贄月と桜の契り


「はぁはぁはぁ……」

 美乃梨の息は完全に上がり、雨に混じって汗も滴る。
 ――もう、動けない。迎え撃つしか……。

 しかしあのすばしっこさだ。美乃梨の腕で術を当てるのは難しい。
 規模を妖の逃げられない程に大きくすれば問題にならないのだが、既に森は抜けてしまった。
 ――もっと早く決断できれば……。いえ、後悔するより先を考えないと。

 周囲を見回して、状況を確認する。
 いっそう激しくなった雨も相まって夜闇が深く、彼女の目で認識できる範囲は限られている。
 ちょうど良い場所は、なんとか見つけられた。

 ――袋小路……。反対側は、ずっと直進……。
 誘いこむには絶好の状況だった。
 美乃梨は突き当りの壁に縋って座り込み、反対側からやってくる気配を待つ。雨に濡れた長髪が顔にかかっていたが、彼女にはそれを払う気力も無かった。

 ――チャンスは、たぶん一回……。
 外せば、もう逃げる余力はない。
 左右に避ける余裕はなく、上に躱されることだけ考慮すれば当てられるだろう状況だ。
 それでも相手は妖。小物といえど、一つだけ強みとなる術を持っている存在。

 ――あれが何の妖か分かれば対策できるのに……。
 美乃梨は息を整えながら、準備をする。
 前方の地面に岩の棘を生やしたのは、飛び越えてくれないかと期待を込めてのことだ。

 続けて術の準備。
 化物は勝ちを確信したのか、幸いなことに歩いて近づいてくる。

 時間は十分。失敗しないよう丁寧に術の完成形を想像して、思いすらもその祈りに込めた。

「馬鹿な人間だ。お前らと違って夜でも見えるんだ。こんな見え透いた罠に引っかかるか」
「あなたみたいなのには、これで十分でしょ」

 美乃梨は不敵に笑った。それで挑発に乗ってくれたら儲けもの程度に考えての事だったが、いつか誰かが言っていたように、小物はあまり賢くないのだろう。化物の目が血走って、怒りにその身を振るわせるのが美乃梨にも分かった。

「一思いに丸飲みにしてやろうと思ってたが()めだ。足から少しずつ齧って痛めつけてやる!」

 化物は身を低くすると、そのまま棘を超え、飛び掛かってきた。
 つまりその体は宙にある。逃げ場は、ない。

 美乃梨は全身全霊を込めて術を具現化する。
 
 生み出されたのは桜の狼。桜吹雪が模った巨狼が唸りをあげて、イタチの化物へ襲い掛かる。

「畜生めっ!」

 イタチの化物もただでは受けない。両の腕を振り下ろし、真空の刃を生み出した。
 それは妖の代名詞になるものであり切り札的な術であったが、美乃梨の()()()()()()()()()()()()()()というイメージを切り裂くには力が足りない。刃は狼と衝突すると同時に弾けて消滅する。

「ずりぃだろ……!」

 最後に美乃梨へ届いたのは、そんな悪態。
 淡く光る桜狼(おうろう)がイタチの喉笛へ食らいついて、そのまま飲みこんだ。桜吹雪は化物の身体を切り刻み、そして遥か彼方の夜の闇へ消える。もし後ろに建物があったのなら、数件ほど破壊してしまっていただろう。

「はぁ、はぁ……。やっ、た?」

 美乃梨は再び肩で息をしながら目を凝らす。地面に作った棘の向こうに横たわった大きな影があるのが見えた。
 ハッと息を飲むが、影が動く様子はない。しばらくじっと見つめて、それでも変化の無いことを確認してから、ようやくほっと息を吐いた。

 ――生きてるだけ、か。
 原型を保っている以上イタチの化物が生きているのは確実だが、それでももう身動きはとれないようだった。
 トドメをさす必要は無いはず、と美乃梨は体力を回復するのに注力する。化物が意識を取り戻す前にどうにかこの場を離れたかった。

 ――そろそろ桜真も帰ってくるかな……。そしたら、もっと色々教えてもらおう。
 神という存在の影響を考えると、今回のように桜真が時神と一緒に出掛けてしまって美乃梨を守れないということは殆どない筈だ。しかし絶対にないと言い切れるものではなく、その時に間違いが起きてしまわないよう、手段を増やしたかった。

 ――あ、買ったの、拾ってこないと。
 限界を超えて走ったからか、中々動けるようにはならない。買ったものを回収するなら、身の安全だけでなく、体力的な意味でも桜真に付いて来てもらう必要があるだろうとぼんやり考える。

 ――とりあえず、神社に戻って着替えないと。もうびしょび、しょ……。
 顔がさっと青ざめるのを自覚した。蒼白と言っても過言ではない。髪を伝う水の冷たさも、今ばかりは感じられない。
 自身の濡れている意味。それを考えると、絶望に近い感情が湧き上がってくる。

「行かなきゃ……!」

 再度身体に鞭を打って立ち上がり、駆けだそうとする。この場に長くとどまるわけにはいかなかった。

 しかし美乃梨は、すぐに足を止めることになった。
 ゾッとするような悍ましい気配がして、右手の甲が熱くなる。

「う、ぅ……」

 今しがた目を覚まし、苦悶の声を上げたイタチの妖が原因ではない。
 その向こうから来る、不気味な赤色をした二つの光が理由だった。

「て、めぇ、は……。二人を、返しやが、れっ……!」

 イタチの妖が不気味な光、後ろ足の無い蜥蜴の形をしたヘドロの化物を睨む。美乃梨の脳裏に、鎌鼬が常に三匹で行動している妖だというネットの情報が過った。

 ヘドロの化物、堕霊(だりよう)はイタチの妖を気にも留めず、美乃梨をじっと見る。それから、ニタっと大きな口を歪めて笑った。

「い、や……」

 美乃梨の口から辛うじて漏れた声は、時守町の内では降らない雨の音にかき消されて夜に混ざる。

 神力の動く気配があった。美乃梨と、ついでとばかりにイタチの妖の身体が浮かせられて、堕霊の方に引き寄せられる。美乃梨が抵抗しようにも力が入らず、動くことすらままならない。

「助けて、桜真……」

 美乃梨の目尻に涙が浮かび、瞳が揺れる。無意識に首を振ろうとしてもそれすらできず、彼女の視界は、夜の闇よりも深い黒で一杯になる。
 上下左右から光が失われ、雨が彼女の身体を打つ感覚も消えた。唯一残った後方からの光明も、次第に細くなって、そして、彼女の意識は闇に溶けた。


「はぁはぁはぁ……」

 美乃梨の息は完全に上がり、雨に混じって汗も滴る。
 
(もう、動けない。迎え撃つしか……)

 しかしあのすばしっこさだ。美乃梨の腕で術を当てるのは難しい。
 規模を妖の逃げられない程に大きくすれば問題にならないのだが、既に森は抜けてしまった。

(もっと早く決断できれば……。いえ、後悔するより先を考えないと)

 美乃梨は周囲を見回して、状況を確認する。
 いっそう激しくなった雨も相まって夜闇が深く、彼女の目で認識できる範囲は限られている。
 ちょうど良い場所は、なんとか見つけられた。

(袋小路……。反対側は、ずっと直進……)

 誘いこむには絶好の状況だった。
 美乃梨は突き当りの壁に縋って座り込み、反対側からやってくる気配を待つ。雨に濡れた長髪が顔にかかっていたが、彼女にはそれを払う気力も無かった。

(チャンスは、たぶん一回……)

 外せば、もう逃げる余力はない。
 左右に避ける余裕はなく、上に躱されることだけ考慮すれば当てられるだろう状況だ。
 それでも相手は妖。小物といえど、一つだけ強みとなる術を持っている。

(あれが何の妖か分かれば対策できるのに……)

 美乃梨は息を整えながら、準備をする。
 前方の地面に棘を生やしたのは、飛び越えてくれないかと期待を込めてのことだ。

 続けて術の準備。
 化物は勝ちを確信したのか、幸いなことに歩いて近づいてくる。

 時間は十分。失敗しないよう丁寧に術の完成形を想像して、思いすらもその祈りに込めた。

「馬鹿な人間だ。お前らと違って夜でも見えるんだ。こんな見え透いた罠に引っかかるか」
「あなたみたいなのには、これで十分でしょ」

 美乃梨は不敵に笑った。それで挑発に乗ってくれたら儲けもの程度に考えての事だったが、いつか誰かが言っていたように、小物はあまり賢くないのだろう。化物の目が血走って、怒りにその身を振るわせるのが美乃梨にも分かった。

「一思いに丸飲みにしてやろうと思ってたが()めだ。足から少しずつ齧って痛めつけてやる!」

 化物は身を低くすると、そのまま棘を超え、飛び掛かってきた。
 つまりその体は、宙にある。

 美乃梨は全身全霊を込めて術を具現化する。
 
 生み出されたのは桜の狼。桜吹雪が模った巨狼が唸りをあげて、イタチの化物へ襲い掛かる。

「畜生めっ!」

 イタチの化物もただでは受けない。両の腕を振り下ろし、真空の刃を生み出した。
 それは妖の代名詞になるものであり切り札的な術であったが、美乃梨の()()()()()()()()()()()()()()というイメージを切り裂くには力が足りない。刃は狼と衝突すると同時に弾けて消滅する。

「ずりぃだろ……!」

 最後に美乃梨へ届いたのは、そんな悪態。
 淡く光る桜狼(おうろう)がイタチの喉笛へ食らいついて、そのまま飲みこんだ。桜吹雪は化物の身体を切り刻み、そして遥か彼方の夜の闇へ消える。もし後ろに建物があったのなら、数件ほど破壊してしまっていただろう。

「はぁ、はぁ……。やっ、た?」

 美乃梨は再び肩で息をしながら目を凝らす。地面に作った棘の向こうに大きな影があるのが見えた。
 ハッと息を飲む彼女だが、影が動く様子はない。しばらくじっと見つめて、それでも変化の無いことを確認してから、ようやくほっと息を吐いた。

(生きてるだけ、か)

 原型を保っている以上イタチの化物が生きているのは確実だが、それでももう身動きはとれないようだった。
 トドメをさす必要は無いはず、と美乃梨は体力を回復するのに注力する。化物が意識を取り戻す前にどうにかこの場を離れたかった。

(そろそろ桜真も帰ってくるかな……。そしたら、もっと色々教えてもらおう)

 神という存在の影響を考えると、今回のように桜真が時神と一緒に出掛けてしまって美乃梨を守れないということは殆どない筈だ。しかし絶対にないと言い切れるものではなく、その時に間違いが起きてしまわないよう、手段を増やしたかった。

(あ、買ったの、拾ってこないと)

 限界を超えて走ったからか、中々動けるようにはならない。買ったものを回収するなら、身の安全だけでなく、体力的な意味でも桜真に付いて来てもらう必要があるだろうと彼女は考える。

(とりあえず、神社に戻って着替えないと。もうびしょび、しょ……)

 美乃梨の顔がさっと青ざめた。蒼白と言っても過言ではない。髪を伝う水の冷たさも、今ばかりは感じられない。
 自身の濡れている意味。それを考えると、絶望に近い感情が湧き上がってくる。

「行かなきゃ……!」

 再度身体に鞭を打って立ち上がり、駆けだそうとする。彼女がこの場に長くとどまるわけにはいかなかった。

 しかし美乃梨は、すぐに足を止めることになった。
 ゾッとするような悍ましい気配がして、美乃梨の右手の甲が熱くなる。

「う、ぅ……」

 今しがた目を覚まし、苦悶の声を上げたイタチの妖が原因ではない。
 その向こうから来る、不気味な赤色をした二つの光が理由だった。

「て、めぇ、は……。二人を、返しやが、れっ……!」

 イタチの妖が不気味な光、後ろ足の無い蜥蜴の形をしたヘドロの化物を睨む。美乃梨の脳裏に、鎌鼬が常に三匹で行動している妖だというネットの情報が過った。

 ヘドロの化物、堕霊(だりよう)はイタチの妖を気にも留めず、美乃梨をじっと見る。それから、ニタっと大きな口を歪めて笑った。

「い、や……」

 美乃梨の口から辛うじて漏れた声は、時守町の内では降らない雨の音にかき消されて夜に混ざる。

 神力の動く気配があった。美乃梨と、ついでとばかりにイタチの妖の身体が浮かせられて、堕霊の方に引き寄せられる。美乃梨が抵抗しようにも力が入らず、動くことすらままならない。

「助けて、桜真……」

 美乃梨の目尻に涙が浮かび、瞳が揺れる。無意識に首を振ろうとしてもそれすらできず、彼女の視界は、夜の闇よりも深い黒で一杯になる。
 上下左右から光が失われ、雨が彼女の身体を打つ感覚も消えた。唯一残った後方からの光明も、次第に細くなって、そして、彼女の意識は闇に溶けた。