DOLLは月夜に恋してる


 ジャズ喫茶エテでステージに出演した数日後、夏休み最後の部活中。
 終了が迫る15時45分くらいに、視聴覚室になぎ先輩が姿を現した。

「わぁ、なぎ先輩だ!」
「なぎ先輩、どうしたんですか?」

 今日は大道具制作の日じゃない。あらたが驚いているから、打ち合わせでもないはずだ。

「予備校早めに終わったから。がんばってる後輩たちに差し入れ」

 にっこり顔で両手に持つコンビニ袋を差し出す。ジュースやお菓子がパンパンに入っていた。

「やりぃっ、ありがとうございます!」

 祥太が大喜びで受け取り、残る15分の練習をなぎ先輩も見学する。
 終了時刻になると、部員たちはお預けをくらっていた差し入れに飛びついた。

「カラ〇ーチョもーらいっ!」
「あ、剣斗ずるい! それ俺が狙ってたのに!」
「こらこら、ケンカするな1年生。シェアしたらいいだろ」 

 盛り上がる部員たちを、なぎ先輩は同じ3年生たちと少し離れたところで楽しげに見守っている。

「ありがとうな、渚。気遣ってくれて」
「いえいえ。オレもみんなの顔見たかったから」
「受験勉強はどうだ? はかどってるか?」
「まぁ、それなりにね。それより、みんなも食べて食べて」
「ああ、ありがたく」

 3年生も加わり賑やかなお菓子パーティーが始まった。
 あらたが「この部屋にいられるのは17時までだからね~」と声を上げている横で、僕もお菓子をつまんでいると──

「麻青、ちょっといい?」

 さりげなく傍に来たなぎ先輩に、小さく呼びかけられる。

 『また今度話そう』と言われていたから、もしかしたらという予感はあった。
 そのまま先輩は「ちょっとトイレ」と言って外に出ていったので、少し遅れて僕も部屋を出る。
 廊下を進むと、右手にある階段の踊り場から「こっち」と声がかかった。
 1階上まで上がって、次の踊り場でなぎ先輩は足を止め、僕を振り返る。

「この間の件だけど、本気?」
「本気です」

 即座に答えると、なぎ先輩はいかにも困ったという顔を作った。

「でもキミ、今は部活が大変なんじゃないの。今年は都大会狙ってるって聞いたよ。練習に集中したほうがいいんじゃない?」
「部活もちゃんとやります。でもお金を貯めたいのも本当ですから。部活があるし、学校のある期間に継続バイトを入れるのって難しかったんです。それなりにシフト入れないと雇ってもらえないし。だから単発で入れるバイトはすごくありがたいんで、ぜひやりたいです」
「…………」

 先輩は無言で僕を見ている。真意を探られているのか、説得の言葉を探しているのか──その両方かもしれない。

「嘘じゃないですよ?」
「……嘘だとは思ってないけど」

 目にかかる前髪を右手でくしゃっと掻き上げて、先輩は天井を仰いだ。

「……はぁ。意外とずるい子だったんだね、キミ」
「え、ずるい?」
「ずるいでしょ。そう言ったらオレが拒めないのわかって言ってるんじゃないの」
「そんなつもりじゃ……」

(僕はただ、もっと先輩とのつながりが欲しくて……)

 そこまで考えてすぐ、ああたしかにずるいな、と思った。
 一番の理由は先輩に近づくことなのに、この気持ちは言わずにもうひとつの理由だけをもっともらしく口にしているんだから。
 近づきたいという真意は、口にしなくても伝わっているんだろうなと思いながら。

(だけど……ずるかったとしても、それでも……)

「まったく。キミはそういうことしない、いい子だと思ってたのに」

 さっきは先輩の髪を乱した手が、今度はぽふっと僕の頭にのった。トクンと跳ねた心臓を、僕はお腹に力を入れて抑えようとする。

「……そういうことって、どういうことですか」
「ラインを超えること。オレに影響を与えること、与えさせること」

 超えてほしくないラインがある。その意思を先輩が明確な言葉にしたのは初めてだった。 
 僕は昂揚する。
 これまでは笑顔の奥に隠していた本音を、彼は今、形として僕に見せてくれた。
 それは間違いなく仮面の奥にある感情。だから、拒まれているのにうれしい。
 そして喜んでいる自分を自覚して、改めて気づいた。

(僕、思っている以上にこの人のことが好きなんだ)

「先輩が誰かに影響を与えるのも、嫌なんですか?」

 しばらく考えてからそう問うと、先輩は間を置かずに答えた。

「ああ、望まない。与えられるのと同じくらい、与えるのも。プラスにもマイナスにも……何にもなりたくない」

 先輩がいつも超然として見える理由がわかった気がした。
 何も与えず、何も与えられずに生きていきたい。そう願っている彼は、やっぱり彼自身が作った膜の向こうにいるのだ。一緒に笑ってるようでいて、彼の世界と僕たちの世界は、本当の意味では溶け合っていない。

(だから……僕のすることにも、強く反対できないってことか)

「迷惑、ですか……?」

 くすぐるようにくしゃくしゃと僕の髪を掻き混ぜてから、先輩は諦めの表情でため息をついた。

「好ましくはないけど、言った通りだよ。キミが本当に働きたくて、それを実織が受けるなら、キミと実織の契約。オレに妨害する権利はない」

『でも、これ以上オレには踏み込んでこないで』

 言葉にはせずとも、その忠告が含まれている。それをお互いに承知のうえで、決着がついた。

「ありがとうございます」
「とはいえ、本当に無理はしないように。麻青にとって今一番大事なのは演劇部なんだから。本番まで1カ月切ってるんだからね。実織にもそこは伝えておくよ」
「はい、わかってます」

 こうして僕は、先輩の世界に一歩を踏み出した。
 それがどれくらいのタブーか今はまだはかり知れなくても、引き返すことはしたくないと願いながら。


 ●〇●〇


 9月になり、2学期が始まった。
 下旬には舞台本番、高校演劇大会の地区大会が控えている。
 練習はラストスパートに入り、毎日最終下校時刻間近までの活動が続いていた。

「15分休憩入れまーす!」

 あらたの号令で各自が自分の荷物を置いた場所に散らばり、お茶やスポドリで水分補給する。視聴覚室はエアコンが効いてるけど、それでも練習に熱が入ると暑い。

「この調子なら予定通り、今週末から通し稽古に入れそうだな」
「はい、そのつもりです」

 るー先輩に声をかけられたあらたがうなずいている。傍らには僕と、他に香納、くら先輩、ながやん先輩がいた。

「来週にはりょう先輩、なぎ先輩と最終確認をして、何回か練習の日程も決めたいと思ってるんですけど。お二人ともお変わりないですか?」

 急になぎ先輩の名前が出て、僕はついピクッと手を止める。
 学年ごとに教室のある階が違うので、夏休み最後の部活で話した以来、僕もなぎ先輩に会うどころか、見かける機会もなかった。

「おう、二人とも元気にしてるぞ」
「といっても、クラスが違うからそんなに詳しくは知らないが」

 くら先輩が言い、ながやん先輩が付け加える。
 二人は1組で、るー先輩は3組。りょう先輩となぎ先輩が同じ2組で、この場に同クラスの人はいない。でも選択科目や廊下なんかで、言葉を交わす機会はあるだろう。

「渚は毎日すぐ下校するから、ラインで連絡したほうが確実だよ」
「じゃあそうします。ってか毎日って、それ全部予備校ですか?」
「いや毎日はねーだろ」

 るー先輩のアドバイスにあらたが聞き返し、すかさず香納にツッコまれている。

「そういうもの? おれ、よくわかんなくて」
「のんきだな。俺らも来年だぞ」
「ええっ。詩希、もう受験のこと考え始めてるの? すごいね!」

 あらたと香納が脱線し始めたところで、るー先輩が「予備校は週2から、多くて4回くらいだろうな」と話を元に戻した。

「あ、そうなんですね」

(なぎ先輩、予備校のない日はバイトしてるのかな……)

 実織さんと何度かラインで話したけれど、挨拶程度。まだ実際にバイトの紹介はなく、なぎ先輩の話も特に出ていない。

(受験勉強もこれからどんどん佳境に入ってくだろうけど、なぎ先輩のステージを見学したり、一緒に働ける機会ってどれくらいあるんだろう)


 そして部活終了後。
 飲み物が切れたので、一人で自販機に寄ってから部室に向かっていると、

「お、麻青。ちょうどいいところに」

 後ろから追いついてきたるー先輩が、僕の隣に並んだ。

(ちょうどいいところに?)

 どういうことかと首をかしげる僕に、るー先輩は少しだけ声を落とした。

「麻青、もしかして渚のあのこと知った?」
「……あのこと?」
「バイトのこと」
「えっ!?」

 思わず大声を出してしまい、慌てて口を押さえる。
 その反応で察したようで、るー先輩は「やっぱりか」とつぶやいた。

「るー先輩、知ってたんですか?」

(みんなには言うなって口止めされてたから、てっきり誰も知らないと思ってた)

「オレが部長の時からやってて、時々外せない用事があるとか言うからさ。はっきり聞いたわけじゃないけど、なんとなくは。他の3年は誰も知らないだろうけど」
「……どういうことしてるかっていうのは?」
「それも本人からちゃんと聞いたことはないけど。あいつの性格から考えて、たぶんこういうことしてるんだろうなー、くらいは」
「……そうだったんですね」

 その推測がどんなものか、どこまで正しいのかはわからない。
 でも、るー先輩が知っていたとしてもなぎ先輩には口止めされているわけだから、深く触れずに自分のことだけ伝えた。

「実は、僕も同じバイトをすることにしたんです」
「麻青も?」

 今度はるー先輩が驚いて目を見張る。

「それ、あいつがOKしたのか?」
「一応。同じところから仕事を頂くっていうだけで、なぎ先輩と一緒になるかとかは、全然わかんないですけど」
「へぇ、マジか」

 まだ半信半疑の事実を租借するように、るー先輩は顎に指先をトントンと当てている。めったに動じない彼にしては、かなり驚いていた。

「……そんなにびっくりですか?」
「うん。正直意外だった。渚は、そっちの世界にはオレたちを入れたくないんだと思ってたから」

(さすがるー先輩。なぎ先輩のこともよく見てる……)

「その通りだと思います。でも、僕もバイトしたい事情があって、強くお願いしたので」
「……そっか、なるほどね」

 短くそう言っただけで、僕の事情を聞き出そうとはしない。彼のこういうところが僕は好きだ。

「僕、迷惑なことしてるでしょうか?」

 るー先輩なら客観的な意見をくれるだろうと思って、ためらいつつも尋ねてみた。
 数秒思案してから、彼は薄く微笑む。

「絶対に受け入れられないことなら、あいつはそう言うと思うよ。だから、そこまで言われてないならいいんじゃないか」
「……はい。ありがとうございます」

(るー先輩がこう言ってくれるなら、少しは受け入れてもらえてるって思ってもいいのかな……)