DOLLは月夜に恋してる


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「4丁目15の8……あった、多分あれだ……!」

 実織さんから教えてもらった住所を頼りにたどり着いたのは、駅から少し離れた住宅街の中にある低層マンションだった。
 周囲を1階の窓が隠れる高さの生け垣に囲まれていて、少し先に垣根の切れ間が見えている。あそこがエントランスだろう。

(玄関オートロックかな……家の人が出たら、演劇部の後輩で、学園祭の舞台の参考にするのに……)

 道中で考えたそれらしい来訪の理由を、頭の中で再確認しながら進んでいく。
 近づくにつれ、反対側から歩いてくる1組の男女の声が耳に届いた。

「だって、今日でもう3日なのよ?」
「しかし、本人が心配ないと連絡してきているんだ。もう少し待とう」

(えっ……)

 僕はその場で足を止め、前方の男女を凝視した。
 50台前後くらいの男女。距離感が近く、夫婦のように見える。

(今の話って、もしかして……)

 僕の視線には気づかず、二人は会話を続けながらエントランスに入っていった。

「俺だって心配だが、渚を信じてやろう。きっと一人で考えたいんだろう」
「でも……本当に待つだけでいいのかしら」
「俺たちにあの子の気持ちをすべて理解することはできない。帰ってこないということは、俺たちは気づかないうちに、あの子の負担になるようなことをしてしまっていたのかもしれない」
「あなたの言うことはわかるわ。でも、今どこでどうしているのかと思うと気が気じゃなくて……」

(間違いない、なぎ先輩のご両親だ)

 もう距離があいてしまいそれ以上の声は聞こえなかったけれど、充分だった。
 なぎ先輩は家にも帰っていない。連絡はしているようだけれど、居所はご両親にも告げていない……。

(もしかして今も、なぎ先輩を探しに行ってたのかな)

 だけど見つからなかったのだとすれば、なぎ先輩は自らの強い意思でご両親と距離を置いているということだ。

(なぎ先輩、いったい何があったんですか。どこにいるんですか……!?)

 僕は踵を返して走り始めた。無駄だろうと思いつつも、マンションの近所や駅前、駅の反対側などを走り回って彼の姿を探す。

『家にも帰っていないと聞きました。心配で探しています』

 再度そうメッセージも送った。相変わらず既読はつかない。
 でも僕には他にできることがない。なぎ先輩がいそうなところの心当たりなんてひとつもない。
 僕は、あの人のことをまだほとんど知らない。あの人が胸の内に秘めて抱えているものを。

『今〇〇駅の近くにいます。連絡ください』

 もう一度、ダメ元のメッセージ。こんなことしかできない。何もできない自分が、悔しい。
 ぽつ、と、頭頂部に冷たいものが落ちた。

「雨……」

 朝から曇っていたけれど、もう日が沈んでいるので空模様の変化に気づいていなかった。見上げれば、夜空は厚い雲で覆われている。

「……どうしよう」

 そろそろ帰らないと家での夕食にも遅れてしまう時間だ。でも、帰る気にはなれない。
 傘を持っていなかったので見つけたコンビニに入って買った。店を出る時、自動ドアに書かれた店名と住所がなんとなく目に入る。
 馴染みのない、初めて来た土地。歩いたこともない道を歩いて、この辺りにいるかどうかもわからない人を探している。

(なぎ先輩が今、悩んでるかもしれない。苦しんでるかもしれないのに。僕にできることって、なんにもないの……?)

 もどかしくて、悲しくて、石ころを詰め込まれたみたいに息苦しくなる。
 雨が強まってきた。傘をたたく雨音を聞きながら、惰性のように歩き続ける。どうしても、駅へは足が向かない。
 会いたい。なぎ先輩に。

「先輩……」

 ラインのトーク画面をもう一度開いてみる。数分前にメッセージを送ったばかりなので、また送ろうとしたわけじゃない。あまり深く考えず開いたけれど、画面を見た瞬間、僕は目を見張った。

(既読になってる!)

 思わずスマホを握る手に力をこめ、顔を近づけて見間違いじゃないかと確認した。
 その時、画面に着信の表示が出る。音声通話だ──なぎ先輩から。

「もっ、もしもし!」

 即座に上ずる声で応答した。どくんどくん、全身が脈打っている気がする。
 電話の向こうからも雨の音が聞こえた。先輩の声は聞こえない。

「なぎ先輩?」

 待ちきれずに続けて呼びかけると、数秒間の沈黙のあと、ようやく反応が返ってきた。

『……麻青。オレんちのほう来てるってホント?』

 感情を削ぎ落とした、淡々とした声。弱々しいと言ったほうがいいくらい小さく、雨の音にかき消されてしまいそうな問いかけ。
 でも、やっとつながった。スピーカーの向こうに先輩がいる。安堵と焦燥がごちゃ混ぜの状態で、僕は早口になりそうなのを懸命に堪えて話した。

「はい。実織さんから聞いて。勝手にすみません、でも……」
『そこは予想ついたからいいよ。でも、なんで帰ってないことまでわかったの』
「マンションの前まで来た時、ちょうど先輩のご両親らしきお二人を見かけて……」

 会話から状況を察したことを、手短に説明する。先輩は「そっか」とだけ答えた。

『帰りなよ。オレのことは気にしなくていいから』
「無理です。できません」

 1秒も迷わずに告げた。帰れるなら、こんな馬鹿みたいに駆けずり回ったりしない。

「僕も、実織さんもりょう先輩も、ご両親も心配してます。今、どこにいるんですか?」
『…………』

 雨の音だけが聞こえる。雨粒が地面で跳ねる音。スマホを当てていないほうの耳に届く、傘をたたく音とは違う。それよりも遠く、雨で包まれた空間の音がしている。
 雨の中、世界にたった一人で立ち尽くしている先輩の姿が脳裏に浮かんだ。
 そう、彼はいつだって一人だ。でも、僕に連絡をくれた。そのわずかな希望に、僕はすがった。

「僕じゃなんにもできないかもしれないし、お節介だっていうのもわかってます。でも……心配なんです。会いたいんです。先輩っ……」

 きつくスマホを握り締めて祈るように目を閉じた。僕が黙ると、二人をつなぐものは再び雨音だけになる。

(お願い。悲しい世界に、先輩を閉じ込めてしまわないで)

 先輩の世界に降る音を聞きながら、僕は待った。

『──公園』

 つぶやくようにそれだけを言って、通話が切れる。

「公園……?」

 すぐに聞いた公園の名前をスマホで検索した。この街の外れにある公園だ。先輩の家とは駅を挟んでかなり離れているけれど、幸い僕は駅周辺にいた。

(走れば10分くらい……!)

 思うと同時に走り出している。高台に位置する公園で、道中はずっとなだらかな上り坂になっていて、雨の中全力疾走するのはきつかった。
 それでも走る。風を受ける傘がわずらわしくなってきて、途中からは閉じて走り続けた。
 前方に、小さな公園が見えてくる。滑り台やジャングルジムが、街灯の明かりで雨の中にぼんやりけぶって見える。

「先輩っ……!」

 その公園のほぼ中央に、彼はいた。
 傘もささず、全身ずぶ濡れで。月のない、黒い夜空を見上げていた。

「なぎ先輩!」

 駆け寄る。先輩はわずかに顔をこちらへ向け、額に張りつく長い髪の隙間から僕を見た。

「……麻青」
「何やってるんですか、先輩! 傘もささないで!」
「……麻青だってさしてないじゃん」

 責めるでもなく、電話の時と同じ無感情な声が返ってくる。

「こ、これは走るのに邪魔だっただけで……!」

 僕ももうけっこう濡れてしまっていたけれど、急いで傘をさして二人の上に掲げた。
 もう一方の手でジャージ入れの中からタオルを取り出す。部活で使ったものだけど、そんなこと気にしていられない。
 先輩は髪も服もびしょ濡れだ。それでもやらないよりはマシだろうと思い、タオルを先輩の頭に被せた。

「拭いてください」
「オレはいいよ」
「いいから、拭いてください!」

 僕が手を伸ばしてゴシゴシやると、ようやく先輩は「わかったよ」と言って自分で拭き始める。やる気のない手つきだったけれど、髪からぽたぽた垂れる水が止まるくらいにはマシになった。

(先輩……私服だ)

 細身のデニムに黒のカットソー、グレー系のジャガードチェックのカーディガン。それにデイバッグを持っている。月曜日、学校に行こうとした様子はない。

「もしかして、日曜から帰ってないですか……?」
「うん」

(じゃあそこから考えたら4日目……)

 連絡しているとはいえ、ご両親が心配されるのも無理はない。
 何があったのか聞きたい。でもここまで濡れている先輩を見ると、まずは体への負担が心配だった。

「とにかく、着替えて体を温めないと。駅のほうに──」
「本当の母親が、オレに会いたいって言ってるらしくてさ」

 口から地面にこぼれ落ちたような力のない声が、僕の言葉に重なった。

「……え?」

 うつむきがちな先輩の表情が見えなくて、僕は下から覗き込むように目を合わせようとする。
 一瞬だけ視線が交わった。けれどなぎ先輩はすぐにまた、自分の足元を見て抑揚のない口調で続けた。

「養父母が先に会って、事情を聞いたんだって」
「っ……」

 まさか自分から事情を話してくれるとは思っていなかった。その驚きと内容の重さに、僕はとっさに返す言葉が思いつかない。

「オレの知らないところで、いつの間にかそこまで進んでて。日曜の夜に親から聞かされて、どうするか決めなさいって言われたんだけど……」

 そこで先輩は口を閉じた。唇の端が片方だけ上がり、苦い笑みを形作る。

「……けど?」

 このまま続きを封じ込めてしまわれそうで、僕はおそるおそる促した。

「やむを得ない事情があったんだから、許して会ってあげるべきだって。はっきり言われたわけじゃないけど、そういう感じなんだよね」

 さっきよりもくっきりと、その顔に感情が浮かぶ。眉を寄せて、目を細めて。泣き笑いのような表情だった。

「まぁ、あの人たちならそう言うのは納得なんだけど。引き取られてからもよく、『憎しみは何も生まないから、どこかにいる本当のご両親にも感謝の気持ちを忘れずに』って言われてたし」

 僕は、なぎ先輩のお父さんが言っていたことを思い出した。

『帰ってこないということは、俺たちは気づかないうちに、あの子の負担になるようなことをしてしまっていたのかもしれない』

「──んで、冗談じゃないとか思っちゃって、家飛び出しちゃった」

 拭いてもまだ濡れて束になっている髪を、先輩は右手で乱暴に掻き上げた。そのまま上向き、透明のビニール傘越しに空へ目をやる。
 雨粒と黒い雲がすべて隠し、何も見えない空だけれど。あるいはそれこそが、今の先輩の心を映しているのかもしれない。

「いい息子でいられるよう頑張ってたんだけどなぁ。さすがにあの状況で笑って『うん』って言うのとか無理ゲーで、今までの苦労全部無駄にしちゃった」
「……だから、ずっと帰ってないんですか?」

 ご両親はとても心配されていた。間違いなく彼らは、なぎ先輩が戻ってくることを願っていたけれど……。

「……どんな顔で帰ればいいかわかんないし。まだ返事、できそうにないし」
「……そうですか」

 だからこの数日、先輩は帰らず、一人でどこかにいたんだ。4日間も、いったいどこで過ごしていたんだろう。夜はどうしていたんだろう。
 実織さんだって、演劇部のりょう先輩やるー先輩だって、もちろん僕だって、なぎ先輩が助けを求めれば喜んで手を差し伸べたはずだ。一緒にいたり、泊めてあげたり……何かしら力になりたいと思う。
 でもなぎ先輩は、誰にも助けを求めない。自分の中に閉じ込めてしまう。自分と周囲とを隔ててしまう。

 僕がするべきなのは、彼を包み込むことだろうか。それとも、壊すことだろうか。
 ……まだ、よくわからない。どうするのが正しいのか、簡単には判断できない。
 だけどわかっているのは──やっぱり僕は、少しでもこの人の傍にいたいということ。

「わかりました」

 僕はタオルを握っている先輩の手に、そっと自分の手を添えた。

「僕のうち、来てください」