきた道以外にも覚えがあったのが幸いした。

 ――たしか、この先に樽が……。あった!
 気配を探って距離を確認し、神術で樽を崩す。中身の詰まった樽が付喪神に向かって降り注いだ。
 しかし付喪神は器用に身体を捻ってこれを躱すと、速度を落とさないままに美乃梨を追う。

 ――ダメ、逃げ切れない!
 美乃梨は逃げるのを諦め、振り向いて左手を突き出す。そして、巫術(ふじゆつ)を行使するための祈りの言葉を口にした。

「『桜の護りよ、月の祈りに応えたまえ』」

 速度を重視した短い文言。
 その呪文と美乃梨の祈りに指輪は込められた力を解放し、真っ白な光を放つ。

「ぎゃあああああっ!?」

 眩い閃光に鏡の化物は飲み込まれ、絶叫した。
 その光を見つめ、桜真の光だ、と美乃梨は零す。何度も自分を助けた光に、彼女は心の落ち着くのを感じた。

 やがて光が収まると、僅かな桜の花びらと共に鏡の化物は地に落ちる。天を仰ぐ形で倒れたその鏡の体は、端から墨のような液体に変じていっているところだった。

「ぐぅぅ、楽な仕事だと思ったのにぃ……」

 化物は鏡面に般若の形相を浮かべて美乃梨を睨む。
 もう、この妖の死は確定してしまった。何をどうしたところで、その消滅する未来は変えられない。

 一枚の花びらが木の枝から離れて地に落ちるほどの時間もあれば、この世から完全に存在を消滅させることとなるだろう。

 美乃梨はそのまま立ち去っても良かったのだが、どうしてか、最後まで見届けようと思った。自衛のためとはいえ、その命を奪ってしまったのだから。

 だが、それがいけなかった。

「……ぐぅ、どうせ消えるなら時ノ主に目を付けられようが関係ない。お前も道連れだ、人間」
「えっ」

 妖の鏡面が怪しく光り、美乃梨の身体を包み込む。咄嗟に身体を庇うようにして両腕を上げたが意味はない。浮遊感を覚えた直後、美乃梨の視界は不思議な黒い空間を映していた。

 黒い空間にはいくつもの窓が浮かんでいて、美乃梨はその一つに吸い寄せられていく。その先に見えるのは、彼女もよく知る、人の世の町並みだ。

「だめ、外に出たら……!」

 脳裏に浮かぶのは、夜の闇よりも深い深淵。夢の中でも彼女を飲み込んだ、ヘドロの絶望。
 神術も使ってどうにかその窓から離れようとするが、叶わない。あらゆる努力虚しく美乃梨の身体は外の世界に吐き出されて、冷たい雨に濡れる。そこは夢の中で堕霊に食われた場所だった。

「早く、戻らないと」

 現在位置は、時守神社からはそれなりにある。それでも走れば、もしかしたら堕霊(だりよう)に追い付かれる前に帰れるかもしれなかった。

 すぐそこの角を曲がって通りに抜け、そのまま暫くいけば時守神社への最短距離になる。
 そう思って走り出した美乃梨の周囲が、不意に暗くなった気がした。黄昏時を通り越して、急に夜になったような暗さだ。

「えっ……?」

 美乃梨は咄嗟に上を見る。そこには、星も映さぬ深淵があった。

◆◇◆

 美乃梨の髪を春の夜風が(なび)かせた。まだ春の初めということもあり、その風は冷たく、いくらか強い。
 月明りに照らされた住宅街に響く足音は一つだけ。その閑静な空気は、そこにある者に何とも言えない寂しさを感じさせる。
 
 つい先ほどまで大学のサークルに参加していた彼女は、空の月を見上げてほっと息を吐いた。

「綺麗な月……」

 ぽつりと漏れた声には溜息のようなものも混ざっていた。
 大学のサークルもまったく楽しくない訳ではない。あと半年もすれば三回生になるという現在まで所属して、こうして活動にも頻繁に参加しているのだ。愛着も一応はある。

 それでも、周囲と自分のズレは否応なしに感じてしまっていた。

 美乃梨が視線を前に戻すと、そのズレの元凶が視界に映る。そこには物語の中でばかり話を聞くような不思議な存在たちがいた。二足歩行の動物に、浮遊する毛玉、果ては異形の鬼まで。人ならざる彼らは何か用でもあるか、急いでどこかへ向かっている。

 彼らの向かう先に、美乃梨は心当たりがあった。
 ――時守神社か、最近行ってないなぁ。

 幼い頃より、人ならざるモノに襲われた時に逃げ込んでいた神社だ。神社にも多種多様な人ならざるモノたちがいるのだが、美乃梨を襲うような存在は何故か、時守神社の境内まで追って来ようとはしなかった。

 目の前の角を曲がればすぐのところに時守神社はある。美乃梨は久しぶりにお参りしていこうか、と考えながらも歩みは止めない。

 夜に神社へ行くのは良くないという話もあるが、美乃梨からすれば関係の無い話だ。朝でも人ならざるモノ達はいるし、夜でも神社は彼女を守ってくれた。
 ――いや、もう遅いし今度にしよう。疲れたし。

 無意識に神社の方へ向きかけていた足を止め、自宅方面へ方向を修正する。通り過ぎていく彼女を、時守神社はただ静かに見下ろしていた。