DOLLは月夜に恋してる


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 部屋に戻ると、なぎ先輩は布団の上に座り、窓のほうを見ていた。

「何してるんですか? 外に何か?」
「……いや。雨、やんだなと思って」
「ああ……」

 言われて窓に歩み寄る。レースカーテンは引かれているけれど、カーテンは開いたままの状態だ。レースカーテンをめくって見てみると、なぎ先輩の言う通り雨はやんでいた。
 雨雲も去り、空にはぼやけた月が浮かんでいる。今夜の月は半月よりやや膨らんだレモン型だ。

「──先輩。よかったら、庭に出てみませんか」

 背後を振り返って提案すると、なぎ先輩は瞳にかすかな驚きを浮かべる。

「庭?」
「はい。小さいですけど、一応あるんです」

 我が家は3階建ての戸建てで、玄関とは反対側にリビングから出られる庭がある。

「別にいいけど……なんで?」
「月が出てたから、なんとなく」

 なんとなく──月の下にいるほうが、先輩に近づきやすいような気がして。

(今日は先輩の苦手な満月でもないし……)

「あ、えと、寒くなかったら、ですけど……」

 遅れて、やっと体が温まったのによくないかなと思って続けると、先輩はふっと吐息をこぼすように笑った。

「いいよ、行こうか」
「……はいっ」

 僕はさっそくお父さんのカーディガンを借りてくる。先輩に渡し、自分も上着を羽織って、二人でリビングの掃き出し窓から庭に出た。
 ガーデンテーブルとチェア、それにお母さんが育てている花もあって、こじんまりとしているけれど整えられた庭だ。
 でも先輩の視線はさらりと花を眺めた後で、上に移った。
 まだ薄い雲は残っている。半透明の膜の向こうに見える、ぼんやりした月。
 僕も彼の斜め後ろから、同じように空を見上げる。
 雲のヴェールのせいで、位置は昨日とほぼ変わらなくても、月はより遠く、はかなく見えた。

「……麻青が演劇部に入ったのって、なんでなの」

 先輩がゆっくりとこちらを向いた。突然の質問に、僕は戸惑う。

(食事の時、お父さんとお母さんがあんな話したから……?)

 理由をきちんと話している相手は、あらた一人だ。ちょっと照れくさい話なので、他のみんなには『面白そうだと思った』とか『自分なら女役ができるかと思った』などと話していた。
 でも隠したいわけではないから、正直に打ち明けることにする。

「僕は、自分を変えたくて……自分を好きになりたくて、演劇部に入りました」
「……変えたくて?」
「はい。僕、小さい頃から外見こんなでコンプレックスだったし、性格も引込み思案でおとなしくて……学校で友達に『女の子みたい』ってからかわれると、すぐ泣いちゃうような子供だったんです」

 遠い記憶を思い起こす。子供の頃の僕は、守られてばかりの人間だった。

「そんな僕をいつもかばってくれてたのが姉さんでした。地区大会の時に会ったと思いますけど……」
「覚えてるよ。藍さんだよね」
「はい。姉さんはしっかり者で頼もしくて、なよなよしてる僕をいつも守って、引っ張ってくれてたんです。僕は桃香や希空からしたらお兄ちゃんなのに、お兄ちゃんとしては全然ダメで、全員が姉さんに頼ってました。でも姉さんは、大学進学で家を出ることになって……」

 姉さんがこの家からいなくなる。その現実が迫って、僕はようやくこのままではいけない、と思った。まだ小学生の妹と弟を、兄である僕が守っていかなきゃいけないと。

「こんな情けない自分のままじゃダメだ。引っ込み思案は卒業して、強くならないとって思ったんです。それで、高校入った時にいろいろ考えて……」

 部活紹介で、犀堂は男子校なので、女役をできる部員を切望していると言っていた。

「演劇部で女役をやれば、今までコンプレックスだった外見が活かせて、長所に変えていけるかもしれない。自分を好きになれるかもしれない。それに、度胸もつくと思って。人前で話すのとか苦手だったし、かなり勇気は必要だったんですけど」
「……なるほど。そんな理由があったんだ」
「……はい」

 僕にとっては人生最大の一念発起。話したものの、あらた以外に打ち明けるのは初めてだったから、反応が怖くてそわそわしてしまう。

「じゃあ麻青は──」

 人ひとり分あいていた距離を、先輩が一歩踏み出して僕の正面に立った。手のひらが、そっと頭に触れる。

「頑張って、すごく強くなったんだね」
「なぎ先輩……」

 額からこめかみのほうへ、ゆっくりと髪をなでる手。
 1回、2回。先輩の手が動くたびに、心臓がトクンと音を立てる。
 体の奥をきゅうっと握り込まれたみたいに胸苦しい。でも……うれしい。

「すごく強くとは、まだまだ言えないですけど……だいぶ変われたかなとは思ってます」

 少なくとも、中学までの自分より、今の自分が僕は好きだ。

「でも両親が言ってた通り、本当に先輩たちのおかげなんです。最初は何するのも緊張で眩暈そうだったけど、先輩たちが丁寧に教えてくれて、励ましてくれたから、だんだん楽しくなっていって……」
「たしかに、最初は発声もエチュードもボロボロだったな。声震えてたし」
「そ、そんなはっきり言わなくても」

 クスッと笑われ、ついむくれた声を出した。先輩は「ごめんごめん」と謝って、僕の頭に置いていた手を離す。

「けど、謙遜しなくていい。今の話を聞けば、どれだけ努力して変わったのかよくわかるよ。頑張り屋さんだとは思ってたけど……オレが思ってた以上に、キミは強い。変わるのって、そんなに簡単なことじゃないから」

 『オレにはできない』。
 言外に、そんな言葉が含まれているように聞こえた。

「……先輩も、変わりたいんですか?」

 先輩は答えず、再び月を見上げた。湿った空気が二人の間の静寂をしっとりと濡らす。
 僕は夜に白く映える先輩の横顔を、じっと見つめていた。

「……オレの養父母は二人とも教師で、すごくいい人なんだ」

 月を見たまま、先輩が話し始める。ひそやかな空間に落とされる声に、僕は黙って耳を傾け続ける。

「本当に、いい人。聖人君子って言葉はこの二人のためにあるんじゃないってくらい、綺麗な人たちなんだ。正しくて、清らかで、慈愛に満ちてて」

 そこで息をつき、困ったような微笑をたたえてこちらを向いた。

「ホームドラマなんかでさ、善人キャラが『いやそれは綺麗事だろ』ってツッコみたくなるような、いいセリフ言ったりするじゃない? そういうのをさ、偽善でもなんでもなく、本心から言えちゃう人なんだよ。ドラマの中の綺麗ないい人を地で行ってんの」

 僕はマンション前で見かけたお二人の姿を思い出しながら聞いていた。
 たしかに、教師と言われてすんなり納得できてしまう、誠実で実直そうなご夫婦だったとは思う。なぎ先輩のことも心から心配していて、息子として彼を愛しているのが伝わってきた。
 でもそれについて話す先輩の瞳は、複雑な苦悩に揺れている。

「オレのことも大切にしてくれてる。教育には熱心だけど進路を強制するわけでもなく、真面目に精一杯頑張っていればいいってスタンスだし。けどさ……与えられるものが綺麗すぎて、オレにはちょっと、息苦しいんだ」

 その苦しさが降りてきたかのように、先輩は目を閉じ、実際にゆっくりと長く息を吸った。

「あの人たちと一緒にいると、負の感情を持つことがとても醜いことに思える。どうして自分は施設に入れられたのかって、実の親への恨み言を言うのすら、間違っていて汚いことに思えた。だから言わなかった。あの人たちを困らせることはしたくなかったし」

(そっか。先輩はご両親を悲しませないために、いい息子であり続けてきたんだ。いろんな本音を抑え込んで……綺麗な言葉や笑顔で、それを隠して)

「だから先輩には演劇部やバイトが──『円城寺渚』を離れて、息抜きする時間が必要だったんですね」

 これまで先輩や実織さんから聞いていた話が、ようやくすべてつながった。

 演劇部で役柄という仮面をつけ、別人になること。
 デザインメイクで素顔を隠して、別人になること。

 全部、『円城寺渚』を完全に切り離すために、必要なことだったんだ。窮屈な環境で生き続けるために、そうやって心の均衡を保っていたんだ。

「そういうこと。演劇部に入ったのは、なんとなくだったんだけどね。どこかの部には所属しなきゃいけないし、運動部はダルいから文化部で適当に選んだ」

 犀堂高校は、部活所属が義務付けられている。積極的は活動までは強要されないものの、最低ひとつ、どこかの部に籍を置かないといけない。

「作り物みたいな自分にはお似合いかなと思って入ったんだけどさ。始めてみたら意外と楽しくて。別の人格になってる間は、他のこと考えなくていいから」

(じゃあ別人を演じる時間が息抜きになることを、演劇部に入って初めて気づいたんだ。だから引退後は、部活の代わりにバイトが必要で──)

「これからもそうしてやっていくつもりだった。……今回のことで、どうなるかわからないけど」

 地面に視線を落としてつぶやいた。悔恨と諦めがうかがえる、力のない声。

「……先輩は、ご両親のことが大好きなんですね」
「え……?」

 思ってもいない言葉を聞いたように、先輩が顔を上げてまじまじと僕を見る。
 でも僕は、自分の感じたことに自信があった。だってそうじゃなかったら、先輩はさっきみたいにつらそうな顔をしない。

「ご両親が好きで、できることなら同じように考えられる人間になりたい。二人の言葉に心から頷ける、偽りのない『いい息子』になりたい。でも、なり切れない。そう思ってるから、苦しいんでしょう?」
「…………」

 先輩は呆然と僕を見続けている。しばらく時間の止まったような沈黙が流れた。
 やがて先輩の瞳がさざ波のように揺れて、時間が動き出す。

「……やっぱ麻青って、時々怖い」
「えっ。こ、怖い?」

 予想外の反応にぎょっとしてしまう。うろたえる僕に、先輩は苦笑しながら、

「鋭くて怖いってことだよ」
「それって……」
「うん。多分、図星」

 右手でくしゃっと自分の髪を乱して、また月に眼差しを向けた。

「血が繋がってれば、オレも同じような人間になれたのかなって考えたりしてた。でも事実、養子になっても元は赤の他人で、同じにはなれなくて。他にもたくさんいる孤児の中からオレを選んでくれたのに、申し訳ないなって」
「申し訳ないなんて……」

(そんなふうに考える必要、絶対にない)

 当事者じゃないのに、断言する権利なんて僕にはないかもしれない。でも反射のように、強くそう思った。

(だって先輩も、お父さんとお母さんをちゃんと愛してる。感謝して、家族でいたいと思ってる。大事なのはその気持ちで、それだけで充分なはず)

 けれど先輩はきっと、自分のせいできちんとした家族になれていないのだと自身を責めている。責めて、でもやっぱり苦しくて、行き場のない葛藤を忘れられる場所を他で探して……。

「麻青のご家族を見てて、心底うらやましいなって思ったよ。遠慮なく何でも話せて、同じようにあったかくて。オレはどうあがいても、あんなふうな家族にはなれない」

 先輩が背中を向けた。僕より大きいはずのその背中がなぜかとても小さく見えて、僕はたまらず腕を伸ばす。引き止めるように、ぎゅっとすがりついた。

「……麻青?」
「ごめんなさい。先輩を苦しめて……」

 そんなつもりはなかった。でも結果的に、先輩にとってはつらい光景を見せつけることになってしまった……?

「麻青が謝ることじゃないよ。オレが勝手にそう思っただけなんだから」
「でも……」

 腰に回った僕の腕を、先輩がやんわりとほどく。体を反転させ、僕と向き合った。僕は先輩に腕をつかまれたまま、こわごわとその顔を見上げる。

「麻青の優しさはよくわかってる。探しに来てくれたことも、ここへ連れてきてくれたことも感謝してるよ。……正直、助けられた」
「なぎ先輩……」
「心配してくれてありがとう。でももう、オレのことは考えなくていいから。そう簡単にどうにかできる問題じゃないってのもわかったでしょ?」

 にこっと微笑まれ、僕は鋭いガラスで貫かれたように感じた。
 ああ、まただ。先輩はこういう時ほど、優しい顔を作る。笑顔の仮面ですべてを覆い隠して、遠くへ行こうとする。
 でも、嫌だ。恐れて、諦めて、遠ざかる先輩を黙って見ているのは──

(もう、嫌だ)

「優しさなんかじゃないっ……!」

 つかまれていた手を振りほどく。もう一度、その胸に飛び込むように抱きついた。

「僕は……僕は、先輩のことがっ……」

 僕がこうすることは迷惑だろうか。
 だけど、先輩は話してくれた。今までは秘めていた心の縁を覗かせてくれた。

(それが僕を納得させるためだけだったなんて……僕には思えないし、思いたくない)

「麻青」

 頭の上から抑えた声が降ってくる。落ち着いているようでいて、かすかにその声は震えていた。
 僕の中からあふれるものをとどめようとする呼びかけだ。それは言っちゃダメだよ、と。
 でも、僕はもう抑え込まない。ずっと言葉にすることは我慢していたけれど、もうしない。お人形みたいないい子でいちゃ、いつまでも最後の壁は壊せない。

「先輩のことが、好きなんですっ……」

 すがる腕に力を込めた。
 しがみつけば一番深いところに触れられるなんて思ってはいない。それでも、そうせずにはいられない。

 最初は、その硬質な美しさに惹かれた。人形のように綺麗な笑顔の奥にもっと違う何かがある気がして、どうしようもなく気になって引き付けられた。
 今はもう、彼の脆さや陰り、そして優しさを塗り込めるためのものだったと知っている。なぎ先輩はすべてを抑え込んで、笑っている。
 でも、それだって彼の優しさだ。大切な人を裏切らないための。大切な場所を壊さないための。
 そう気づいたから──僕はもう、この人の悲しい笑顔を見たくない。

「……なんでキミは、オレみたいなのにそんなに一途なの」

 先輩の右手が背中に回った。
 引き剝がされるかと思ったけど、そうはならない。けれど抱きしめ返すでもなく、ただ僕をなだめるかのように、そっと背中に触れている。

(そんなの……理由なんて、わからない)

 ただ、月夜の下で歌う先輩を見たあの日に、本当の彼の片鱗に触れた気がした。そのことに昂揚して、胸が震えた。
 あの夜に、始まってしまったんだ。

「……先輩は、優しい人です。周りのために自分を犠牲にするくらい……。でも、諦めてほしくない。先輩も、ちゃんと本当の先輩で、幸せになってほしい……」

 口を開いたのと同時に、ぽろぽろと涙がこぼれた。一度あふれてしまうと止まらなくて、あっという間に頬を濡らしていく。言葉の最後も、涙声になった。 

「……麻青は本当にいい子だよ。オレなんかより、麻青のほうが何倍も優しい」

 先輩の声は、波のない湖面のように凪いでいる。幼子に言い聞かすように、穏やかな声が紡がれる。

「だけどいい子すぎて、やっぱりオレにはまぶしいな。オレは、キミに想ってもらえるような人間じゃないから」

 背中に触れていた手が肩へと移った。左手も伸ばして、彼は両手で、僕の体をゆっくりと押し戻す。

「ごめんね」
「っ……」

 ズクンと、心臓が1回、大きく疼いた。涙で滲んだ視界で、先輩はやっぱり、凍える冬の月夜のように美しい笑みを浮かべている。

「明日、朝になったらすぐお暇するよ。ちゃんと家に帰るから、心配しなくていい」

 まだ先輩は僕の体に触れていて、すぐ目の前にいる。
 それでももう、彼は遠かった。僕の指先は、どうしても彼に届かない。

「……はい」

 うつむいて涙を拭った。「戻ろうか」と先輩が言い、離れていく。
 
 そうして言葉通り、日が昇るとすぐ、彼は朝食も取らずにこの家を出ていった。