12月2週目の土曜日、夕刻。
渚は『ジャズ喫茶エテ』へと向かうため、駅の改札を抜けた。
(この駅で降りるのも今日が最後か)
卒業はもうしばらく先だが、実織から仕事を受けるのはこれで最後にしようと思っている。それよりも、春からの新生活に目を向けるべきだ。
おそらく問題ないだろうと思っていたが、先日無事に合格の通知を受け取った。
実家を出ることは、高校に入る前から決めていたことだ。両親との関係は変わらなくても、環境は大きく変わる。これまでのような息苦しさを感じることもなくなるかもしれない。
これまでの自分を一度リセットして、新しい自分を探していく。
(麻青と同じステージに立つのも……)
今から同じ舞台に立つ、無垢な後輩を思い浮かべた。
麻青を思い出す時、その姿はいつも大きな瞳を切なげに揺らし、こちらを見ている。
彼の気持ちに応えられず、そんな顔ばかりをさせてきたことを申し訳なく思う。
(……だけどそれも、今日で最後だ)
応えられない自分が最後にできる唯一のこと。
互いの世界を切り離す。
完全に隔てられれば、いつかは麻青も次に想う相手を見つけ、先に進んでくれるだろう。それを願うしかない。
「……あれ」
駅前の待ち合わせ場所に向かった渚は一度足を止めた。ほぼ約束の時間通りだが、誰もその場にいない。
(遅刻? いやまさかな……)
スマホを確認しようとポケットに手を入れたのとほぼ同時、振動が指先に伝わる。取り出して画面を確認すると、実織からの電話着信だ。
「もしもし?」
『渚? 大変なの、麻青くんが──!』
機械越しに耳へ刺さってきた切羽詰まった声に、それ以外の音が一瞬で彼方へ消え去った。
「なに? 麻青がどうしたの?」
『じ、実は今日、最後だからって、渚にサプライズ仕掛けてて……。そっ、その準備のために、こっそり早めにエテに顔出しててっ……』
実織の声は上擦り、震えていた。今まで、これほど取り乱している彼女の声を聞いたことはない。
(じゃあ、実織も麻青ももう店にいる?)
『麻青くっ、率先して動いて、くれててっ……』
「落ち着いて、実織。店で何があった?」
『バ、バックヤードの荷物がっ……棚から、落ちてっ……』
「───!」
何度も訪れたあの店のバックヤードを思い出すことは容易だった。
元からさほど広くない空間を、壁沿いを埋める備品などを収納した棚がさらに圧迫している。天井近くの最上段まで、普段使いしない装飾品などの荷物が段ボール箱に詰め込まれて積み上げられていて──
ドクンと心臓が鳴り、視界が赤黒い色で一瞬濁った。背筋を言葉にできない悪寒が駆けのぼる。
「それで麻青は? 今どうなってんの!?」
『ぜ、全然動かなくて……!』
「っ……!」
まだ店にいるとわかった瞬間、渚は駆け出した。
駅から店までは歩いて5、6分。走ればその半分もかからない。しかし駅前の道は通行人も多く、その間を縫う手間を今までの人生で最も煩わしく思った。
避けきれず何人かにはぶつかってしまい、その都度謝るが足は止めない。
ああ、そういえば実織との通話はどうしたのだったか。
どうでもいい。麻青のもとに向かうほうが先だ。
(動かないってなに。やめてよ。ダメだろ、麻青が、そんな)
いなくなるのは自分のほうで。麻青じゃない。絶対に、違う。
麻青には笑っていてもらわないと困る。誰よりも純粋で、頑張り屋で、一生懸命で。
まともに向き合おうとすらしないこんな卑怯な自分に、まっすぐな心を向け続けてくれた。情けない自分の事情にも寄り添い、手を差し伸べてくれた。
『先輩は、ご両親のことが大好きなんですね』
『諦めてほしくない。先輩も、ちゃんと本当の先輩で、幸せになってほしい』
『先輩のことが、好きなんですっ……』
あんなふうに言われたのは初めてだった。あんなにも真摯に、丸裸でぶつかってきてくれる存在を、麻青以外には知らない。
あんなにいい子、他にいない。麻青こそ、幸せにならなくてはいけない人間だ。
(オレなんか忘れて、これから幸せにって……)
──だけど。
それならなぜ、自分は今、こんな気持ちになっているんだろう。
全力で走っているのに、どんどん凍えていく体。油断すれば手足がまともに動かなくなりそうなほど、体内を冷たい吹雪が吹き荒れている。
怖い。心臓が押し潰されそうなほどに。気が狂ってしまいそうなほどに。
──麻青が、自分の前から消えてしまった世界を想像すると。
「っ……クソッ……!」
ジャズ喫茶エテに隣接した雑木林が見えてきた。夕暮れの街に濃い影を落とす林。その入口に、溶け込むようにレトロな洋館の喫茶店がある。
速度を落とさず、渚は裏手に回り勝手口からバックヤードに飛び込んだ。
「麻青っ!!」
「わっ!? ……へ? あれっ、なぎ先輩!?」
「え…………」
自分を迎えた声に、渚は呆然と立ち尽くす。
「ま、麻青……?」
麻青はそこにいた。
バックヤードの隅のほう、壁沿いの棚の前。
床が何かの液体で汚れている。その傍に、雑巾を手にして屈み込んでいた。
「え……な、なに、してんの……?」
「あ、えと、掃除です」
「は……?」
「なんか、仮置きしてたドリンク類の瓶が落ちちゃったらしくて。お店の人、皆さん忙しいみたいなんで、お手伝いを」
「お、手伝い……?」
(……待って。どういうこと、どういうこと?)
汗ばむ手に握っていたスマホを確認する。実織との通話は切れていた。
「ちょっ……、っ……」
頭を動かすより先に、ひゅっと喉が鳴った。徒歩5分の距離とはいえ、全力疾走した体への影響が、今になって感覚に直通する。
息は上がっているし、鼓動も壊れたメトロノームのように速い。汗だくで、額や背中に汗が伝っていた。
驚いてぽかんとしていた麻青も立ち上がり、心配そうに歩み寄ってくる。
「ていうか、なぎ先輩はどうしたんですか? 学校のほうに行ったんじゃ……?」
「……いや……ごめん。今まったく、状況つかめてなくて……」
何がどうなっているのか皆目見当がつかない。
(ああ、でも──)
麻青は、目の前にいる。それだけは確かだった。
「…………よかった」
倒れ込むように、その体に腕を回す。
全身から力が抜け、実際にほとんど倒れていた。のしかかってくる荷重に、麻青も足をふらつかせる。
「えっ、な、なぎ先輩!? だ、大丈夫ですか!?」
「……あんまり大丈夫じゃない」
(死ぬかと思った)
駅からこの店まで、真っ暗なトンネルの中を走っているような心地だった。月も星もない、暗黒の闇を。
ちょうどひと月ほど前、家を飛び出し数日帰宅しなかった。高校生が一人で夜を明かせるところを探すのは難しく、夜になっても心当たりに声をかけながら、街を彷徨い歩く日が何回かあった。
今日、帰る家がないという状況。
これまで本当の家族はいなくても、帰る場所を失うことはなかった。血縁者ではなくても、帰りを待ってくれている人はいた。
そんな自分にとって、あの時、どこにも行き場がないという現実に恐怖を覚えた。居場所がないということは、こんなにも心を黒く埋めつくすのかと。
(でも……さっきの数分間に比べたら、どうってことない)
麻青の身を案じて走り続けた道のり。そのほうが、何倍も恐ろしかった。
「…………勘弁して、マジで」
(こんな気持ちにさせられるとか、マジで無理)
「え……あ、の……す、すみません……」
渚に抱きつかれたままでうろたえつつも、麻青は謝る。その手が満身創痍の渚をいたわるように、こわごわと背中に触れた。
「先輩、えと……よくわからないんですけど……僕は、大丈夫ですから……」
「……うん。みたいだね」
(おかげで、こっちがボロボロだよ)
まだ、ドクドクと速い脈動が全身を駆け巡っている。それでも多少は冷静さが戻り、麻青の肩に手を置いてゆっくりと体を離した。
ちょうどその時、店内へと続く扉からウェイトレス姿の女性スタッフが一人、バックヤードへ入ってくる。
「麻青くん! 手が空いたから掃除代わるわ──って、あれ。渚くんも来てたの?」
「あ、はい。こんにちは」
顔見知りのスタッフだ。渚は麻青からさらに一歩距離を取り、どうにかぎこちない笑顔を作った。
「……そろそろステージの準備をしたいので、麻青を迎えに」
「うん、そだよねー。ごめんね、片付けなんか手伝わせちゃって」
「いえ、僕がやるって言ったことなので。でもすみません、まだ終わってないんですけど……」
「いいよ、割れた瓶片付けてくれただけで充分! 後はやるから、支度しに行って」
「わかりました、よろしくお願いします」
床掃除を彼女に任せ、渚と麻青は勝手口から外に出た。
雑木林が横に迫る狭い空間で二人だけになると、微妙な空気が漂う。
なぜ渚が必死の形相で駆け付けたのか把握できていない麻青は、いまだ困惑を色濃く浮かべていた。
「迎えに、来てくれたんですか……?」
明らかにそれだけとは納得していない顔で、おずおずと見上げてくる。
「……うん、いや、オレもまだ整理できてないから、とりあえず言っただけ。それより、実織がどこにいるかは知ってる?」
「会ってないんですか? なぎ先輩を迎えに、駅前に行ったと思ってたんですけど……」
「そう」
(実織が単独で仕組んだってことで間違いはなさそうだな)
渚は麻青を待たせて少し距離を取ると、実織に電話をかけた。すぐにつながり、『もしもしー』と腹立たしいほど明るい声が聞こえてくる。
「どういうこと、実織?」
感情を抑えて低く問うと、やはり実織はけろりとした口調で、
『あれ、麻青くんから聞かなかった? スタッフさんが腕ぶつけて、棚のボトルが何本も割れちゃってさ。後片付けが大変で、麻青くんが『僕手伝いますよ!』って。ほんといい子だよねぇ』
「それは聞いた。……『全然動かない』っていうのは?」
『店の人が、ステージの準備があるだろうからもういいよって声かけたんだけど、麻青くん、まだ時間の余裕はあるから平気ですって、その場から全然動こうとしなくてー』
いかにも『私何も嘘はついていませんけど何か?』という様子の白々しい声音に、渚はピクピクとこめかみが震えるのを懸命に堪え、
「あのさ。騙してないのはどこの部分なのか教えてくれる?」
『サプライズ準備のために、渚以外で早めに集まってたのはホントだよ。詳しく知りたかったら学校来て。ビルの前にいるから』
なんのことはない、すぐ近くの距離で自分からの連絡を待ち構えていたらしい。
「行こう、麻青」
「あ、はいっ」
まだ困惑している麻青を連れ、渚は大股に雑木林の反対側にある校舎ビルへと向かった。



