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16時。練習が終わると、僕は制服に着替えるため部室に移動した。
ジャージで来てそのまま帰る子もいるけど、僕は着替えるようにしている。
「なぁなぁ、カラオケ行かね?」
「いいですね、行きます!」
傍で着替えていた祥太の誘いに、1年の茂城大地が速攻でのった。そのまま僕のほうを見て、
「麻青先輩も行きません?」
「あ、ごめん。僕はこの後バイトがあって」
「えっ。麻青先輩、バイトしてるんですか?」
反対側から剣斗が話に入ってくる。
「うん。夏休みだけだけどね」
「そういえば麻青、去年の夏休みもバイトしてたな」
「ふえー、すご。今回大きい役なのに、大変じゃないんですか?」
「週に数回、できる範囲でだから。別に無理はしてないよ」
話しながら手早く着替えを終え、荷物を手に取った。
「それじゃ、帰るね。また明日」
手を振り、部室を出る。
そそくさと、少し逃げるみたいな感じになったのは自覚があった。
部活終了前から、僕は他のことを気にして気がそぞろだ。
「……会えなかったなぁ」
生き急ぐような蝉の大合唱を浴びつつ、正門までの道を歩きながらつぶやく。
(もう来てるのかな。タイミングが合えば視聴覚室で会えるかもって思ってたけど)
バイトがなければ、誰かと雑談しながらさりげなく待つこともできた。
(次の火曜ならバイトもないのに……)
「あれ、麻青?」
「……!」
蝉の立てるざらついた音を縫って、クリアな声が届いた。
僕は前のめりになる気持ちと裏腹に足を止める。
「なぎ先輩……!」
前方、3メートルくらい先にその人が立っていた。
その姿を見た瞬間、騒がしい音のすべてが遠のいたように感じる。
絶対に気のせいだとわかっているのに、涼やかな風が吹き抜けたような錯覚を覚えた。
(……会えた)
満ちていく喜びと同時に思う。
この人は、やっぱりいつ見ても──綺麗だ。
「久しぶりだな。今帰り?」
「は、はい」
「そっか。オレは打ち合わせ……なんだけど、少し遅刻」
片眉を上げてちょっとおどけたように笑う。
「聞いてます。大丈夫ですよ、予備校が終わり次第で時間はかっちり決まってないって、あらたも言ってましたから」
「うん。早めに終わったら練習覗きたいと思ってたんだけどな。無理だった」
言いながら、右手で長い前髪をかき上げた。すっと伸びた形のいい眉があらわになる。
そのひとつひとつの所作や体のパーツに、僕は見入った。
僕は多分、この人に恋をしている。
確信はまだないけど、そうなんだろうと思う。
「……先輩、だいぶ髪が伸びましたね」
先輩は180㎝と背が高い。僕が見上げながら言うと、彼は「ああ」と指先に髪を絡めた。
「切るの面倒で、いつの間にか」
染めていない黒髪は、僕より細くて柔らかそうだ。少しだけクセがある。
襟足は肩に届くくらい伸びたそれを、今日はハーフアップにしていた。
「変?」
「いえ、そんなことは」
初めて見たけれど、似合っている。先輩もけっこう色白で細面だけれど、背が高くて肩幅もあるので女々しい感じはしない。
「……先輩に、合ってると思います」
(優しいのに、冷たくて綺麗な先輩に)
「そう? ありがと」
先輩は穏やかに微笑んだ。
でも、僕から目線を外して顔を上げると、わずかに眉を寄せる。
「まぶし」
「ああ……」
西日がまぶしかったようで、先輩は額に手をかざした。
「オレさ、夏の空ってちょっと苦手なんだよね」
「そうなんですか?」
なんだか覚えのあるセリフだと思いながら聞き返す。
「なんか、夏を謳歌していない人間を追い出そうとするような威圧感がない? 淀んだ人間はこの世界に不要だって言ってるような」
「それは……はい、わかります」
すごく、わかる。
(先輩も、昔の僕と同じこと考えてたんだ)
「だよね」
(でも、僕は夏空も好きになれたけど……先輩は苦手なままなのか)
「まぁ、悪いのは空じゃなくてこっち側なんだろうけど」
柔和な笑みに、また一瞬の冷たさを垣間見た気がした。
(やっぱりこの人は、月みたいだ)
意識が急速に内側へ引き寄せられていく。記憶の中にある思い出の光景へ。
事あるごとに何度も思い出している。
──あれは去年の冬。とある日の部活終わりのこと。
「わ。今日、満月かぁ……」
冬の日没は早い。放課後の部活を終えた頃には太陽はすっかり沈み、空は藍色に変わっていた。
僕は帰宅途中、持ち帰るジャージを忘れたことに気づいて一人で引き返した。足早に部室棟への道を進んでいた時、空に浮かぶ満月に気づく。
くっきりとした薄いクリーム色の月だった。空の高い位置に煌々と輝いている。
月光の降る下には半分ほどしか埋まっていない教員用の駐車場があって……
その硬質なアスファルトの上に、彼がいた。
「──、──……」
真冬だというのにコートも着ず、ブレザーのボタンを開けた制服姿で。
月を臨むかのように顔を上げて……歌っている。
(あの人……なぎ先輩?)
多少距離があったけれど、すぐにそう気づいた。
当時、僕は彼が少し苦手だったから、余計敏感に察したのかもしれない。
「──、──……」
彼は一人、何かの曲を口ずさんでいる。
話し声よりワントーン高い澄んだ声が、途切れ途切れにこちらまで届いた。
歌詞は英語のようで、知らない僕の曲だ。
(知らないけど……綺麗な曲だな……)
ゆったりと、それでいてどこか切ないメロディライン。
旋律を紡ぎ出す先輩の姿も、綺麗だった。
月の光に青白く照らされて、白い肌がまるで発光しているよう。
月を見ているのかと思ったけど、その目は閉じられていた。
穏やかな表情だ。
それなのに……なぜだかとても、寂しそうに見える。
寂しそうで、美しくて、惹きつけられる。
まさに今、彼の真上で輝く月みたいだと思った。
冷たく冴え冴えとした、美しくてはかない月。
「……?」
ふいに曲が切れ、目を開けた先輩がこちらを向いた。
(気づかれた……!)
ものすごい罪悪感に駆られて、僕は硬直する。
「あ……えと、あの……」
うろたえていると、先輩はふっと口元を緩めて笑った。そして唇の前に、人差し指をすっと立てる。
『ナイショだよ』
眼差しだけでそう告げ、彼は去っていった。
見てはいけないものを見た、という背徳感と高揚。
その日から、苦手だった人は気になる人に変わった。
「──麻青。どうかした?」
ふいに視界が先輩の顔でいっぱいになり、記憶の縁から現実に引き戻された。
「あ、すみません……なんでもないです」
「そっか、ならいいけど。疲れてるなら無理するなよ?」
「はい、大丈夫です」
「ほんとかな。麻青は頑張り屋さんだから心配だよ」
人差し指の関節でコツンと額をつつかれる。ひやりとした指の感触に僕は首をすくめた。
(こういうこと、平気でするのに……)
それでも、この人を近くに感じられないのはどうしてだろう。
1年の頃なぎ先輩が苦手だったのは、どこか壁があるように感じていたからだ。
るー先輩や他の3年の先輩たちと同じく、優しいし気さくに話してくれる。
でも、なんとなく本心から笑っていないような気がするというか、一線を引かれているように感じていた。
いつも落ち着いていて、怒ったり慌てたりするところは一度も見たことがない。
白熱する話し合いなんかには積極的に入らず、一歩引いたところで静かに微笑んでいる、そういう感じ。
だから本心がつかめない。つかませてくれない。
(でもあの夜──初めて少しだけ、本当の先輩を見れたような気がしたんだ)
あの澄んだ歌声。
優しくて軽やかで美しくて、同じくらい寂しげで冷たくて。
普段の先輩が秘めている、何かに触れられた気がした。
(だから、気になる。もっと触れてみたい……)
そう願い、彼を目で追うようになって──ささいな興味だったものは、日を追うごとに大きくなり、僕の中に居座った。
惹かれている、ということなんだと思う。
でも、どうすれば近づけるのかまったくわからないまま時だけが流れ、気づけばもう先輩にとっては高校最後の夏だ。
部活は引退して、今回も照明の手伝いだけ。彼が卒業するまでに、あと何回会えるだろう。そして、何回か会えたところで何が変わるだろう。
卒業してしまったら、間違いなくもう会うこともない。
(卒業までだってわかってる。わかってるのに……)
それでもやっぱり、こうして会えばどうしようもなく心がさざめいた。
「じゃ、そろそろ行くね。あんまりあらたを待たせても悪いから」
残酷なほど滑らかにそう言って、先輩は歩き出した。
僕の心と先輩の世界は、相変わらずまったく別のところにある。
「はい……また」
去っていく背中を、じっと見送ることしかできない。
蝉時雨が、僕を押しつぶそうとするかのように空気を震わせていた。



